表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
待たせたな!  作者: 僧籍
第三部 戦線を押し上げろ!

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
68/113

プロローグ ニューギニア島 ミン族との接触 異なる文明との出会い

ニューギニア島について、異なる文明、異なる言葉、異なる神話が存在する、未知なる島。

先遣隊、比良坂中尉の大冒険。 

第三部


1945年、ニューギニア島。鬱蒼と生い茂る原生林は、陽光さえも拒絶する緑の監獄だった。


沖縄から抽出され、この地へ派遣された第九師団の先遣隊。比良坂中尉が率いる小隊は、地図にない山岳地帯の深奥に足を踏み入れていた。湿気を含んだ熱気が肌に纏わりつき、兵士たちの軍服は泥と汗で重く垂れ下がっている。


「……中尉、前方です」


斥候の鋭い声に、比良坂は足を止めた。

シダの葉を掻き分けた先に広がっていたのは、日本という文明の尺度では到底測り得ない光景だった。


そこにいたのは、褐色の肌を露わにしたミン族の男たちだった。彼らは槍を手にし、驚くべきことに、その股間には細長い「ひょうたん」の先で作られた奇妙な装飾――コテカ(ペニスケース)を身に着けていた。顔には極彩色の泥で紋様が描かれ、鼻には獣の骨が突き刺されている。


「な、なんだあの格好は……」

「化け物か、それとも……」


隊員たちの間に、困惑と、得体の知れない生物を目の当たりにした時のような根源的な恐怖が走った。銃を構えようとする部下を、比良坂は手制した。


「待て、刺激するな。銃を下ろせ」


比良坂自身、心臓が早鐘を打っていた。彼らは明らかに異質な文明の住人だ。だが、その瞳には野蛮な敵意よりも、未知の侵入者に対する強い警戒と好奇心が宿っている。


比良坂はゆっくりと、誇張されたほど穏やかな動作で両手を上げた。手のひらを見せ、武器を持っていないことを示す。そして、視線を合わせたまま、一歩、また一歩とゆっくりと後退を始めた。


「全員、ゆっくりと下がれ。背中を見せるな。我々に戦う意志がないことを伝えるんだ」


静寂の中で、泥を踏む音だけが響く。ミン族の男たちは動かず、ただじっと比良坂たちを見つめていた。やがて、緑の帳が両者の間を再び隔てたとき、先遣隊は辛うじて一触即発の危機を脱した。


数日後、比良坂は司令部において、この「接触」を詳細に報告した。


報告を受けた参謀たちは一様に沈黙した。ニューギニア戦線の各地では、すでに日本軍による現地徴用や食糧を巡る略奪、そして文化的な衝突による凄惨な事件が「不幸な問題」として表面化しつつあった。統治の実績を作ろうと性急に介入し、結果として泥沼のゲリラ戦を招いた例は枚挙に暇がない。


「ミン族、か。彼らの風習、社会構造、言語……我々はまだ何も知らない」


司令官の言葉に、比良坂は深く頷いた。


「ハッ。不用意な接触は、彼らにとっても、我が軍にとっても悲劇を招く恐れがあります。今の我々に、彼らを導く余裕も理解もありません」


司令部が出した結論は、「極力接触を避け、現状維持とする」という苦渋の、しかし現実的な回避策だった。


「今は島を攻略し、大局を制することが先決だ。少数民族との共生という難題は、戦後、時間をかけて調査し、専門家を交えて解決すべき問題として後回しにする。今、我々の物差しで彼らを裁いてはならん」


それは、軍事的な支配を優先するための冷徹な判断であると同時に、未知の文明に対する日本軍なりの「畏怖」でもあった。


比良坂は、再びジャングルの奥地へと向かう準備を整えながら、あのひょうたんを身に着けた男たちの鋭い眼光を思い出していた。この島を「支配」するという言葉の重みと、その先に待つ途方もない時間の長さを噛み締めながら。


****


前回のミン族との接触から数週間後、比良坂中尉率いる第九師団先遣小隊は、さらに内陸の、霧深い渓谷地帯へと足を進めていた。


そこは、ミン族の住む山岳地帯とはまた異なる、不気味な静寂に包まれた場所だった。切り立った岩壁の間を縫うように流れる川の水は灰色に濁り、立ち込める霧が視界を遮る。


「……中尉、何かが、います」


斥候の兵士が、震える声で報告した。銃を構える彼の手は、寒さではなく、恐怖で強張っていた。


比良坂は双眼鏡を覗き込み、息を呑んだ。


霧の向こうから、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる影があった。それは人影のようだが、人間のものとは思えない、異様な姿をしていた。


全身が、灰色の泥で塗りつぶされている。


頭部には、不格好に肥大化した、不気味な泥のお面が被せられていた。お面には、うつろな穴のような目が二つ、そして不自然に歪んだ口が、嘲笑うかのように開いている。


彼らは、槍や弓矢ではなく、鋭く研がれた竹の棒や、奇妙な形の石斧を手にしていた。その動作は緩慢で、まるでこの世のものではない、亡霊の行進のようだった。


「……アサロ泥人間だ」


比良坂は、司令部で受けた少数民族に関する講習の記憶を呼び起こした。彼らは、敵を恐怖に陥れるために、この異様な姿で現れるという。


「撃つな! 全員、銃を下ろせ!」


比良坂は、再び部下たちに厳命した。ミン族の時と同様、敵意がないことを示すのが先決だ。だが、今回は相手が違う。アサロ泥人間の目的は、恐怖による威嚇だ。


比良坂は、ゆっくりと、しかし毅然とした態度は崩さずに、両手を上げた。そして、ミン族の時よりもさらにゆっくりと、後退を始めた。


「……中尉、彼らは、まだついてきます」


部下の声が、霧の中に溶けていく。アサロ泥人間たちは、一定の距離を保ちながら、比良坂たちを追尾していた。そのうつろな瞳が、霧の向こうからじっと見つめている。


比良坂は、焦りを悟られないように、慎重に足を進めた。泥に足を取られ、転倒すれば、一気に襲い掛かってくるかもしれない。


「……中尉、前方に、川があります」


斥候の声に、比良坂は一瞬、動きを止めた。川を渡れば、アサロ泥人間たちは追ってこないかもしれない。彼らは、水に濡れるのを嫌うという噂があった。


比良坂は、部下たちに川を渡るよう指示した。そして、自らは最後に川に入った。


川の水は冷たく、泥に汚れた軍服を濡らした。向こう岸にたどり着いた比良坂が振り返ると、アサロ泥人間たちは、川の手前で立ち止まっていた。


彼らは、霧の向こうから、しばらくの間、比良坂たちを見つめていた。やがて、一人、また一人と、霧の中に消えていった。


比良坂は、司令部にアサロ泥人間との接触を報告した。


「アサロ泥人間、か。彼らの威嚇工作は、想像以上に凄まじいな」


司令官の言葉に、比良坂は深く頷いた。


「ハッ。彼らの目的は、恐怖による支配です。不用意な接触は、彼らの恐怖を増幅させ、より苛烈な反撃を招く恐れがあります」


司令部が出した結論は、「アサロ泥人間との接触は、極力避ける」という、ミン族の時と同様の方針だった。


「彼らとの共生は、ミン族以上に困難だ。戦後、彼らの社会構造や宗教観を深く調査し、時間をかけて解決すべき問題として後回しにする。今は、彼らの恐怖の支配を、遠くから見守るしかない」


それは、軍事的な支配を優先するための冷徹な判断であると同時に、未知の文明に対する日本軍なりの「畏怖」でもあった。


比良坂は、再び霧深い渓谷地帯へと向かう準備を整えながら、あのアサロ泥人間のうつろな瞳を思い出していた。この島を「支配」するという言葉の重みと、その先に待つ途方もない時間の長さを噛み締めながら。


日本軍は彼らの「恐怖の支配」を理解することができないかったが、その背後には常に、近代国家の論理と伝統的な生活様式の衝突という不幸な側面が潜んでいたのです。


****


第九師団先遣隊がさらに内陸、見渡す限りの湿地帯と巨大な熱帯雨林が混ざり合う難所に差し掛かった時のことだ。


比良坂中尉は、部下の一人が空を仰ぎ見たまま固まっているのに気づいた。


「どうした、上空にか?」

「いえ……中尉、あれを見てください。木の上に、家があります」


見上げれば、地上から30メートルから50メートルはあるだろうか。巨大なガジュマルのような巨木の梢に、複雑に組まれた樹上家屋が点在していた。それが、外界との接触を拒み、空に逃れた「歩く樹上の民」コロワイ族の集落だった。


天空の住人との対峙


地上には、彼らが登り降りに使う、切り込みを入れた一本の丸太梯子が垂れ下がっている。比良坂が双眼鏡で上層を確認すると、樹上のバルコニーから、腰布一つを纏った細身の男たちがこちらを見下ろしていた。


「あんな高さに……。落ちれば即死だぞ」

兵士の一人が呟く。


コロワイ族の男たちは、手にした弓をつがえるでもなく、ただ静かに侵入者を観察していた。彼らにとって、地上は悪霊や敵対部族が跋扈する危険な場所であり、この高さこそが唯一の安息地なのだ。


比良坂は、これまでのミン族やアサロ泥人間との経験から、彼らの「沈黙」が何を意味するかを直感した。それは、不可侵の領域を侵された者特有の、深い警戒心だ。


梯子への接触と撤退


比良坂は小隊を樹下から数歩下げさせた。そして、友好の印として、手元にあった塩の小袋を丸太梯子の根元にそっと置いた。


「中尉、話しかけなくてよろしいのですか?」

「言葉は通じない。だが、空の上に住む彼らにとって、我々は地面を這う異質な存在だ。これ以上近づけば、彼らはあの梯子を引き上げ、二度と姿を見せないだろう」


比良坂はゆっくりと手を振り、部隊に後退を命じた。樹上の家々からは、子供や女たちも顔を出し、見たこともない軍服姿の男たちが去っていくのを、吸い込まれるような静寂の中で見送っていた。


司令部への報告と「棚上げ」の決断


拠点に戻った比良坂は、この「天空の民」についても詳細な記録を残した。


司令部は、ニューギニア内陸部にこれほど多種多様な、かつ互いに孤立した文明が存在することに驚愕を隠せなかった。同時に、彼らを「統治対象」として組み込むことの困難さを再認識した。


「コロワイ族か……。地上を捨てて空に住む者に、地上の法律を押し付けることは不可能だ」


参謀の一人が地図に書き込みながら言った。


「彼らのような少数民族との接触は、一歩間違えれば、日本軍が彼らの信仰や生存圏を破壊する加害者になりかねない。かつて他地域で起きた、言語や習慣の無視による悲劇を繰り返してはならん」


比良坂はこの方針を支持した。


「司令部の方針通り、彼らとの接触は戦後まで『保留』とすべきです。今、無理に彼らを地上に降ろそうとすれば、それは彼らにとっての死を意味します。時間をかけ、人類学的な知見を蓄積してからでなければ、我々は彼らと対等に向き合う資格がありません」


遙かなる共生への問い


比良坂は、夜の野営で遠くの森を見つめた。

あの大樹の頂には、今も静かに火が焚かれ、彼らの生活が営まれているはずだ。


「支配」とは、単に地図を塗りつぶすことではない。その地に住む者の魂に触れることだ。しかし、今の日本軍にはその準備も、心の余裕もない。


ニューギニアの深い森には、日本軍が手を触れぬまま「未来」へ託した、無数の異なる時間が流れていた。比良坂は、いつか銃を置き、一人の人間としてあの樹上の家を訪れる日が来るのだろうかと、現実味のない想像を巡らせるのだった。


****


比良坂中尉は、ニューギニアの深奥で繰り返される異文明との遭遇を通じ、ある根源的な予感に震えていた。


ミン族の誇り高い眼差し、アサロ泥人間の形を持った恐怖、そしてコロワイ族の天空へと逃れた静寂。それらに直面するたび、比良坂が感じたのは相手に対する優越感ではなく、自分たちが「文明」と信じて疑わなかったものの危うさだった。


鏡としての異文明


泥にまみれた軍服、腰に下げた十四年式拳銃、そして「大東亜共栄圏」という大義名分。それらは内地にいるときは空気のように当然の装身具であったが、原生林の住人たちの前では、不自然な物に見えた。


「我々は彼らを『未開』と呼び、調査の対象としている。だが、彼らの瞳に映る我々こそが、鉄の棒で火を吹き、森を焼き払う『理解不能な怪物』ではないのか」


比良坂は手帳にそう書き留めた。他文明との対話とは、言葉を交わすことではない。相手の存在を認めることで、翻って「では、自分たちは何者なのか」という問いを突きつけられる、己の文明との痛烈な対峙そのものだったのである。


「新技術」と「ひょうたん」の境界


本国で進む驚異的な技術革新、帰還艦隊がもたらした新素材、それらを結晶化させた新型戦車。日本軍は今、急速に未来へと加速している。しかし、その一方で比良坂の目の前には、数千年前から変わらぬ「ひょうたん」や「泥の面」と共に生きる人々がいる。


「鋼鉄を操る知恵と、樹の上に家を築く知恵。どちらがより『人間』として正しいのか、今の私には裁くことができない」


比良坂は、司令部が下した「接触の保留(後回し)」という決断の真意を、自分なりに解釈し直していた。それは単なる軍事的余裕の欠如ではなく、「異質な他者を、安易に自分たちの論理(文明)で塗りつぶしてはならない」という、本能的な恐怖に近い自制心だったのではないか。


司令部への最後の報告書


比良坂は、次の偵察に出発する前、司令部へ送る報告書の末尾に私見を添えた。


「我々がこの島を支配し、彼らに文明の恩恵を授けるという傲慢さを捨てることから、真の対話は始まる。彼らとの接触を避ける時間は、我々自身が『近代』という熱病から冷め、己の文明の限界を見極めるための猶予期間であると確信する」


終わりなき内省


ニューギニアの湿った夜気の中で、比良坂中尉は自分の掌を見つめた。

己の文明を疑うことは、己の依って立つ基盤を削ることに等しい。しかし、その苦痛こそが、異なる時間を生きる他者と同じ地平に立つための、唯一のきざはしであると彼は気づいていた。


比良坂は再びジャングルの奥地へと消えていく。今や彼の出撃は、単なる斥候任務ではなく、未知なる他者という鏡を通じて「日本人」という己の正体を探し続ける、果てなき巡礼の旅へと変質していた。


****


比良坂中尉は、斥候任務の合間に、かつて人類学を修めた軍医や、現地に長年帰化したわずかな協力者から、彼らの内面世界——シャーマニズムの深淵を聞き及ぶ機会を得た。


それは、近代合理主義に浸りきった比良坂の精神を根底から揺さぶるものだった。


垂直の絆:先祖と現在の融合


比良坂は、ミン族やコロワイ族が語る「時」の概念に驚愕した。彼らにとって、先祖とは「過去に死んだ人」ではない。今、この瞬間に自分たちの血肉を借りて呼吸し、共に森を歩く実在の同行者なのだ。


「我々は、時間を一本の線として捉え、過去を切り捨てて未来へ急ぐ。だが彼らは、螺旋の中にいる。数千年前の先祖の吐息を、今、自分の《自己意識》の中で感じているのだ」


自らの身体を通じて先祖と直結する。その直接体験こそが彼らの信仰であり、生活そのものだった。比良坂はこの感覚を知ったとき、自分が身に着けている軍服や階級、さらには「大日本帝国」という国家の枠組みさえも、果てしない時間の奔流の中では、いかに薄っぺらな皮膜に過ぎないかを思い知らされた。


宇宙の呼吸:個と全の照応


さらに比良坂を震撼させたのは、彼らがシャーマンを通じて体験する「宇宙」の姿だった。

彼らにとっての世界は、個々の人間、樹木、泥、星々がバラバラに存在する場所ではない。すべてが目に見えない霊的な糸で結ばれ、一つの巨大な生命体として呼吸している。


「一人の男がひょうたんを身に着け、森に立つとき、彼は宇宙の中心にいる。己がどこから来、どこへ行くのかを、彼は理屈ではなく『震え』として理解しているのだ」


比良坂は、夜のジャングルで瞑目した。

近代兵器を操り、効率と勝敗を計算する自分たちの意識。それは世界を「利用対象」として切り刻む刃だ。対して彼らの意識は、世界を「抱擁」し、その一部として溶け込む。

比良坂の中で、「己の位置を理解する」という意味が、座標軸上の点から、宇宙という旋律の一音へと、劇的に転換していった。


比良坂中尉の変容:軍人の皮を脱ぐ魂


司令部へ送る報告書の文体は、日を追うごとに変化していった。軍事用語の羅列の合間に、哲学的な思索が混じるようになる。


「我々が彼らを『支配』下に置こうとすることは、海をバケツで掬い取ろうとするに等しい。彼らの意識の中には、我々の近代が喪失した『永遠』が生きている。彼らを調査することは、我々が失った魂の断片を、鏡の中に探す行為に他ならない」


比良坂の目は、以前のような鋭い「斥候の眼」ではなくなっていた。

それは、獲物や敵を探す眼ではなく、森の呼吸と同調しようとする「秘儀参入者の眼」へと変わっていた。部下たちは、中尉が時折、何もない空間に向かって深く頭を下げる姿を目撃するようになる。


孤独な覚醒


「中尉、次の出撃準備が整いました」

部下の声に、比良坂はゆっくりと立ち上がった。

軍刀を帯び、拳銃を確かめる。その動作は以前と同じだが、心の中には静かな、しかし抗いようのない確信が満ちていた。


ニューギニアの深奥で、一人の日本軍将校は、近代という文明が作り上げた「自己」の檻を突き破りつつあった。比良坂中尉は、自分がもはや単なる「帝国陸軍中尉」ではなく、この巨大な宇宙の律動に連なる一欠片に過ぎないことを悟り、深い安堵とともに、再び緑の深淵へと足を踏み入れた。


彼が向かう先は、もはや戦場ではない。それは、文明という重い衣を脱ぎ捨て、魂の源流へと遡る、終わりのない旅路であった。


****


かつて第九師団の先遣隊を率い、ジャングルの深淵を彷徨った比良坂中尉の姿は、戦後、劇的な変貌を遂げていた。


復員後、彼は軍服を脱ぎ捨てたが、その魂はニューギニアの土に深く根を下ろしたままだった。彼が持ち帰った膨大な野帳——そこには軍事報告の体裁を借りながらも、実際には未知の民族の神話、宇宙観、そしてシャーマニズムの核心が緻密に記されていた——が、学界に戦慄を与えたのである。


「比良坂博士」の誕生


比良坂は、かつての敵国であったオーストラリアの研究者や、世界中の人類学者たちが驚嘆するほどの質と量を持ったフィールドワークの先駆者として認められるようになった。しかし、彼が「博士」と呼ばれるようになったのは、単に学位を得たからではない。


彼が語る民族学は、既存のアカデミズムのような「観察者」の視点ではなかった。彼は自ら泥を被り、樹上に住み、先祖の声を聞く「秘儀参入者」としての知を体現していた。人々は敬意を込め、あるいはそのあまりに浮世離れした深淵な眼差しへの畏怖を込めて、彼を「比良坂博士」と呼ぶようになった。


文明の「解毒剤」としての学問


博士となった比良坂の講義は、常に超満員だった。しかし、彼が説くのは近代化の恩恵ではなく、むしろその「限界」であった。


「我々は時計を持ち、時間を切り刻んだ。しかし、ニューギニアの彼らは、一瞬の中に永遠の先祖を見ている。どちらが豊かな時間を生きているか、諸君にはわかるか?」


壇上に立つ比良坂の背後には、かつて彼が遭遇したミン族やコロワイ族の宇宙図が掲げられていた。彼の言葉は、高度経済成長に沸く日本社会にとって、一種の「解毒剤」のように響いた。己の文明を絶対視せず、異質な他者の中に失われた自己の断片を見出す——その思想は、かつて中尉としてジャングルで得た「己の文明との対峙」という気づきが、結晶化したものだった。


永遠の斥候スカウト


比良坂博士の書斎には、今も古い十四年式拳銃のホルスターと、現地で贈られた精巧なコテカ(ペニスケース)が並んで置かれている。それは、彼が二つの世界の境界線に立つ「永遠の斥候」であることを示していた。


「私は今も、あの森の中にいる。比良坂中尉が報告し、比良坂博士が解釈する。だが、そのどちらもが、宇宙という巨大な生命の一音に過ぎないのだ」


継承される問い


1945年の夏、司令部が「後回し」にした少数民族の問題は、比良坂博士の手によって、人類が避けて通れない「共生」という普遍的な問いへと昇華された。


かつて比良坂を「博士」と呼んだ学生たちは、彼の死後もその問いを抱き続けることになる。文明とは何か、人間とは何か。

比良坂博士——元・比良坂中尉が残した最大の業績は、論文の数ではなく、私たちが当たり前だと思っている「この世界」を疑い、他者の瞳の中に広大な宇宙を見出すための、静かな「勇気」であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ