◆0010 蘇芳 若月
若月さんがさっさと出て行くと、それまで親父の悪口で盛り上がっていたはずの萌葱は大接間のゴージャスなふかふかソファに座った。
葵姉の誘拐かもしれない行方不明が気になるのか、若月さんに放って行かれたのがショックなのか計り兼ねる。
その横で瑠璃姉がエミの運んできた紅茶に口をつけている。無言で無表情、葵姉のことを心配している様子だ。
そして俺はというと、大接間を出て行こうとしているところだ。
いつからなのか気づかなかったが、悠基の姿が見えないのだ。
だいたいあいつは勝手気まますぎる。普通一言ぐらい声を掛けて行くもんじゃないのか?
葵姉のことはもちろん心配だが、俺はもうそういう感情が麻痺しているのかもしれない。
昔から誘拐という犯罪は周りでよくあった上に、俺自身経験者でもある。しかし、東雲の血族なら(しかも女ならさらに)、そういう面で耐性もあるし、危機感も強い。
俺はもう身に着けていないが、大学卒業するまでは服や鞄に発信機がついているのは当たり前、葵姉も瑠璃姉も合気道の有段者、萌葱はいまだに護身術を習っているし、三人とも催涙スプレーは常に携帯している。
つまり、そう簡単に連れ去られるはずがないのだ。まぁ、そうは言ってもやっぱり女だから心配は心配だけど・・・・・・。
「蘇芳、どこ行くの?」
扉に手をかけた俺に瑠璃姉がソファから声を掛けてきた。
「ああ、悠基を捜しに」
「ふうん、ね、あの人幾つなの? あんたと同い年?」
俺は手を扉から離して答える。
「いや、一つ上」
「ってことは二十三?」
「いや、あいつ四月生まれだから二十四だったと思う」
「ふむふむ、ばっちり圏内ね」
何が圏内なんだか、
「彼女とかいるの?」
「知らねぇよ、自分で訊けば?」
「あんたの友達にしてはかなりレベル高し」
婚約者のいる女でコレだもんな、俺が女性不信になったらどうする気なんだ。
「そういえば、ほら、あんたの大学の時の、何君だったけ」
「・・・・・・宮沢か?」
「そうそう、彼とちょっと似てるよね」
「どこが?」
大学のときのサークル仲間だった宮沢を思い出し、俺は顔をしかめた。確かにちょっと周りを気にしないところとか、女受けだけはいいところが似ている。
「なんとなく、雰囲気っていうの? ちょっとやさぐれ感があるわよね」
瑠璃姉にやさぐれてるとかって言われたくないだろうなぁ。
同時刻。
食堂から駐車場へ向かった私は、七台の車の間に酒井を見つけた。サイドミラーを一つずつ丁寧に磨いているところらしい。
「酒井さん」
「んん? 若月さん?」
私の声に顔を上げた酒井は少し顔色が悪く見えた。
「すみませんが、一台貸してください。桜子様をお迎えに行くことになりましたので」
「えっ、さっき会社へ向かったところじゃねぇか」
「ええ、そうなんですが」
ミラーを拭いていた布巾を乱雑に水の入ったバケツへ落とすと、酒井は慌てたようにポケットから鍵束を取り出した。
「今洗車したコイツと、奥にある黒のベンツなら使える。よし、なら俺が迎えに行こう」
「あの、私も桜子様に話があるので一緒してもいいでしょうか?」
「ああ、わかった。じゃあ横に乗ってくれ」
酒井が奥にあった黒のベンツの鍵を素早く開け、運転席に酒井が、助手席に私が座った。その時、私は背後に嫌な気配を感じた。
「よいしょっと」
しかも音声付きである。振り返った私は思わず声を上げた。
「か、貝塚さんっ!?」
「あ、大丈夫。お姫様は置いて来たから」
そうですか、良かった、と口から出そうになって、私は素早く首を振った。
「どうして乗っているんですか、私達はただ桜子様をお迎えに行くだけなんですよ? 屋敷で待っていたら・・・」
貝塚はベンツのソファを撫でている。
「いや、俺ベンツ乗ったことないんだ。俺のことなら構わないでいいから」
そういう意味じゃないんだが・・・・・・。
私は急いでいたことを思い出して、仕方なく酒井に車を発車させた。低いエンジン音が鳴り始める。
「葵さんって、蘇芳の姉さんでしょう?」
「え?」
突然出た固有名詞に私は過剰に反応している自分に気づいた。
「え、ええ。そうです」
「葵さん、何があったんだ?」
「なんだ、何かあったのか?」
そう言えば酒井は何も知らないのだ。しかし、親切に説明する気にはなれなかった。
「・・・わかりません。夫の二階堂様から連絡がありまして、数日家に帰っていないらしいです。一応、誘拐の線もあるし、これから桜子様と話しますが」
「家出じゃないのか?」
貝塚があきれた様子で言うと、今まで黙っていた酒井がそれをきっぱりと否定した。
「まさか、葵様は家出するような方じゃないよ。まぁ、俺も何回か会っただけだけど、そういうタイプじゃないぜ」
「そうですね、それに、二階堂様からの電話ですと、別にケンカしたわけでもないらしいです。いつも通りだったとおっしゃられていました」
葵様は確かに家出をするタイプではない。自我のあまり感じられない方だ。そう、桜子様のように・・・・・・。
いつも目線は伏せがちで、おとなしい色の服を好んで着られていた。誰に対しても分け隔て無い態度で接し、物静かな方だった。
私はあの方と数年、同じ屋敷で暮らしたが、その間一度も我がままを言っているのを聞いたことがなかった。怒った顔は、見たことがある。だが、怒鳴ったり叫んだりは一度もしなかった。何度かそういう彼女を心配したこともあった。それほど感情の起伏が少ない方だったのだ。
そんな方が家出なんてするだろうか? 親が決めた縁談を一度目ですんなりと受け、しかも、五年の間、ほとんど実家には帰らず都心の二階堂様のご自宅でうまくやっていた様子だったのに・・・・・・。
「葵さんって幾つ?」
「確か、今年で三十、だったっけなぁ」
貝塚と酒井が会話しているのが聞こえていたが、考え込んでいた私が、ふと我に返ったときには、桜子様が待つ駅前に着いていた。ついでに酒井の間違いを今更ながら正しておく。
「酒井さん、葵様は今二十八才ですから、今年で二十九才です」
「ああ、そうだったか」
酒井が駅のバス乗り場に車を乗り入れると、私達は駅の辺りを車内から見渡したが桜子様の姿はなかった。
私は助手席から降り、桜子様を捜しに行くことにした。風が身を切るように冷たかった。やはりコートを持ってくれば良かった、と後悔した。
駅のコンコースに入り、数店あるカフェを覗いて行くと、桜子様は一人、コーヒー専門店の窓際の席に座って物思いに耽っていた。
私は声を掛けづらかった。その横顔が葵様にそっくりだったからだ。もう何年も会っていないのに、桜子様の横顔で私は葵様を彷彿させられる。何度も、何度も。目の奥にこびりついたこの残像に時間は流れていないのかもしれない。過去も今も、その姿は色褪せることがない。
私は店に入って行き、桜子様に声を掛けた。
「お待たせしました。車の中で詳しく話しますが、何分こちらでも二階堂様の話ししか入手できていない状況です」
「ええ、わかってるわ」
動揺することもなく、平然と会話をしている桜子様と私は、まるで立場が逆転しているようだった。
心配しているに決まっているが、それにしては母親としてはその態度は淡々としていた。いや、桜子様の性格上、これは平然を装っているのかもしれない。よくわからなかったが、私の方が動揺しているのはあきらかだった。
先に車に向かった桜子様は、後部座席のドアに手に掛けて動きが止まった。
「貝塚さん?」
内側からドアが開かれて、貝塚がにっこり微笑んで「どうぞ」と言うのが桜子様の背後から見えた。
桜子様は振り返って私に困惑した表情を向けた。
やはり貝塚を連れて来るべきではなかったようだ。
車内は暖房のせいか、暑かった。コートも着ていない私が暑く感じるのだから、厚いジャンパーを着た酒井や毛皮のコートを羽織った桜子様は相当暑いはずだが、二人とも脱ごうとはしなかった。
「誘拐だったらどうするんですか?」
ふいに貝塚が口を開いた。
私は桜子様の返答を待ったが、彼女の口から告げられたのは考えられるパターンの一つにすぎなかった。
「主人はこういった事件で警察の手を煩わすのを嫌います。身の代金の電話によっては条件を呑むことも今の状況なら有りえるでしょう」
その返答には、みすみす誘拐された葵様に対しての非難も加わっているように聞こえた。
「・・・・・・誘拐じゃないとしたら、やっぱり家出ですか?」
まるで貝塚は私が訊こうとしていることを代わりに聞いているようだ。内容は私が訊きたいことと一致していた。
「そうですね、家出かどうか、私にはわからないわ。でも、どちらにしろあの子は大丈夫よ」
「どうしてですか?」
「あの子にはできる限りのことをしたわ。自分の身は自分で守れるように教えてきたつもりです。そういう意味では一番心配なのが蘇芳なのよ。蘇芳は昔から何度も誘拐されて、東雲の後継ぎだから当り前なのだけど、そのくせ鈍臭いから問題ばかり起こして、いつも屋敷中大騒ぎだったわ」
その頃のことなら私も覚えている。確かに一番大騒ぎしたのが、新聞沙汰にまでなった『蘇芳様誘拐事件:中学生編』である。あの時は大祖父様も部屋から出てきて大接間で警官相手に一悶着あって大変だった・・・・・・。
「もし、身の代金の連絡がなかったら、このままほっとくんですか?」
「まさか、ちゃんと東雲のルートで見つけ出します。葵もそれはわかっているはずよ」
「じゃあ、家出の線は薄いですね。見つかることをわかっていて家出なんかしないでしょう、普通」
確かに、その通りだ。ということは誘拐の確率が高まったわけでもある。
「話しが変わりますが、葵さんは屋敷の犬と仲良かったですか?」
本当に突然変わったので、桜子様は珍しく気の抜けたような声で「はぁ?」と言った。
「だから、屋敷の犬ですよ。ドーベルマンとか色々いたんでしょう?」
「え、ええ。そうね、あの子はあまり懐かれていなかったんじゃないかしら、そういうことは私より女中に訊いた方がよく知っていますよ」
犬のことで思い出したが、お嬢の愛犬キースの身体を見つける約束をしていたのだ。すっかり忘れていた。
そうこうするうちに、東雲屋敷へと車は戻ってきた。長い坂道の高台の上に東雲屋敷が見え始める。この屋敷の中に、まだ殺人鬼はいるのだろうか、その問いに答えられる者はまだいない・・・・・・。




