新・太平洋艦隊 3 長門
横須賀の岸壁で「浮き砲台」として擬装網に覆われていた老兵が、その重い沈黙を破った。
戦艦、「長門」。
日本海軍の威信そのものとして国民に親しまれた不沈艦だ。大和が登場するまでの二十年間、連合艦隊旗艦として君臨し、山本五十六が「ニイタカヤマノボレ」の暗号を放ったその艦橋。いま、そこは新・太平洋艦隊の司令塔として、かつての輝きを取り戻そうとしていた。
長門の航跡は、帝国海軍の栄枯盛衰そのものである。
一九二〇年の竣工以来、世界に七隻しか存在しなかった「ビッグ7」の一角として、四十一センチ主砲の威容を誇示し続けた。真珠湾の開戦を告げ、ミッドウェー、マリアナと転戦。レイテ沖海戦では、爆沈した姉妹艦「陸奥」の無念を背負い、サマール沖で米護衛空母「ガンビア・ベイ」をその巨砲の射程に捉えた。
しかし、一九四五年。燃料の枯渇と連日の空襲により、長門は横須賀の片隅に繋がれた。煙突を切り詰められ、動けぬまま防空戦を強いられる姿は、帝国の落日を象徴するかのようであった。
だが、運命はまだこの艦を見捨ててはいなかった。
呉海軍工廠。
横須賀から回航された長門は、ここで徹底した修復再整備を受けた。切り詰められた煙突は復旧され、錆び付いた旋回盤には良質な潤滑油が注がれた。四十一センチ砲の砲身は丹念に磨かれ、最新の電探兵装がそのマストに刻まれた。
艦橋には、新・太平洋艦隊司令官・加治中将と、主任参謀の堀切大佐の姿があった。二人は着々と進む機銃の増設や、主砲塔の作動テストを鋭い眼差しで見守っていた。
「……長門がこれほどまでに息を吹き返すとはな」
堀切が呟く。
「ああ。だが、これは単なる修復ではない。再び長門は新・太平洋艦隊の『旗艦』となるのだ」
加治の手元には、軍令部と検討を重ねてきた次期作戦――ニューギニア・ソロモン諸島への大規模攻勢案が握られていた。
艦内の至る所で、熟練の整備兵たちが火花を散らしている。
兵站の回復により、四十一センチ砲弾が次々と弾薬庫へと吸い込まれていく。艦隊全体の準備状況は、いまや八割を超えた。
「艦長、幕僚を集めろ」
加治の声が、改装された作戦室に響く。
長門艦長をはじめとする幕僚たちは、加治の言葉の意味を瞬時に理解した。それは、呉での「準備期間」が最終段階に入ったことを意味していた。
「これより呉鎮守府『連合艦隊総合司令部』へ向かう。各戦隊の司令官を招集せよ。最後の作戦のまとめを行う」
かつて横浜の日吉にあった中枢機能は、この作戦の発端の軍港、海軍発祥の地、呉の鎮守府へと移されていた。
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昭和二十年八月。
盛夏の強烈な陽光が、呉軍港の重油の浮く海面をぎらぎらと照らし出していた。
改装を終えた戦艦「長門」の巨大な艦影を背に、加治・新太平洋艦隊司令官と、主任参謀の堀切大佐は、タラップを降りて白く乾いた桟橋に足を踏み入れた。
岸壁には、すでに二人の執務用である黒塗りの国産乗用車がエンジンをアイドリングさせて待機していた。
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自動車が滑り出すと、車内の遮光カーテンの隙間から、穏やかな呉湾のパノラマが広がった。波間に浮かぶ内火艇の航跡の向こう、古くから海軍の揺籃であった江田島の島影が、青く霞んで見えている。
道すがら、加治は静かに窓外の基地内の様子を見ていた。
数ヶ月前までの呉は、空襲によってドックや工場群に被害があった、しかし、いま眼前に広がる光景に、そのような面影はほとんど残っていない。
「驚くべき速度ですな」
助手席の堀切が、後乗せの加治に振り返りながら言った。
「爆撃痕の埋め戻しも、製鋼工廠の屋根の張り替えも、わずか数週間で完了しました」
確かに、爆撃によって赤茶けて歪んでいたクレーンや、へし折られていた倉庫の鉄骨は、すでに綺麗に撤去されるか、あるいは強靭な鋼材によって補強され、実用に復していた。敷地内をせわしなく行き交う兵士たちの顔にも、かつての本土決戦を待つだけの悲壮感はない。大量の物資と燃料がトラックから次々と運び込まれ、整備兵たちの活発な怒号が、復興の槌音とともに響き渡っている。
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自動車は速度を上げ、鎮守府へと続く緩やかな坂道を登り始めた。
「堀切、長門の砲身の換装具合はどうだ」
加治が低く尋ねる。
「予定通りです。内腔の磨耗は完全に修正され、新型の遠距離信管に対応した射撃管制装置の調整も終わりました。弾薬庫には、すでに三コウ(三式弾)だけでなく、対艦用の徹甲弾が定数の九割まで満載されています」
加治は小さく頷いた。
「燃料の心配をせずに主砲の教練ができる。これだけでも、半年前には信じられんことだったな」
「はっ。兵たちの練度も、みるみるうちに回復しております。片道燃料で突っ込む狂気から解き放たれ、『勝って帰る』ための算盤を弾けるようになった。それが大きいかと」
堀切の言葉には、確かな実感がこもっていた。
精神論の特攻を排し、科学的な物量と戦術で敵を圧倒する。その思想が、この呉基地の隅々にまで浸透しつつあった。
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車は、重厚な石造りの正門を抜け、呉鎮守府の庁舎前へと滑り込んだ。
明治期に建てられた赤レンガ造りの格調高い建物は、幾度かの至近弾による破片の痕跡を僅かに留めているものの、その威容を崩さず、静かに二人を迎えた。
車を降りた加治と堀切は、出迎えた衛兵の鋭い敬礼を受け、庁舎内へと歩を進めた。
ひんやりとした空気の広がる長い廊下に、二人の編上靴の足音が硬質に響く。
横浜の日吉からこの海軍発祥の地へと移設された「連合艦隊総合司令部」。その中枢へと近づくにつれ、廊下を行き交う参謀や通信兵たちの動きの密度が増していく。彼らが手にする書類の端々には、「南方」「ソロモン」の文字が躍っていた。
「司令官、ここからです」
堀切が、廊下の突き当たりにある、重厚な樫の木の扉の前で足を止めた。
扉の両脇に立つ下士官が、無言のまま左右の取っ手を引き絞る。
開かれた作戦会議室の中央には、巨大な太平洋の海図が広げられていた。
加治中将は、自らの軍帽を脱いで堀切に手渡すと、迷いのない歩調で、その広大な戦術の盤面へと足を踏み入れた。




