ソヴィエト軍の越境 1-2 満州東部の死闘:牡丹江(ぼたんこう)攻防戦
満州東部の死闘:牡丹江攻防戦
牡丹江は、満洲国東部における関東軍の重要拠点であり、鉄道開通を機に、日本人開拓団や満鉄関係者、民間企業が進出して急速に発展した一大工業・交通都市だった。人口約24万人を数え、そのうち約6万5千人が日本人だった。都市計画により碁盤の目状に整備され、立派な日本家屋や官舎が立ち並び、銀座通りと呼ばれる繁華街には多くの商店が軒を連ねていた。
商業の中心地の大平路、牡丹江河辺渡場、牡丹江官舎街、牡丹江警察学校、牡丹江劇場通り、牡丹江公園、牡丹江小学校、牡丹江日本領事館、牡丹江半島人繁華街、牡丹江満鉄病院、銀座通り、高岡号百貨店、満州興業銀行。慰安施設第二桃太郎、阿片窟、貧民街、多くの人がこの都市に住み、良い人もいれば悪いやつも居る、この時代の都市だった。
1945年8月。
満州の空は、ソヴィエト軍爆撃部隊が投下した焼夷弾の焦げ付いた鉄の臭いと、不気味なほど鮮やかな夕焼けに染まっていた。それは、一つの時代の終焉を告げる断末魔の輝きだった。
「来るぞ……。腹をくくれ」
泥にまみれた塹壕の中、第124師団の一等兵、島崎は震える手で「布団爆薬」(梱包爆弾)を抱きしめた。粗末な麻袋に10キロの爆薬を詰め込み、点火紐を括り付けただけの、あまりに原始的な、そしてあまりに重い死の塊。それは近代戦の論理を放棄し、精神力という名の狂気に縋るしかなかった組織の、最後の姿だった。
地平線の彼方、鏡泊湖の方角から、大地そのものを削り取るような地響きが迫る。ソ連第1極東方面軍の第5軍のT-34/85戦車の戦列だった。ソ連兵たちの荒々しい勝鬨が風に乗って届く。その頭上では、シュトルモビク攻撃機が、日本軍の陣地や歩兵、装甲車両を狙って、低空を不気味に旋回していた。
「挺身爆破、用意!」
上官の裂帛の気合が飛ぶ。対戦車砲は初日の砲撃で粉砕され、速射砲の弾薬も底をついた。島崎たちに与えられた唯一の戦術は、かつて大陸を震撼させた機動戦の面影など微塵もない、自らの肉体を「人間爆弾」に変える、ただそれだけのことだった。
「天皇陛下万歳ッ!」
島崎の隣にいた、まだ幼さの残る少年兵が、大声で叫び、塹壕を飛び出した。煙幕の中を疾走し、迫りくる巨大な戦車の履帯の下、死角となる懐へと滑り込む。一瞬の静寂。直後、地を揺るがす轟音とともに、10キロの爆薬が鋼鉄の怪物を下腹部から抉り取った。吹き飛ぶ鋼鉄の破片と、肉。島崎の顔に、温かい「何か」が飛散した。
「……次は、俺か」
島崎は、自らの震えを抑えるように布団爆薬を強く抱いた。かつて「精鋭無比」と謳われ、極東の守護神と自負した関東軍の矜持。それは今、この底なしの泥濘の中で、泥にまみれた絶望的な自己犠牲へとその形を歪めていた。
島崎は泥を噛み、遠く故郷の母の声を思い出した。しかし、次に耳に届いたのは、二両目の戦車が放つ冷酷な機銃掃射の音だった。島崎は、点火紐を指に絡め、泥の淵から地獄の平原へとその身を躍らせた。
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牡丹江の街を目前に控えた、名もなき丘陵の裾野。そこは地図の上ではわずかな窪地に過ぎなかったが、第124師団の生き残り、わずか数個小隊にとっては、この世の果てとも呼ぶべき終焉の地であった。
数10倍の兵力差。絶望という言葉すら、この戦場においてはあまりに軽く、空虚に響く。
空を切り裂くような金属音が響き渡ると同時、ソ連軍の誇るBM-13「カチューシャ」多連装ロケット砲の雨が降り注いだ。大地は執拗に、そして冷酷に耕され、凍てつく土と硝煙が混じり合って視界を奪う。一発一発が生命の限界を試すような衝撃波を叩きつけ、日本兵たちが潜む粗末な土壕を、人間の肉体ごと容赦なく押し潰していく。
しかし、噴煙が風に流され、わずかな静寂が訪れるたび、そこには信じがたい光景が広がっていた。
泥を噛み、ボロ布のようになった軍服を纏った日本兵たちが、死者の山から這い出してくるのだ。耳から血を流し、砲弾の圧力で眼球を真っ赤に染めながらも、彼らは震える手で三八式歩兵銃のボルトを操作し、立ち上がる。迫りくるソ連軍の歩兵集団に対し、乾いた銃声を一発、また一発と響かせ、侵略の歩みを物理的な意志の力で押し留める。
「撃てッ! 一歩も引くな!」
叫び声と共に、敵弾筒を抱えた兵士が、穴から身を乗り出した。前方わずか数十メートルには、黒煙を吐きながら迫るソ連軍の装甲車。兵士が撃ち出した擲弾が弧を描き、装甲車のハッチ付近で炸裂した。炎が上がり、鋼鉄の怪物が足を止める。だが、直後にはその兵士の胸を、ソ連軍のPPSh-41サブマシンガンの掃射が容赦なく貫いた。
彼らが守り続けているのは、軍事的な要衝ではない。背後に広がる牡丹江市街、そしてそこに取り残され、恐怖に震えながら避難の時を待つ数万の民間人――開拓団の女、子供たちの背中だった。
最前線の彼らは、自らが「捨て石」であることを誰よりも深く理解していた。
逃げ道はない。増援も来ない。彼らに残されたのは、泥にまみれた銃一丁と、同胞を守るという、あまりに純粋で悲痛な使命感だけだった。彼らは知っていた。自分たちがここで一分一秒を稼ぐたび、後方の誰かの一命が繋がっていくことを。
夕闇が迫る中、再び地平線を覆うほどの戦車のエンジン音が響き始めた。島崎は血に濡れたボルトを引き、次の一撃を待った。その瞳には、絶望を通り越した、静かな「覚悟」の光が宿っていた。




