◆0002 若月
夜明け前、一本の電話があった。
五年ぶりの金井さんからの電話だった。
内容は緊迫していた。
私はまた、あのお屋敷に戻らなくてはならない。
五年前、やっと逃げ出せたあの屋敷へ。
金井さんは東雲のお抱え料理人だ。
昨夜、東雲の女中が一人死んだ。
だが、話はそれだけではなかった。
あきらかに他殺だったその死体の裸の背に、黒いマジックのようなもので、
『東雲司郎の呪詛』
そう書いてあったという。
私はこれにより、東雲の大祖父様が亡くなるまで働いていた者ということで、警察と話すために一度お屋敷に来るように言われたのだ。
本来なら、もうくぐるはずもなかった門をくぐるために、私はその日の朝早く、出てきた時と同じ身を切るような冷たい風の中、東雲屋敷に向かった。
駅の改札を出ると、東雲の迎えが来ていた。
まだ時刻は午前七時を過ぎたばかりだ。
「はじめまして。東雲の萌葱様の運転手で酒井と云います。お荷物はトランクへ」
「こちらこそ。若月草太です」
酒井は中年の少しお腹の出た背の低い男だった。
彼は私の差し出した手を、グローブを小さくしたような分厚い手でグッと握った。
それから私達は萌葱の緑色のパジェロ・ミニに乗り込み、お屋敷へと向かった。
一九九八年二月二日。寒い朝は不吉な電話で始まった。
ほとんど揺れを感じない車は着実に私を屋敷へと連れてゆく。
屋敷の青い切妻屋根が、深い林越しに見えてくる。
そして、遂に私は門まで来た。
塗料が剥げたからか、門の色は昔見たのとは違い、鈍い金色から輝く銀色に変わっていた。
門のてっぺんには幻獣と云われている麒麟が、冬にしては珍しく晴れ渡った空を見上げて口を開けている。
「酒井さんは、その殺された方とは顔見知りだったんですか?」
私は怖かったのだ。近づいてくる屋敷、それを取り巻いている何か見えないものが。
もちろん、最大に怖かったのは、屋敷にいるはずの彼女だ・・・・・・。
とにかくこの感情を彼との会話で消し去りたかった。
「ぶっそうだなぁ。殺されたって、ありゃあ事故だぜ」
「えっ?事故?」
「ああ、風呂場で転んで頭打ったんだ」
どういう事だ? 話が違う。
「金井さんの電話では殺されたって、」
「ああ、そりゃあいつのジョークだ。ブラック・ジョーク好きだからな、あいつ。しかも、その死んだ留美ちゃんにフラれたことありとくりゃ、それぐらい言いたくなるかもなぁ。彼女、屋敷に入ってまだ日は浅かったが、とにかくべっぴんでねぇ」
「はぁ」
私の溜め息を返事と受け取ったのか、酒井は勝手に話し続けた。
「俺だって彼女が近づいて来たときは、車のミラーで髪を整えたもんさ」
「付き合ってる方とかはいなかったんですか?」
「それがいないってんだよ。彼女性格も良くてねぇ」
私としてはこの場で引き返したい。できるものなら。しかし、そうもいかないのだ。
私はもうこの状況に順応するしかないと思った。
しかし、金井が大して仲良くもない私を騙すとは信じられない。
警察が呼んでいるとまで言っていたのだ。何か私に話したいことがあるのかもしれない。
「あんちゃんはまたここで働くのかい?」
「あんちゃんって、僕はもう三十五ですよ。からかわないでください」
「俺から見たら、まだまだあんちゃんだね」
「酒井さんはお幾つなんですか?」
「今年で五十二になる」
「とにかく、僕には――――」
「そうか、それだ」
「えっ?」
「『僕』だよ『僕』。そのインテリっぽい『僕』がいけない。男たるもの『俺』じゃなきゃ」
私は内心、この男のこういう偏った考えが面白くなってきていた。
「俺、ですか」
「ウーン、その髪型のせいもあるなぁ。長いんじゃないか?」
一応云っておくが、私は長髪ではない。
確かにこの頃忙しかったので、少し長めかとは思っていたが、襟足につく程度だ。それでも、まだ全然くくれるところまではいっていない。
「今度いい床屋を紹介してやるよ」
酒井はよっぽど自分の角刈りが気に入っているらしい。
「はぁ」
私はもうその話に興味はなく、深い林の先、青い屋根の東雲屋敷玄関へと意識は飛んでいた。
五年離れていたとは思えないほど、東雲屋敷は変わりなかった。外観を見るかぎり、ではあるが。
「若月くんは萌葱様の教育係だったんだろう?」
言いながら酒井は車を回して、玄関の裏手、八台の車が並ぶ駐車スペースに一回で入れた。なかなかの腕前だ。
「ええ・・・・・・」
「それはそれは」
良い意味か悪い意味か計りかねる言い方で酒井は車から降りると、のんびりと、まるで散歩でもしているかのように歩き始めた。
トランクをガタガタ引き摺り、私も付いて行く。
相変わらず緑の多い屋敷だ。桜子様の趣味だったかな。
私にとって、ひとつのこと以外はまるで古き良き時代を思い返す年寄りのように懐かしかった。
しかし、それもすぐに消える思い出である。
私には緑の木陰に、あの方が見えていた。
二十三歳のままのあの方。
それは幻だと、私の恐怖が作る脳の現象だと、そう云ってしまえるほど私は強くなかった。
頭の芯の方で、鈍い、それでも長く続く嫌なモノが広がり始める。
「おいっ、どうした!」
酒井が振り返るのが私に見えた。




