カリマンタン島大空戦 6
1945年7月20日、午後4時。メルボルンのオーストラリア空軍総司令部。
広大な作戦地図の上に置かれた「損失機数」の数字は、もはや空軍としての存立を危うくする領域に達していた。
「なんてこった!!」
沈黙を切り裂いたのは、ボストック少将の絶叫でした。彼の手の中で、鉛筆が無惨に二つに折れ、床に転がる。
「スピットファイア、ムスタング、そしてB-24……我が国の空軍が、たった一日で半分消えた! ジャップは何を隠し持っていたんだ!? ジェット機だと? 30ミリ砲だと!?」
ジョージ・ジョーンズ中将は、折れた鉛筆の先を見つめたまま、動けずにいた。彼の瞳には、かつてない深い影が落ちている。
「ボストック……まだだ。まだ一矢報いる手段はある。キナバル山の影を、海面スレスレに這っている『モスキート部隊』たちがな」
彼が指差した先――それは、超低空・超高速を誇る第79攻撃航空団の「モスキート」部隊だ。
---
ボーファイターのその遥か後方、あるいは斜め上の高度から、デ・ハビランド・モスキートが静かに、しかし確実に距離を詰めていた。合板で作られたその機体は、金属製の航空機に比べて電波の反射が極めて少なく、当時の電探にとって「ノイズ」に等しかった。
マーリン・エンジンのスロットルを絞り、音を殺しながら滑空に近い状態で接近する。木製の快速機は、その存在を一切悟らせることはない。
海面からわずか数メートル。第79攻撃航空団のモスキート部隊は、波頭をかすめるほどの超低空で、時速600キロを超える猛スピードで疾走していた。合板製の軽量な機体は、海面反射と完璧に同化し、日本軍の電探網を嘲笑うかのように進む。
プロペラが巻き上げる激しい水飛沫が、後方に白い尾を引く。それは、まるで巨大な刃が海面を切り裂いていくかのようであった。
編隊の先頭を行く指揮官、ウィリアムズ少佐は、激しい振動に耐えながら操縦桿を握り、狭いコクピットの風防越しに左右を確認した。
「全機、ついてきているか」
彼の視線の先、左右の翼端のすぐ側には、荒波を恐れぬ部下たちのモスキートが、一糸乱れぬ編隊で食らいついていた。エンジンの排気管から吐き出される青白い炎が、薄暗い海面に反射する。ウィリアムズは短く頷き、無線封鎖を維持したまま、進路をさらに内陸側へと向けた。
水平線の彼方、陽炎に揺れる陸影が次第に形を成していく。
それは、帝国の南進を支える重要拠点、ブルネイであった。
海上には、荷役作業中の輸送船や、哨戒にあたる小型艦艇の影が見える。さらにその奥には、整然と並ぶ石油備蓄タンクや、ブルネイの都市の建物が午後の日差しを浴びて佇んでいた。
「ターゲット・イン・サイト(目標視認)」
ウィリアムズはスロットルをさらに押し込んだ。マーリン・エンジンの咆哮が一段と高まり、モスキートたちは獲物を狙う猛禽の如く、無防備な港湾施設へと牙を剥いて突入を開始した。
****
第6波:最後の攻撃隊、ブルネイへ
カリマンタン島北部、キナバル山の麓にある日本軍監視所。
夕闇が迫る中、監視員は耳を疑う。波の音に混じって、複数の「エンジンの唸り」が接近していた。
「……緊急電! 敵機視認、機種はモスキート! 海面高度15メートル、超低空! 目標はブルネイ湾!」
監視員の耳に、波の音とは明らかに質の異なる、空気を引き裂くような高音の唸りが届く。双眼鏡を覗き込んだ彼の顔が、一瞬で凍りついた。海面反射の眩光の中から、音を置き去りにするほどの速度で、二発エンジンの影が次々と躍り出てきたのである。
「……緊急電! 敵機視認、機種はモスキート! 海面高度15メートル、超低空! 目標はブルネイ湾ッ!」
絶叫に近い報告が、電波に乗ってブルネイの総司令部へと飛んだ。
モスキートの部隊は、先行して壊滅したボーファイター隊が命懸けで持ち帰った「敵司令部」の座標を目指していた。レーダーの死角を突くため、波頭をかすめ、白い航跡が機体に触れるほどの低空飛行。
目標は、ブルネイ王宮、ムアラ海軍基地、そして山下大将らが陣取る総司令部。
モスキートの爆弾倉には、900kg爆弾を搭載を搭載していた。
---
ブルネイに置かれた総司令部内は、その一報とともに激震が走った。
「モスキートだと!? この距離を、あの低空で……!」
古村大佐が、海図の上に落とした鉛筆を握りしめた。索敵参謀と通信参謀が慌ただしく情報を突き合わせ、伝令が走り回る。
馬場正郎中将は厳しい表情でタラカンとバリクパパンの防空状況を脳内で照らし合わせ、山縣正郷海軍中将は「電探を潜り抜けるとは……」と、その木製機の隠密性に驚愕の念を禁じ得なかった。
室内は怒号と通信機の着信音で騒然となり、誰もが「間に合うのか」という焦燥に駆られていた。
その喧騒の中で、ただ一人、巌のように微動だにしない男がいた。山下大将である。彼は手にした軍刀の柄を静かに抑え、騒ぎ立てる参謀たちを鋭い眼光で一喝した。
「騒ぐな。敵が奇策を弄するなら、こちらは王道で応えるまでだ」
山下は、地図上のブルネイ近郊、ラビの地点を指した。そこには、新太平洋艦隊の反攻に備え、密かに温存されていた精鋭航空部隊が控えていた。
「参謀、直ちにラビの部隊へ迎撃を指示せよ。奴らがブルネイの街に一弾たりとも落とすことを許すな」
落ち着き払った、威厳を湛えた声。その命令が発せられた瞬間、総司令部の混乱は規律ある戦闘準備へと一変した。通信参謀が受話器を掴み、迎撃準備体勢の飛行場へと、命令が発令された。
---
ブルネイ近郊、ラビ空軍基地。
そこには、パレンバン基地から派遣された陸軍第9飛行師団、飛行第87戦隊が待機していた。指揮官は、歴戦の中野猪之八少佐。
「野郎ども、これが最後だ! 敵は足の速いモスキートだ、一気に加速して食らいつけ!」
中野少佐の合図とともに、重戦闘機、二式戦闘機「鍾馗(キ44)」のハ109エンジンが一斉に火を噴く。上昇力と加速力に特化したこの機体は、この緊急事態における唯一の希望だ。
ボルネオの西、水平線に沈みゆく太陽が、最後の猛威を振るっていた。その烈火のような残照を浴びて、上空に待機していたの鍾馗の群れは、機体を真っ赤に染め上げ、陽炎のようにゆらゆらと遠くから見える、しかし、そのエンジンから発する爆音は轟いていた。
ブルネイ湾に滑り込もうとするモスキートの群れは、背後の空が燃え上がっていることに気づいていなかった。彼らの視界には、目標であるブルネイの港湾施設だけが映っていたのだ。
「目標確認。全機、突撃ッ!」
鍾馗の操縦士たちは、スロットルを全開に押し込み、夕日を背負う形で完璧な隠密性を保ちながら、弾丸のごとき急降下を開始した。重厚なハ一〇九エンジンが、日没の静寂を切り裂く轟音を上げ、機体は重力に従って加速度的に速度を増していく。
海面スレスレを飛ぶモスキートの群れに対し、鍾馗は上空から、まさに雷撃のごとく突入した。
ドドドドドドッ!
鍾馗の機首と翼に装備された4門の機銃が一斉に火を噴く。曳光弾が夕闇迫る空に幾本もの赤い線を描き、逃げ場のないモスキートの背中へと無慈悲に突き刺さった。
「敵襲! 上空、機種不明ッ!」
モスキートのコクピットがパニックに陥る。しかし、鍾馗の圧倒的な急降下速度と、不意を突いた一撃の前には、自慢の快速も、木製の軽量機体も、何の意味も持たなかった。
20mm機関砲弾がモスキートの薄い合板製の機体を易々と貫通し、燃料タンクを直撃。一機のモスキートが、空中で巨大な火球と化し、バラバラになった木片が、炎に包まれながら海面へと降り注いだ。
一撃離脱。鍾馗は、敵を粉砕した勢いのまま、再び夕日の中へと急上昇していった。
燃え盛る敵機の残骸を眼下に見下ろしながら、鍾馗の編隊は、次の獲物を求めて再び空を舞う。
****
西空を断末魔のように焼き尽くす夕日が、鍾馗の機体を深紅に染め上げる。その機体は、逆光のただ中で燃えるようなオレンジの光輝を纏い、モスキートの搭乗員たちの目には、あたかも「太陽そのものから撃ち出された鋼鉄の弾丸」と化して映った。
モスキートの操縦士は、背後に忍び寄る「死神」の正体を、網膜を焼く残照ゆえに捉えることができない。振り仰いだ視界にあるのは、血の色をした空と、すべてを塗り潰す凄絶な光の奔流のみ。
敵機の羽音すら太陽の咆哮に掻き消されたその刹那――。
彼らが異変に気づいた時には、すでに回避の余地など残されてはいなかった。1,500馬力を誇るハ一〇九エンジンの、あの重厚にして巨大なカウリングが、風防の全域を覆い尽くさんばかりの質量感で目前に迫っていた。それはまさに、沈みゆく太陽が放った最後にして致命的な「一撃」であった。
---
「……捉えた。逃がさん」
中野少佐は、超低空で900kg爆弾の重みに耐えながら蛇行するモスキートを照準器の真ん中に据えた。ハ109エンジンの強大なトルクをねじ伏せ、操縦桿のトリガーを深く引き込む。
タタタタタタッ!
カウリング内に装備された12.7mm機関砲が、猛烈な発射速度で火を噴く。
秒間数十発という密度の高い弾丸が、モスキートのデ・ハビランド社自慢の木製モノコック構造を無数に貫通していく。
12.7mm弾が、モスキートの美しい木製主翼の付け根を正確に削り取る。金属機のような凹みではなく、合板が文字通り「木っ端微塵」に弾け飛び、内部の桁が露出する。
弾丸の雨を浴び続けた左主翼が、風圧と自重に耐えきれず、バリバリという凄まじい音を立てて根本から折れ曲がる。バランスを失ったモスキートは、900kg爆弾を抱えたまま横転し、水面に翼を引っ掛け、猛烈な水飛沫を上げてバラバラに砕け散る。
木製軽量な機体は、一度火を噴けばひとたまりもない。ブルネイ川の河口近くで、モスキートの一機が巨大な火の玉となり、水面に激突。衝撃波が王宮の窓を震わせる。
夕闇迫るブルネイ湾上空。中野少佐率いる鍾馗隊は、太陽を背負った奇襲から、さらに苛烈な「殲滅戦」へと移行した。
司令部へと真っ直ぐ機首を向けるモスキートの編隊。その先頭機に対し、中野少佐は逃げも隠れもしない正面からの突入、すなわち「ヘッドオン」を選択した。
相対速度は時速1,000キロを遥かに超える。一瞬の怯みが死を招く極限のチキンレースだ。モスキートの鼻先から火が噴き、7.7ミリ機銃の弾幕が鍾馗をかすめる。しかし、中野の視界は一点、敵の風防のみを捉えていた。
「通さんと言ったはずだ……!」
すれ違う刹那、中野が引き金を絞った。鍾馗の機首に装備された12.7ミリ機関砲が咆哮を上げ、数発の重い弾丸が吸い込まれるように敵機の風防を直撃する。
火を噴く間さえなかった。操縦士を失ったモスキートは、慣性に従って海面へと突っ込み、爆発音と共に巨大な水飛沫を上げた。中野は強烈なGに耐えながら機体を翻し、次なる獲物へと牙を剥いた。
一方、低空へと逃れ、地形を利用して離脱を試みるモスキートに対し、鍾馗たちが猛然と襲いかかる。「飛ぶ弾丸」と揶揄されるほどの圧倒的な加速力が、海面を滑る敵機を瞬く間に射程内へと引きずり戻した。
「逃がすな! 掃討せよ!」
鍾馗たちは、その高い翼面荷重を活かした重力加速を武器に、モスキートの背後に食らいつく。一度捉えれば、もはや快速を誇る木製機といえど振り切る術はない。
一機、また一機と、鍾馗の放つ火網に捕まり、熱帯の海へとその巨体を沈めていく。逃げ惑うモスキートが海面に残す白い航跡は、次々と真っ赤な炎と黒煙に塗り潰されていった。
ブルネイ湾に立ち上るいくつもの火柱。
夕日に染まった空の下、中野少佐と第87戦隊の勇士たちは、一弾たりとも司令部に落とさせることなく、襲撃隊を文字通り「粉砕」した。
****
中野少佐の「鍾馗」は、残照を機体に映しながら、ブルネイ王宮の黄金のドームをかすめるような旋回軌道を描いた。
その視線の先――。
深手を負い、断末魔の叫びのごとき濃密な黒煙を曳いた最後のモスキートが、重力に抗う力を失い、ゆっくりと高度を下げていく。静まり返った海面へとその木製の巨体が突き刺さると、一瞬の閃光とともに爆炎が上がり、熱帯の蒼い深淵へと呑み込まれていった。
王宮の静寂は守られた。中野は、自らの愛機が放った最後の一撃が、帝国の威信を象徴するその屋根の上で、敵の野望を完全に粉砕したことを確信した。黒煙が夕闇に溶けゆく中、中野はスロットルを静かに絞り、戦士の休息を求めるかのように機首をラビへと巡らせた。
「……掃討完了。我ら、王宮の盾となれり」
中野少佐は酸素マスクを外し、熱帯の空気を胸いっぱいに吸い込みむ。西の水平線に沈みゆく太陽が、銀翼を赤く照らし出します。その背後では、ムアラ海軍基地の灯火が静かに灯り始め、ブルネイ・タウンの平穏な夜が守られたことを告げていた。
海面に浮かぶ木製の残骸が波に揺られ、燃え尽きようとしている。
中野は残弾を確認し、静かに機首をラビの基地へと向けた。背後には、彼らが命を賭して守り抜いたブルネイの街並みが、穏やかな夜を迎えようとしていた。
オーストラリア空軍の最後の賭けは、パレンバンから来た「鍾馗」によって、完全に葬り去られた。
****
午後4時45分。
最後のモスキートがマンカリハット沖の蒼い深淵に没したその瞬間、カリマンタン島を襲った、オーストラリア空軍の6度の襲来は、完全にその勢いを失い、潰え去った。
ブルネイ総司令部のバルコニー。黄金の王宮を背にしたその場所に、山下大将は立っていた。西日に照らされ、深紅に染まった空を背景に、ラビの基地へと帰還していく鍾馗の編隊が、翼を時折きらめかせながら遠ざかっていく。その勇姿を、山下はただ無言で、穏やかな眼差しで見送っていた。
すぐ隣で、古村大佐が敵の去ったメルボルン方面の空を見つめ、静かに口を開く。
「……これで、ようやく終わりですな」
その声に、山下は深く、重い吐息を漏らした。鋼のようなその肩には、隠しようのない疲労が滲んでいたが、同時に、守り抜いた者だけが持つ静かな誇りが、その横顔を縁取っていた。
「長い……実に長い一日であった。だが古村大佐、いかに過酷な戦いであっても、必ず終わりは来るものだ」
山下はゆっくりと視線を落とし、平和を取り戻したブルネイの街並みを見渡した。
「今晩ばかりは、この死闘の果てに掴み取った勝利を、静かに抱きしめるとしよう」
夕闇がカリマンタンの密林を覆い始める中、将軍の言葉は、戦い終えたばかりの島の静寂に、余韻となって溶けていった。
****
一方、オーストラリア南部、冷え込み始めたメルボルンのオーストラリア軍司令部。そこは、ブルネイの静寂とは真逆の、絶望に満ちた喧騒の渦中にあった。
広大な通信フロアでは、無数のテレタイプ機が悲鳴のような打鍵音を立て続け、何十人もの通信参謀や伝令兵が怒号に近い声を張り上げていた。
「タラカンからの返答なし! 繰り返す、タラカン、応答せよ!」
「モスキート隊の信号が途絶! 最終確認地点、マンカリハット沖!」
「バリクパパンへ向かったボーファイター隊、消息不明! 救難信号すら受信できないのか!?」
壁に掲げられた巨大な状況図には、かつて勢いよく描き込まれていたオーストラリア空軍の攻撃を示す矢印が、今や次々と黒いバツ印で塗り潰されていく。それは、投入された航空兵力が文字通り消滅したことを意味していた。
その狂乱の中心に立つ一人の幕僚が、受話器を耳に当てたまま、彫像のように固まっていた。やがて、彼は震える手でゆっくりと、受話器をフックに戻しました。カチリ、という小さな音が、その周囲の喧騒を一瞬だけ切り裂くような重みを持って響く。
幕僚は、血の気の引いた顔で、窓外の夜景を見つめていたジョーンズ中将へと歩み寄る。
「……中将」
その声は、隠しようもなく震えていました。
「いま、最終報告が入りました。……第79攻撃航空団、全機喪失。タラカン、バリクパパン、そしてブルネイ。すべての波状攻撃は、日本軍の防空網によって……完全に阻止されました」
「……終わりか」
ジョーンズ中将は振り返ることなく、絞り出すように呟く。
「六度にわたる嵐を送り込み、カリマンタンを焼き尽くすはずが……。我々の『攻撃部隊』は、あの島に届く前に消えたというのか」
背後では、依然として通信参謀たちが「全機へ帰還命令! 応答できる機体はないのか!」と絶望的な呼びかけを続けています。しかし、スピーカーから返ってくるのは、冷たいノイズの嵐だけだった。
メルボルンの長い夜が始まろうとしていた。それは、かつてない大規模な航空攻勢が、日本軍の鉄壁の防空戦力の前に、ただの一矢も報いることなく霧散したことを認める、屈辱と困惑の夜だった。
ジョーンズ中将の頭の中ではオーストラリアが次に取りうる行動を何通りも考えるが、そのすべてが勝利に結びつく行動にならないことを理解する。
なにか、別の力がなければ、このオーストラリアの危機を抜け出すことはできないと知る。
ボストック少将は、へし折られた鉛筆を拾い上げることすらできず、ただ暗く冷たい冬のメルボルンの夕闇を見つめ続けていた。
オーストラリア空軍が国家の命運をかけて挑んだカリマンタン島空襲は、南方戦線開放派遣軍に、その空軍としての命脈を絶たれた。




