第35話 道中
八合目での入浴を終え、完全にリフレッシュした俺は脱いだ衣服と装備を身に纏い、再び登山を開始した。背後にはチワワと雪男がついてきているが、どうも様子がおかしい。遊びで温泉水をかける前とかけた後で見るからに雰囲気が変わっている。具体的に何が違うかと問われれば返答に困るが、チワワらしさにより磨きがかかったように見えた。聞けば分かることだろうが、いちいち話題に上げるようなことでもない。それよりも気掛かりなのは別のことだった。
「さて……そろそろ目的を明かしたらどうだ? 雪女」
俺はパーティの先頭に立ち、整備された登山道を進みつつ、話しかける。名前は知らんが中身を考慮すれば、この呼び名が妥当だった。
「…………」
チワワの後ろ。隊列の最後方にいると思わしき雪女は口を閉ざしている。このパーティ内で『赤霊山』に最も知見のある人物なのは間違いないだろうが、味方だと断定するのは危うい。七合目での活躍は見事なものだったが、そのたった一回の善行だけで見ず知らずの相手を信用するわけにはいかなかった。
「言えぬか。ならば質問を変えよう。何ゆえに頂上を目指す」
「登山中に死んだ恋人を弔うため」
「どうして今まで行かなんだ」
「一人では登頂できない理由があった」
「その理由とは?」
「九合目につけば分かる」
端的なやり取りを交わし、大まかな動機を把握する。どうやら、雪女の目的と登頂はイコールじゃないらしいな。具体的にどんな違いがあるのかは分からんが、自ずと明らかになるだろう。敵味方を判断するのは、少なくとも裏の思惑が明らかになってからだな。そこから関係性を構築しても遅くはないだろう。
「なるほどな。恋人が生前果たせなかった悲願を達成することで、弔いとするわけか。涙ぐましい背景だが、今のうちにハッキリ言っておこう。俺はお前のことを信用しておらん。道中で何かあっても、俺の命に危険が及ぶなら助けんぞ」
「勝手にしたら。私は私の思うがままにやる」
そこで会話は終了。他愛のない雑談を交えるほどの関係性でもなく、他に聞きたいことなどない。チワ公が終始無言だった点が気になるが、メンタルケアが必要な軟弱者のようにも思えない。何かあれば自分から口を開くだろうし、ここは黙々と登山に集中した方が建設的と言えるだろうな。
一歩、また一歩と慎重に足を進ませ、赤い雪が降り積もる登山道を前進し続ける。だが、ピタリと足が止まる。何かトラブルに見舞われたわけではない。元からそうだったと言うべきか、登山道の一部が崩落しており、進行が難しい状態になっていた。無理に進もうとすれば滑落する。飛び越えるにしては遠すぎる。攻略するには少し頭をひねる必要があるだろうが、登攀具を活用すれば不可能ではなさそうだ。
俺たちの進行中に起きた出来事でなくて良かったと胸を撫で下ろす一方で、もしやという予想が浮かぶ。とはいえそれをそのまま口にするのは気が引け、どう攻略するかを相談しようとした時。
「この崩落のせいで、恋人は死んだ」
俺があえて言及せずにいたことを雪女は自分の口から語り出した。どういう心境なのかは全く分からん。同情してほしいのか、感情を吐き出したくなっただけなのか。まぁなんにしても何の脈絡もなく語り出したわけではなく、きちんとした前置きがあったからこそ内容に対して違和感を持たず、スッと頭の中に入ってくる。
「ご冥福をお祈りする。それ以上のことは言えん」
しんみりとした空気が流れ、俺は差し障りのない言葉を選んだ。不慮の事故を冗談めかして笑いに変えようとするほど品性が腐っているわけもなく、真面目にコメントする以外の選択肢が頭の中に浮かばなかった。自分もそうなっていたかもしれない。似たような状況に置かれているせいか、とても他人事には思えなんだ。
「……道具貸して。このスーツの脚力なら向こう側に余裕で跳べるから、丈夫な縄さえあれば引っ張り上げられるよ」
「悪いが、信用できんな。類まれなフィジカルがあるのは七合目で理解できたが、それとこれとは話が別だ。俺たちの命をお前の手に預けることになる。お前が仮に逆の立場だったら、頼めるか?」
「それは……」
「決まりだ。俺とチワ公はこのまま上を目指す。お前は順路を行くがいい」
「え? なんで?」
「人工登攀は横移動に向いてない。失敗すれば振り子の要領で左右揺られ、滑落するリスクが高まるだけだからな。落ちても安定した足場がある場所を起点にしつつ、上方向を目指した方が安全だと考える。このような場合に備えて、道具をかっぱらってきたわけだしな。きちんと扱えるかは別の話だが」
背負ったバックパックを下ろし、ハーケン、ハンマー、ハーネス、カラビナ、フック、ロープなどの人工登攀に欠かせない道具を取り出し、準備を進める。
「その子犬はどうするの?」
「もちろんバックパックの中に入ってもらう。お前には渡さんよ」
「あっそ。勝手にやったら。一応、健闘は祈っとく」
そこで雪女とは別れることになり、俺は反り立つ壁を見上げていた。




