オーストラリアとの捕虜返還交渉ーー《秘密協定》 1 1945年8月2日
1945年8月2日。オーストラリア最北端の要衝、ポートダーウィン。
空軍基地の一角にある特別会議室
机の上に並んでいるのは、過去に閉ざされた古びた誓約書ではなく、両国の未来を決定づける未来へ輝く宣誓書。そして、一分一秒を争う緊張感が、出席者全員を支配していた。
乾季の焼けつくような陽光が降り注ぐ、ポートダーウィンでその会談は行われた。
オーストラリア軍司令部の会議室。対峙する両国の代表団の間には、言葉にできない緊張が張り詰めている。大日本帝国側の特使がゆっくりと立ち上がり、机上に一通の公式文書を置いた。
その声は、静かに室内に響き渡たる。
「オーストラリア交渉団の諸君。我が方は、ここに重大な意思を表明する」
特使は一語一語を噛みしめるように続けた。
「大日本帝国軍およびブルネイ帝国は、現在カリマンタン島に抑留されている全ての連合国軍捕虜、ならびに民間人を、貴国のダーウィンへと無償で帰還させる用意がある。これは公式な表明である」
オーストラリア側の将校たちが、一瞬、息を呑む。疑念と驚愕が混じり合った沈黙の中、特使はさらに言葉を重ねる。
「我々は、先のカリマンタン島大空戦における生還者425名を含む、全ての生存者の安全を完全に保障する。……この提案は、苛烈を極める戦いの中で生じた人道上の歪みを正そうとする、我々の偽らざる意思である」
特使は一度言葉を切り、深く重い沈黙を置いた後、交渉の本質を突きつけた。
「……同時に、我々は強く要望する。この人道的措置に応じ、戦争初期に貴国側のジャワ島、スマトラ島、そしてスラウェシ島の我が邦人捕虜を、速やかに返還されたい」
南洋の熱気が、その場の緊張をさらに膨らませる。それは、銃火を交える両国が初めて見せた、血の通った「交渉」の幕開けだ。
オーストラリア側代表H.V. エバット外相は、特使の言葉が終わるや否や、深く刻まれた眉間の皺をわずかに緩めた。傍らに控える指揮官たちと短く視線を交わす。その瞳に宿っていたのは、政治家としての警戒心以上に、一人の人間としての、そして指導者の一人としての切実な安堵だった。
「……現在、カリマンタン島にいる全生存者の帰還、か」
エバット外相は声を震わせぬよう、机上の灰皿に視線を落とした。先の大空戦の後、その提案を拒める者など存在しなかった。
「よろしい。オーストラリア連邦政府、ならびに連合軍司令部は、貴殿の提案を全面的に受諾する。ジャワ、スマトラ、スラウェシ――我が方の保護下にある貴国邦人の返還についても、即座に手続きを開始することを約束しよう。人道の名の下に、この交換に異論はない」
エバット外相が右手を差し出すと、特使はその手を見つめ、静かに、しかし力強く握り返した。周囲の指揮官、幕僚たちが一斉に小さく息を吐き、張り詰めていた糸がわずかに緩む。
だが、エバット外相の眼光はすぐに鋭さを取り戻した。彼は周囲の憲兵たちに顎で合図を送り、会議室の周囲から人払いを行わせた。
「……さて。公式な声明についての合意はここまでだ。特使、ここからは記録に残さない『個人的な相談』に移りたい」
エバット外相は声を潜め、テーブルの上にあった公式文書を丁寧に後ろに控えた文官に渡した。代わりに、国境線が引かれた大きな地図が取り出される。
「カリマンタンの空で、我々はあまりに多くのものを失い、同時に多くのものを見た。……貴国の『ブルネイ帝国』という特異な同盟関係、そしてこの不自然なほどの人道的提案。その裏にある、真の『共通の敵』について……腹を割って話そうではないか」
熱帯の夜気が天幕を揺らす。表向きの捕虜交換という大義名分の影で、歴史の教科書には決して記されることのない、極秘の軍事交渉が始まろうとしていた。
「……コールドウェル。君が死んでいなくて、本当によかった」
沈黙を破ったのは、現地司令官フレデリック・シャーガー准将だ。彼は、目の前でやつれながらも、軍人としての矜持を失わず胸を張る豪州空軍のエース、クライブ・コールドウェル大佐を見つめた。
「だが、君が連れてきたこの『提案』は、キャンベラを地獄の炎で焼くか、あるいは救うかのどちらかだ。我々が今、何をしようとしているか分かっているのか?」
コールドウェル大佐は、隣に座る日本軍使・加瀬俊一と山下奉文大将を一度見やり、静かに、しかし断固とした口調で答えた。
「准将。私は425名の部下を救うためにここにいます。そして、これ以上、我々の空が『他国のチェス盤』にされるのを見過ごせないだけです」
---
エバット外相の咆哮:翻弄された歴史
交渉団のトップ、H.V. エバット外相が、日本側が提示した地図を指でなぞる。そこには「インドネシア東部・無防備地帯」という、大胆な境界線が引れている。
「我々オーストラリア人は、連合王国、アメリカのために血を流すことには飽き飽きしている」
エバットの声は低く、しかし怒りを含んで震えていた。
「第一次世界大戦のガリポリから、この太平洋の地獄に至るまで、我々は大国のエゴに振り回されてきた。この戦争もそうだ。アジアへの圧力、資源の囲い込み……すべては大国の都合だ。だが、国には誇りがある。他国に指図されるのではなく、自らの手で運営されるべきなのだ。それは日本も、そして我々オーストラリアも同じだ」
その時、窓の外でスクランブル発進するスピットファイアの爆音が響いた。基地周辺をうろつくアメリカ軍の目を逸らすための「演習」であるが、それは同時に、この秘密が漏れた瞬間にアメリカ軍の報復が始まることを象徴していた。
---
山下大将の断言:新太平洋艦隊の真意
山下奉文大将が、静かに立ち上がる。その存在感に、豪州軍総司令官ブレイミー大将も思わず身を乗り出した。
「エバット閣下。貴殿の苦悩は、我々日本も共有している。だからこそ、我々は動く」
山下は、参謀が広げた戦略図を指した。
「この交渉が成立し、日本本国で編成中の『新太平洋艦隊』が南下を開始すれば、我々は直ちにビアク島を占領し、そこを拠点にニューギニア、ソロモン諸島のアメリカ軍へ総攻撃をかける」
ブレイミー大将の眼光が鋭くなります。
「……アメリカ軍を、叩き出すというのか?」
「左様だ」山下は断言しました。
「目的は三つ。第一に、取り残された我が将兵を救出すること。第二に、アメリカ軍の兵站線を完全に断絶し、これ以上の侵入を阻止すること。そして第三に――この南洋からイギリス、アメリカの影響力を完全に排除することだ。オーストラリア、ニュージーランドは、もはや遠い欧州の出先機関ではない。我々と同じ、アジアの一部であり、世界で独立した国家であるべきだ。我々はその権利を尊重し、貴国と対等な海洋国家としての友誼を結びたい」
事務交渉の開始:見えない敵との戦い
「……いいだろう。地獄へ行くなら、自らの意志で行こうじゃないか」
エバット外相の言葉を合図に、部屋の空気は「理念」から「実務」へと一変した。




