第33話 八合目
看板に描かれるのは、『赤霊山八合目』という文字。登山道は狭まっており、赤い雪が降り積もっている。そこへ歩みを深める度に、異様な気配が強まっていくのを感じた。目に見える雪男なんてのは可愛いもんで、目に見えない何かが登山者の正気度を奪おうとしているのがありありと伝わってくる。とっくの昔に狂っている俺たちはどうでもいいが、問題なのは目の前にいる正常な野郎だ。
「無事か、太っちょ」
見るからに足取りの重い円蒐に対し、一歩後ろにいる僕は問いかける。奴の存在は赤霊山攻略に必須だ。まともな精神状態の仲間がいなくなれば、恐らくパーティは全滅する。現実と幻覚が入り混じり、進行不能になるのは目に見えていた。
「あ、あぁ……なんとか。だが、これ以上先は正気を保証できんぞ」
苦しげな声音で返事をしつつ、ふらつきながらもどうにか登山道を前進している。一歩間違えれば、足を踏み外してしまいそうな危うさがあったが、僕の声が届いているのだから、必要最低限の正気度は確保していると思っていい。発狂状態に陥っていなければ仲間の分のダイスロールも可能だろうし、雪男の時と同様に、『正体を看破する技量』を発揮できる余地は残っている気がした。
それ以外の会話はなく、後ろにいる奴らが話しかけてくることもなく、僕たちは登山道を前進し続ける。富士山をベースにしているなら、人の手が入った道が頂上まで用意されているのだろうが、全く同じ仕様じゃないはずだ。
あくまでここはTRPGの仕様に乗っかった独創世界。使い手の想像力次第で、いかようにも手を加えることができる。平坦な道ばかりが続く物語なんぞ用意するわけないだろうし、ここらで何らかの色を出してくる気がした。
「こい、つは……」
先頭を歩く円蒐が足を止め、声を発する。何があるかは見えないが、斜面が終わって平坦な場所が広がっているのは見て取れた。思った通りというべきか、五合目以降、一合区切りのタイミングで必ずイベントが用意されている。今回も例に漏れず、九合目と十合目にも何かあると思っていいだろう。
ともかく、気にすべきは目の前の何かだ。僕たちの足を引っ張るものなのは間違いないだろうが、難易度にはムラがある。一回のダイスでどうにかなることもあれば、あーだこーだと頭をひねらせてようやく突破できることもある。山とTRPGの傾向を考えれば、登れば登るほどに難易度が増すのが自然だが、果たして……。
「は? こんなのってアリか?」
僕は平坦な場所に広がっていた光景に唖然とする。登山の疲れを癒せそうな都合のいいスポットに嬉しさよりも違和感が勝つ。
「あぁ……もう辛抱たまらん」
ごくりと唾を飲み、円蒐は身に纏っていた防寒用の衣を一つずつ脱いでいくのが見えた。誰得なんだと思わんこともないが、しょうもないツッコミは後回しだ。
「早まるな! 罠に決まってるだろ!!」
僕の忠告もむなしく、ザプンという音が響いた。モワモワと煙が立ち上り、「はぁ……」という染み入るような感嘆の声が聞こえてくる。
広がっていたのは、雪解けの温泉地帯。八合目からの眺めを一望できる場所だった。現実世界にもあるっちゃあるが、富士山に温泉はないはずだ。『赤霊山』ならではの光景と言えるだろう。眼下には夕焼けに染まる雲海もあり、ここまで登ってきた僕たちにとってのご褒美のように感じてしまう。
円蒐に引っ張られて、湯船に浸かりたい気持ちに駆られるが、僕は風呂に入る習慣がない。その対極に位置する存在であり、流されるように入浴すれば、僕の中にある狂暴な一面が欠けてしまうような気がしていた。
「おい、チワ公。お前も入れ。犬かきすれば溺れはせんだろう」
円蒐は呑気なことを口走り、こちらに向けて手招いている。
「馬鹿が。一人でのぼせ上がってろ。僕は周囲を警戒する」
誘いに乗ってやるわけもなく、背を向けて、辺りを散策することにした。後ろにいる奴らも同意見だったのか、文句も言わずについてきていた。
ザッと見たところ、温泉以外のギミックは存在しなかった。プレイヤーを貶めようとする意図は感じられず、製作者が何を考えているか全く読めない。骨を休ませて頂上まで登らせることが目的なら理解できるが、向こうは僕のゲームオーバー、つまりは封印が目的のはずだ。温泉なんてもんを用意するぐらいなら、雪崩とか滑落とかの強制イベントを実行するのが自然な流れと言えた。
歯が浮くような感覚というか、いまいちしっくりこないというか。いくら考えても裏があるように見えてしまう。というか、プレイヤーにとって不都合が生じる展開が起こった方が気が楽だった。先に消化してしまえば、少なくとも八合目での不運は発生しないだろうからな。
考えを連ねつつ、僕たちは一通りの散策を終え、ピタリと足を止める。これ以上は埒が明かないな。ここまできたら有識者に頼るのが筋ってもんだろう。
「おい、着ぐるみ女。ここについて何か知ってるか?」
チワワの姿をした僕は振り返り、背後にいる雪男に話しかける。言葉数は少ないが、話が通じることは実証済みだし、ここにいる誰よりも『赤霊山』に詳しいことは分かってる。まぁ、だからといって素直に答えてくれる保証はないが、答えの出ない問いについて悶々と考えるよりはマシな選択肢だった。
「この温泉は心の穢れを浄化する。それ以上でもそれ以下でもない」
透き通るような声音で彼女は端的に答える。予想の一つではあったが、断言されるなら製作者の意図が透けて見えてくる。このイベントは、ある意味で僕を殺す。封印よりも性質が悪い結果を及ぼす可能性がある。それは……。
「えーい、浸からぬなら、水鉄砲を食らえい!!」
完全に気を抜いた瞬間に、背後から一直線に飛んでくるのは浄化の水。
「――っっ!!!?」
ジュウウウという音を奏で、僕の意識は一瞬にして消し飛んだ。




