◆0003 若月
お嬢は昨日、学校の帰り道、私の車を避けて裏門から帰った。
その原因がバレンタインのチョコレートを買うためだったことを知って、私はひどく後悔した。お嬢が私に問い詰められても口を割らなかったわけだ。
私は赤い包みをそっと開け、中に物静かに納まっていたハートのチョコをひとつ食べた。お嬢ももう十二才、バレンタインにチョコレートを買う年頃なのだ。
初めてお会いした時、子供にしては子供らしくない。生意気で頭が良いが扱いづらそう、といった印象しか受けなかったが、今は大人になるにつれて、もっと扱いづらくなりそうだという不安が先行している。
最近は前よりガードが厳しくなった。何処にいるのか解らないこともある。お嬢の社会が私なしに形成されていっているのが解る。学校の話も前ほどしてはくれない。お嬢と話すのは勉強の時間と学校の送り迎えくらいのものだ。
「お嬢」
「なぁに、若月?」
英語のテキストから顔を上げたお嬢は、大きなどんぐりまなこで私を見ている。
「そこはBが答えではありませんよ」
「えっ?」
テキストに目を戻す。
「じゃあAかしら?」
「お嬢、当てずっぽうではダメです。どうしてそうなるのかが――」
「若月、あたしもう疲れたわ。答えはC。そうでしょ?」
「お嬢、まだ始めて一時間ですよ?」
お嬢、これは夢なのか?
ここにいるのは、確かに自分とお嬢。しかし、私はこの屋敷から逃げ出したはずだ。
ああ、それこそが夢だったんだ。これが現実なんだ。
水の中? 薄い水の色・・・・・・。
ああ、天井か。
私はお嬢の勉強を見ていたはず。
起き上がると私の脳は正常に現実を直視した。
「倒れたのか」
情けない、彼女に会ったらどうしたらいいのか、そんな些細なことを考えていて倒れたなんて。
「おう、気づいたみてぇだな」
酒井の声が数メートル離れたところからした。
「しばらく寝てろよ」
「すみません」
扉の前にいた酒井は、そのまま廊下へ出て行った。
後でちゃんとお礼を言わなくては。
それから、まだぼうっとしている頭でここが昔自分の使っていた部屋だと認識した。
「やっと気づいたの?」
ベッドの足元で女性の声がした。
知らない、記憶にない声のように、私は真っ直ぐ、彼女を見た。
灰色のセーターに黒いスカート。彼女はゆっくりベッドの脇に回ってきた。
「若月」
彼女の声が震えて聞こえたのは、私の身体が震えているからなのか。
「若月」
いや、近づいた彼女の血色の悪い紫がかった唇は確かに震えている。
「お嬢?」
子供ではない、彼女はまるで初めて会った女性のようだった。
「綺麗になりましたね」
もう少し言いようがあっただろうとも思ったが、巧く言葉は出ないだろうとも思った。私にはこれが精一杯だった。
「若月」
「はい、萌葱様」
お嬢と呼ぶのは失礼な気がした。
「・・・・・・お嬢と呼ばないの?」
「ですが」
「若月、あたしはもう子供じゃないわ。あなたと対等に話ができるはずよ」
「そうですね」
応えながら、私は今までで最高の恐怖を感じていた。
お嬢が何を私に告げるのか、どういう行動に出るのか私には微塵も予測できなかった。
あれほど長い年月一緒にいたというのに。
「若月・・・・・・」
お嬢の灰色のセーターの毛糸が少しばかり口に入ってきた。
良い匂いがした。しかし香水とは違い、洗濯に使う洗剤の匂いだ。
それから、ただひたすらに柔らかかった。
「お嬢?」
私は急激に混乱した。
「お嬢、は、離してください」
「ダメ」
お嬢はさらにぎゅうっと私を抱きしめた。
ありったけの力を出しているのか、私は息苦しくてもがいた。
「若月は嘘吐きで最低だわ」
声の震えが前以上にひどくなっていた。泣いているのかもしれない。
私は抗うのをやめた。苦しかったが、我慢できないほどではなかった。
「あたし何も知らなかった。若月の家の事も、若月の事も」
お嬢の言うことは私には一種わがままに聞こえた。
私と彼女の関係は、あの当時は先生と生徒であり、屋敷の使用人とその家の娘だ。
私が自分の内情を彼女に話すなんてことは、先生が生徒に悩み事を打ち明けるようなもので、あり得ないことだった。
「若月」
お嬢はぬいぐるみでも抱いているつもりなのか、ぎゅうぎゅうと私にしがみついてきた。
私の脳は静かにお嬢を引き剥がすよう命じた。そして、現に私はその通りにしたのだ。
お嬢は嫌そうに少し抵抗してから、渋々離れた。
「お嬢、私は東雲に雇われていたんです。あなたの家族でもなければ、恋人でもない」
「そんなこと、言われなくても解ってるわ」
もうすっかり泣き止んだらしい。声はしっかりとしていた。
「では、私があなたに自分の事を話す必要などないこともお解りになるでしょう」
「だけど、」
「私の事など、お嬢には関係のないことです」
お嬢は何も言わなかった。昔のお嬢なら喰ってかかってるはずだ。
「若月、またここで働かない?」
「お断りします」
私はベッドから立ち上がり、一直線に歩いていき扉を開けた。
「どこ行くの?」
「ちょっと金井さんと話して来ます」
「ダメよっ!」
私が振り向くと、彼女は私を睨んでいた。
「嘘だもの。警察があなたを呼んでるなんて、あたしが金井に頼んだのよ」
「お嬢?」
「だって、そうでもしなきゃここには来てくれないでしょう?」
私がどういう想いでこの屋敷に戻ってきたのか、このお姫様は知らない。
この屋敷が私にとって、どういう場所なのか、だがそれを告げるわけにもいかないのだ。
「・・・・・・若月?」
「帰らせていただきます」
怒りより帰れる安堵の方が強かった。部屋の隅にあったトランクを手にする。
私はお嬢を置いて部屋から出た。
「若月っ!」
追ってくる声と彼女の足音。しかし振り返る気はもうなかった。
「待ってよ、若月!」
お嬢は私のトランクを持つ手にしがみついた。女性の力だ。振りほどける。
「あたし、あたしが殺されてもいいのっ?」
コンマ何秒かで理解した私がお嬢の顔を見下ろすのと、お嬢が次の言葉を放つのはほぼ同時だった。
「あたしの世話をしてくれていた留美が殺されたわ。・・・・・・殺人鬼がいるのよ。あたしを狙ってる。」
「留美さんは事故だったと聞きましたが、」
「違うわ。本当は殺されたのよっ!」
蒼白した顔に嘘は見えない。それでも、私を引き止める材料にはなり得なかった。
私はお嬢の手をそっと退け、トランクを右に持ち替えた。
歩き出しはしたものの、お嬢が静かになったのが気にかかる。ここで振り返ってしまうのが甘さだとわかっていたが、私は振り返り、止め処もなく後悔した。
お嬢は泣きもしなければ、睨んでもいなかった。そこにただ立っていた。
「お嬢?」
私はこういう時にお嬢がどういう手に出るのかまた解らなかった。
たった五年会わなかっただけで、こうも変わるものかと感心してもいいくらいだった。
「若月が隠してることは言わなくていいわ。この屋敷が嫌いならそれでもいい。あたしが嫌いでも、今はいいから。だから――――」
絞り出される言葉が真実だとしても、私は揺れなかった。それほど私にとってこの屋敷は堪えられない場所なのだ。
私がお嬢から目を逸らすと、お嬢は駆けてきて、
「どうして、あたしがここまで頼んでもダメなの?」
お嬢は信じられない勢いで私の頬を両手でつかみ、真っ直ぐ見据えた。
「お願い」
震える唇。揺れない瞳。
「お嬢、私じゃなくても蘇芳様をお呼びになればよろしいのではないですか?」
「蘇芳兄様も来ます。だけど・・・・・・あたし、解らないのよ。犯人が誰なのか。もしかしたら屋敷の者じゃないかとか、疑いだしたらきりがなくて」
彼女が言う殺人鬼がいたとしても、私には関係のないことだ。
「お嬢、私かもしれませんよ」
「違うわ」
お嬢は顔を背けた。それに沿って肩までの綺麗な髪が流れてついていく。
半分顔が見えないが、怒っているようだ。
「とにかく、私は仕事を休んで来ているんです。早く戻らないと」
お嬢は聞きたくないといった素振りで、胸の前で腕を組んだ。
「お嬢、それでは、お元気で」
私はさっさと廊下を歩き出す。
「待ちなさいよっ、卑怯者っ!」
私は歩き出した足をまた止めなければならなかった。
「お嬢、口が過ぎますね。私がいない間に随分じゃじゃ馬になったらしい」
「何よ、あんたなんか怒ったって恐くないわ」
言いながら声が震えている。お互いに気づいていた。
私は大きく溜め息をついた。仕方ない。私は塾長のアドレスが書いてある手帳をトランクから出した。
「一応電話してみましょう。一週間くらいなら休めると思います」
「ぬか喜びさせようっていうんじゃないでしょうね?」
すっかり疑い深くさせてしまったようだ。
しかし、お嬢が相変わらずわがままし放題なので私がほっとしたのも正直なところだった。変わっていないところが見られたのだ。
「ではお嬢、一週間私は何をすればいいですか?勉強でも見ましょうか?」
「遠慮しとくわ。あたしの大学がどこか知ってるの?」
「・・・・・・ああ、そうでしたね」
彼女が今は大学生であることを忘れていた。
「若月の出た大学よ。学部は違うけど」
ということは、お嬢はT大生ということだ。昔から頭の回転は速かったから当然といえば当然だろう。
「ここから学校まで遠いんじゃないですか?」
私達は話をしながら、さっきまでいた部屋に戻った。
この屋敷は冬の間、部屋といわず廊下までも暖房しているせいか、季節感がまったくない。
部屋に戻った私達は、最近までの自分の話をし合った。
「じゃあ若月はその塾で小学生や中学生相手に勉強を教えているの?」
「高校生もいますよ。浪人生もね」
「ここに居たときと変わってないじゃない」
「ええ」
「・・・・・・」
何を思い巡らせているのか大体解ったが、私は黙っていた。
話さなくてもいいと言ったのはお嬢の方だ。
「お嬢、そろそろ私は当主と夫人に挨拶に行かなければ」
「あ、そうね。でもお二人とも帰ってらしたかしら?」
東雲屋敷が不穏な風に包まれていることに、私も、そして私を呼んだ萌葱でさえ、暖房に惑わされてそこまでは気づいていなかった。
殺人鬼は私達を見下ろしていたのに。




