◆0005 若月
二月三日。
慌ただしい声に私は起こされ、まだ起ききっていない脳にお構いなしのお嬢の姿が飛び込んできた。
今日はシクラメン・ピンク色のワンピース姿だ。
「若月っ! 今起きたの?」
焦っている。
「どうかしましたか?」
白のカッターの上からがばっと紺のセーターを被り、洗面台の鏡の前で寝癖を確認した。
お嬢は扉を開け放したまま、ズカズカと遠慮なしに入ってきて、私が寝癖を直そうと四苦八苦しているのに、腕を掴んでどこかに連れて行こうとする。
「大祖父様の部屋で何かあったみたいなの」
「部屋?」
東雲司郎の部屋、というと一階の南端の部屋のことだろう。
一階は大接間と玄関ホール、書斎に料理人の金井の部屋、キッチン。
そして南側に大祖父様の広い部屋がある。南側は庭に面した一番良い部屋だ。しかし、東雲司郎が死んで五年、まだあの部屋は司郎の部屋のままのようだ。
「司郎様の部屋がどうか?」
「解らない。とにかく行ってみましょう」
こんな髪で出て行ったら、酒井だけでなく仁様と桜子様にも笑われてしまう。
「ちょっと待って下さい。今髪を――――」
「髪? こんな大事な時に何言ってるのよ。そんなのどうでも誰も気にしないわ」
「しかし・・・・・・」
結局、私はお嬢に連れられ、髪を両手で押さえつつ、東雲司郎の部屋へ向かうことになった。
階段まで来ると、騒々しい声が多数聴こえてきた。みんな既に起きていたらしい。特に仁様の声が二階の踊り場まで届いている。
お嬢は私の背を押して早く下に行こうとする。階段を降り始めるともう一人、三階から降りてきた。
昨日紹介された蘇芳様の友人で、名は、そう貝塚悠基さんだ。
ジーンズにからし色のトレーナーというラフな格好に、口に火のついていない煙草を咥えている。服のせいか昨日よりも若くなったように見えた。
「おはようございます」
先に挨拶され、私もお嬢も返したが、話題はすぐに階下の騒ぎになった。
「何があったんでしょう?」
私の問いに貝塚は眉を寄せた。
「さぁ、俺も今起きたばかりだからな」
「蘇芳兄様は?」
私達は踊り場に立ち止まり、降りてくる貝塚を待った。
「あいつは俺より先に起きてた。コーヒーもらってくるとかなんとか言ったまま、なかなか帰ってこないんで、俺も下に行こうと」
ちょうどその時、先頭の私は一階の床に着いた。仁様が大接間に入って行くところが見えた。
「お父様っ!」
お嬢の声に顔を向けた仁様は、朝から疲れたふうに首を振った。
「大祖父様の部屋はどうなっているの?」
「片付くまで誰も中には入らないでくれ」
ぼそっとそう言うと、今度こそ大接間に入ってしまった。
何があったのかわからないまま、お嬢に付いて、私と貝塚は南部屋に行った。
大祖父様が生きていた頃、南の部屋は掃除のため許された者しか入ることができなかった。
庭から部屋の中を見られないよう、ブラインドが常に掛かっていたし、大祖父様に会うのも夕食時のみで、部屋にこもりがちな方だったせいか、誰とも親しくしていなかった。
それに誰も望んで彼と話そうとは思わないに決まっていた。陰険な影を漂わせ、口を開けば文句しか出てこない。典型的な頑固で意地悪な老人。
その部屋に近づくに従って変な悪臭がしてきていたが、私は気のせいだと思い、黙っていた。
しかしその部屋に入った途端、私達三人は我が目を疑った。
部屋に無数のグロテスクな固まりが飛び散っていたのだ。
始め、私はそれがよくできた紅い生花、薔薇に見えた。真っ赤に散った花びら、いや違う。
私のすぐ後ろで、お嬢が胸を押さえてよろめいた。
思わず廊下の隅に寄って吐きそうになっているお嬢の背を、近くにいた貝塚が擦り始める。
私はしばらく呆然と突っ立っていた。
その薔薇は見れば見るほど花にしか見えなかった。しかし、血生臭い匂いが花ではなく、それが何か、そう何かの肉でしかありえないのだとしっかり伝えていた。
「もういい・・・・・・」
お嬢は部屋の中が見えない廊下で座り込んでいる。
少し吐いただけだったが、まだ真っ青な顔をしていて苦しそうだ。
貝塚が頷くと、軽々とお嬢を抱き上げ、二人が行ってしまうと、私は一人何かの臓器が飛び散った部屋の前に残された。
窓のブラインドは全開で、冬の寒々しい庭や曇った空まで見えている。
庭からこの部屋に入ったのだろうか? だが、こんな事にどんな意味があるのかさっぱり解らない。
お嬢と貝塚が出て行って二、三分経っていたのか、背後に人の気配を感じて私は振り返った。
戻ってきた貝塚が立っていた。
「お姫様は便所。あの調子じゃ胃液まで吐くぜ」
「・・・・・・」
心配だったが、私はどうしてもこの部屋について誰かと話したかった。何故か自分でも解らないが、私はこの紅く染まった部屋が神聖な気に満ちていると感じた。宗教上で云う祭壇のような。
私は宗教は信じない。しかし今この部屋はまさに尋常ではなく、非現実的に神がかっている。
「どうしてこんな事したんでしょう?」
「さぁ、・・・・・・あっ!」
貝塚が何か見つけたのか大声を上げた。
「髪、跳ねてる」
「えっ?」
何を言われたのか理解するのに一瞬かかった。
貝塚は私を指差して、
「若月さんってもっと几帳面な人かと思ってたから、びっくり」
と爽やかに笑った。
血の海と化した部屋の前でする会話らしくなかった。
私が髪を手で押さえると、彼は部屋を見渡した後、顔をしかめたままズンズンと入って行った。
「貝塚さんっ、入っては――――」
私は焦って駆け寄り、彼の腕を掴んだ。しかし立ち止まってなお、彼の視線は一点に集中していた。目一杯開け放されたブラインド、その窓辺に。
なんてことはない。庭へ出ることができるガラス戸の引き手には血がべったりとついていた。
やはりここから侵入したのだろう。
掴んだ貝塚の手はやけに熱かった。私は掴んだままでいたことに気づいて手を放した。
「・・・・・・お嬢さんのところに行かなくていいのか?」
私は返答しなかった。
目の端々に元は何かの身体に詰まっていた臓器が映る。ウインナーみたいなものや千切れた糸を引いたもの、くねくねした膜、まるい血の固まり。それらが私の前で横たわっているのは、気持ち悪さを超越した不思議な感じだった。
「俺は蘇芳を捜しに行くけど」
「じゃあ私はお嬢のところに」
私達はあっさりその場で別れた。あまり実りある会話にはならなかった。貝塚の性格がいまいち掴み取れないせいだろう。変わった人だと思う。私はああいう人に出会ったのは初めてだ。
私が厨房と金井の私室に挟まれた手洗いの前に来ると、お嬢がまだ青い顔をして出てきた。つらそうにワンピースの胸元を押さえて私を見上げる。
「あれは何なの、どうして・・・・・・」
綺麗なシクラメン・ピンクの胸元は一部分だけ洗ったのか、変色している。その部分をぎゅっと握って、お嬢は私の横をすり抜けるように歩き出した。
何か言葉を掛けたかったが、考えているうちにお嬢は消えていた。
お嬢が昨日言っていた殺人鬼の仕業なのだろうか?
今朝の事件が何を示しているのか私に解るはずもない。しかし、一週間ここにいると約束した以上、巻き込まれてしまったことは想像に難くないことだった。
たった一本の電話。それだけのことが私の人生さえ左右してしまうかもしれないとはこのときでさえ、まだ私は思いもしなかった。




