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待たせたな!  作者: 僧籍
第四部 北方防衛開放戦線

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98/113

ソヴィエト軍の越境 1-1 ソ連軍の進攻:1945年8月8日

挿絵(By みてみん)


第四部


1945年8月の対日参戦からのソヴィエト軍の動向は、第二次世界大戦の後半における日本の運命を大きく変えた。ヤルタ会談での秘密協定に基づき、ソヴィエトは日ソ中立条約を破棄して侵攻を開始した。


ソヴィエト軍の進攻:1945年


1945年(昭和20年):侵攻と占領


8月8日:対日宣戦布告


モスクワ時間午後5時、ソヴィエトは日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に対して宣戦を布告した。これはヤルタ会談での「ドイツ敗戦の3ヶ月後に対日参戦する」という連合国間の密約に基づくものだ。


8月8日:満州・樺太への侵攻開始

午前零時、ソヴィエト軍は満州(現・中国東北部)、樺太サハリン北緯50度線で一斉に攻撃を開始。圧倒的な兵力と機動力で「関東軍」を圧倒した。


8月11日:ソヴィエト軍が国境を越えて南樺太へ侵攻。真岡(現在のホルムスク)など各地で激戦が繰り広げられ、多くの民間人が避難を余儀なくされた。


8月18日:千島列島(占守島)への侵攻

ソヴィエト軍が千島列島最北端の占守島しゅむしゅとうに上陸。日本軍との間で激しい戦闘が発生した(占守島の戦い)。


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1945年8月のソヴィエト対日参戦による「満州侵攻」は、軍事的崩壊、民間人の悲劇、そして、ヨーロッパ戦線によって鍛え上げられたソヴィエト軍の圧倒的な電撃戦によって、混乱が入り混じった極めて凄惨な戦闘だった。ソヴィエト軍の主要な3つの軍事行動を軸に、日本軍の対応、民間人が受けた被害、そして当時の混乱した社会状況を記す。


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1. ソヴィエト軍による3つの主要軍事作戦と結果


ソヴィエト軍は総兵力約157万人を投入し、満州を三方向から包囲するように進攻した(満州戦略攻勢作戦)。


・後バイカル方面軍(西部) 大興安嶺突破作戦


行動: モンゴル側から砂漠と大興安嶺山脈を越えて進撃。日本軍が「通行不能」と考えていたルートを最新鋭の戦車部隊で強行突破した。


結果: わずか数日で満州中央部の新京(長春)や奉天(瀋陽)へ到達。関東軍の背後を完全に遮断した。


・第1極東方面軍(東部) 要塞地帯突破作戦


行動:  ウラジオストク方面から、日本軍が築いた国境付近の堅固な要塞地帯(牡丹江など)を攻撃。


結果:  最も激しい戦闘となるが、数的な優位と重砲火で日本軍の防衛線を粉砕。ハルビン・吉林方面へ進出した。


・第2極東方面軍(北部) 渡河・水陸両用作戦

行動: アムール川(黒龍江)とスンガリ川(松花江)を越えて進攻。

結果: 日本軍の北満防衛線を突破。赤旗アムール小艦隊を併用した機動力で、北から満州内部へ深く食い込む。


赤旗アムール小艦隊

河川での運用に特化しており、水深の浅い場所でも航行可能な河川モニター艦、砲艦、装甲艇などを多数保有していた。艦隊はハバロフスクを主要な拠点としていた。

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2.  満州戦・混乱の詳細


崩壊と略奪の始まり


8月9日:開戦


ソヴィエト軍: 未明に一斉進攻。空爆により通信網が遮断される。


日本軍(関東軍) 兵力の多くを南方や本土決戦へ転用していたため、実態は「張り子の虎」状態。作戦計画に基づき、国境付近の民間人を置き去りにして南部の通化方面へ撤退を開始。


8月12日〜14日:葛根廟かっこんびょう事件などの虐殺


避難途中の日本人開拓民がソヴィエト軍戦車部隊に追いつかれ、無差別射撃や轢殺により千人単位で死亡。また、暴徒化した中国人住民による襲撃も激化。


8月17日:各地で自決や玉砕が続く。


8月下旬:ソヴィエト兵による暴行・略奪の全盛期


ソヴィエト軍:占領地で日本人女性への集団暴行、民間人の時計や貴金属の略奪(「ダワイ(出せ)」が恐怖の言葉となる)、家屋の占拠が横行。


中国住民:満州国支配に不満を持っていた一部の住民や匪賊(武装強盗団)が、逃げ惑う日本人から食料や衣類を奪い、凄惨な暴行を加えるケースが多発。

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3. 日本軍・民間人・現地住民の動向と被害の構図


歴史的視点 満州での悲劇は、ソヴィエトによる条約無視の侵攻という「外的な暴力」と、日本軍が自国民を見捨てたという「内的な崩壊」、そして植民地支配への報復という「現地の混乱」、それに乗っかった共産主義者、犯罪者たちの蛮行が重なった、人類史上でも稀に見る複合的な地獄絵図であったと言える。


1945年8月のソヴィエト軍侵攻時、関東軍の「本隊」といえる総司令部や主力部隊がどこにいたのか、その実態は「開戦時」と「終戦直前」で大きく異なる。


司令部は当初新京(長春)にあったが、ザバイカル方面軍とシベリアからの第2極東方面軍によるソヴィエト軍の猛攻を受けて、朝鮮国境近くの通化へまで後退し、戦線を縮小し、最終防衛線を構築した。


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1945年8月9日のソヴィエト軍侵攻開始直後における、関東軍の主要な配置図と「本隊」の所在地を解説する。


当時、関東軍は広大な満州をカバーするため、主に第1方面軍(東部)、第3方面軍(西部)、第4軍(北部)の3つの大きな軍集団に分かれて展開していた。


関東軍 開戦時の布陣(1945年8月9日)


1. 関東軍総司令部(全軍の指揮所)


所在地:新京(現在の長春)


役割:満州国全体の軍事指揮。山田乙三総司令官以下、参謀たちが詰めていた。


状況:開戦直後、新京はソヴィエト空軍の爆撃を受けた。総司令部は10日には新京放棄を決定し、南方の通化への移動準備を開始しする。


2. 第1方面軍(東部本隊)


司令部所在地:牡丹江ぼたんこう


担当エリア: ソヴィエト沿海州との国境地帯。


状況:ソヴィエト軍が最も激しく、かつ最短距離で攻めてくることが予想されていたため、比較的有力な部隊が配置されていた。しかし、実態は兵員・装備ともに不足していた。


3. 第3方面軍(西部・南部本隊)


司令部所在地:奉天(現在の瀋陽)


担当エリア:満州西部からモンゴル国境、および南満州。


状況: 広大な砂漠と大興安嶺山脈を背にしていたため、ソヴィエト軍の大部隊は越えられないと想定していたが、ソヴィエト軍の機甲部隊に突破され、背後を脅かされた。


4. 第4軍(北部独立軍)


司令部所在地:孫呉そんご


担当エリア: ソヴィエトと国境を接する北満(アムール川沿岸)。


状況: 侵攻の第一撃をまともに受け、壊滅的な打撃を受けながらも、ソヴィエト軍の進撃を遅らせるために各地で絶望的な抵抗を試みた。



・総司令部(関東軍総司令部)の移動

関東軍の全軍を指揮する司令部の動きは以下の通りだ。


1945年8月9日(開戦時):新京(現・長春)

満州国の首都である新京に本部を置いていた。しかし、ソヴィエト軍の進撃速度が予想を遥かに上回ったため、開戦からわずか数日で新京の防衛を断念する。


8月14日から現在:通化つうか


総司令部は新京を放棄し、南部の山岳地帯である通化へ移転した。ここは「対ソ最終抵抗拠点」として地下陣地などの建設が進められていた場所だ。この移動により、新京や周辺に取り残された膨大な数の民間人は、軍の保護を失うことになった。


・主力部隊(方面軍)の配置

関東軍は広大な満州を守るため、主に以下の2つの「方面軍」に分かれていた。


第1方面軍(満州東部):牡丹江ぼたんこう付近

ソヴィエトの沿海州方面からの侵攻に備え、東部国境近くに布陣していた。ここで最も激しい戦闘(牡丹江の戦いなど)が行われたが、圧倒的なソヴィエト軍の物量の前に後退を余儀なくされた。


第3方面軍(満州西部・中央部):奉天(現・瀋陽)付近

モンゴル方面からの侵攻に備えていましたが、ソヴィエト軍が「通行不能」とされた大興安嶺山脈を越えてきたため、背後を突かれる形となり、十分な戦闘ができないまま南へ退却した。


・「本隊」の悲しい実態:空洞化

当時の関東軍は、かつての「精鋭」というイメージとは程遠い状態だった。


精鋭部隊の転出:1944年以降、サイパンや沖縄、日本本土決戦に備えて、関東軍の精鋭部隊(師団)は次々と満州から引き抜かれていた。


根こそぎ動員:穴埋めのために、現地の在留邦人を急遽召集した「根こそぎ動員」が行われたが、兵士としての訓練は不足し、武器も満足にない状態だった。

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