カリマンタン島大空戦 5
1945年7月20日、午後3時過ぎ。
カリマンタン島の空に「橘花改」の凱歌が響き渡っていたその裏側で、海面わずか数メートルの高度を這う「真の脅威」が牙を剥こうとしていました。
地形追随飛行 ―第79攻撃航空団、隠密なる肉薄―
ブルネイ湾からタラカン島へ向かう海域。そこには、日本軍のいかなる警戒網にも触れない「空白の領域」が存在していた。
オーストラリア空軍第79攻撃航空団のボーファイター隊は、波頭が機体に触れんばかりの高度で飛行していた。高度わずか10メートル。この極限の低空飛行は、日本軍が沿岸に設置した電探の死角を突くための、計算し尽くされた戦術であった。
「高度維持、無線封鎖。あとわずかだ」
海面からの反射光に紛れ、重厚な双発の影が海を滑る。水平線の向こうの監視所からは、それが寄せては返す波の一部にしか見えない。重厚なブリストル・ハーキュリーズ・エンジンの轟音さえも、打ち寄せる波の音に掻き消され、日本軍守備隊の耳に届くことはなかった。
マンカリハット半島南方海域。
双発の重厚な機体、翼下に懸架されたロケット弾。その静粛性の高い排気システムから、かつて前線の日本兵に《静かなる死》と恐れられた攻撃機群だ。
彼らはレーダーを欺くため、電波の届かない水平線下の死角を維持し、無線封鎖を貫いてきた。目標はバリクパパン、セリア、タラカンの各油田設備。そして港湾に停泊する輸送艦群。
しかし、その「沈黙」を破ったのは、高空から海面を凝視していた第4航空軍のB-17の鋭い眼光でした。
「敵編隊、海面スレスレを北上中! 機数、五十機以上! 位置、マンカリハット南方!」
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緊急発進:台湾駐留派遣部隊の意地
ブルネイ航空基地の待機室に、けたたましいベルが鳴り響く。
そこにいたのは、フィリピンや台湾沖航空戦を戦い抜き、カリマンタン防衛のために派遣されていた陸海軍の精鋭たちだ。
「橘花や烈風にばかりいい格好はさせられんぞ! 陸軍の意地を見せろ!」
熟練パイロットたちが、一式戦闘機三型に飛び乗ります。水メタノール噴射装置を備えた最終型「隼」が、短い滑走で空へ舞い上がる。
零戦五二型が、波立つ海面へと機首を向ける。
「海軍の誇りにかけて、油田は一滴たりとも焼かせん!」
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激突:海面高度の防空戦
バリクパパン沖合。油田の櫓が水平線に見え始めたその時、海面を覆い尽くすボーファイターの前に、日本の「隼」と「零戦」が立ち塞がる。
「撃て! 一機も通すな!」
海上に展開する日本海軍のフレッチャー型駆逐艦の対空火器が一斉に火を噴きました。VT信管を備えた5インチ主砲と、ボフォース40mm機関砲が海面に幾本もの水柱を立て、ボーファイターの行く手を遮る「鉄のカーテン」を形成する。
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日本海軍が運用するフレッチャー型駆逐艦の艦橋下、戦闘指揮所(CIC)。そこは、外部の喧騒とは隔絶された、電子の目と計算機が支配する空間だ。
暗い室内で、円形の電探スコープが緑色の光を放ち、刻一刻と変化する敵機影を捉えていた。
「電探室より報告! 敵低空攻撃隊、方位二七〇、距離八〇〇〇。急速に接近中!」
艦長は、無数に並ぶ計器と海図を見据え、受話器を握りしめて冷徹に命を下した。
「対空戦闘、撃ち始め。射撃指揮装置連動。VT信管、作動確認。一機も通すな、叩き落とせ!」
射撃管制員が機械式コンピュータMk.37 砲射撃指揮装置のダイヤルを回し、敵の速度、高度、風向を計算機に入力する。そのデータは即座に、甲板上の巨大な砲塔へと電気信号で送られた。
甲板上では、艦長からの指示を受けた5インチ単装主砲が自動的に、まるで生き物のように滑らかな動きで旋回を始めた。同時に、四連装のボフォース40mm機関砲もまた、海面を這う刺客たちをその銃口に捉えるべく、一斉に首を振る。
「目標、先頭のボーファイター! 撃てッ!」
轟音と共に、5インチ主砲が火を噴いた。
VT信管(近接信管)を備えた砲弾は、海面すれすれを飛ぶボーファイターの至近距離で炸裂し、凄まじい爆風と破片の雨を降らせる。海面には、巨大な水柱が次々と立ち上がり、敵機の視界と進路を遮る「水の壁」を形成した。
さらに、ボフォース40mm機関砲が「ドン、ドン、ドン、ドン!」と独特のリズムで火を噴き出す。
曳光弾が海面を走るボーファイターの周囲を埋め尽くし、鉄のカーテンを作り上げる。海水を巻き上げて逃げようとするボーファイターの翼が、40mm弾に叩き折られ、火を吹いて海面へ激突した。
「駆逐艦の火網へ追い込め!」
上空からは、隼と零戦の編隊が、あえて低空へとダイブを敢行していた。彼らは艦長の指揮する駆逐艦の対空火器を避ける絶妙な連携で、ボーファイターを対空砲火の最も激しい「殺戮圏」へと追い込んでいく。
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バリクパパンの海上で展開されるのは、重武装の双発機と、機動性を誇る戦闘機による、死の舞踏であった。速度で逃げ切ろうとするボーファイターに対し、日本軍の「隼」と「零戦」は、海面わずか数メートルの超低空でその真価を発揮した。
「各機、一撃で仕留めろ! 敵にバリクパパンの土は踏ませぬ!」
隼三型は、水メタノール噴射装置による一時的な馬力増強を武器に、ボーファイターの背後を執拗に狙う。
一機の隼が、猛スピードで迫る敵の機銃掃射を、巧みな横滑り(スリップ)で回避した。機体を斜めに傾け、空気抵抗を無視するかのような動きで急旋回。ボーファイターの重い巨体が旋回しきれぬ間に、その背後を完全に奪い取った。
「墜ちろ!」
機首の12.7mm機関砲が火を噴く。至近距離から放たれた弾丸は、逃げ場を失ったボーファイターのコクピットを正確に貫いた。操縦士を失った鉄の塊は、制御を失い、波頭を数回叩いた後に爆発霧散した。
一方、海軍の精鋭の零戦五二型もまた、その牙を剥いていた。ボーファイターが翼下のロケット弾を油田の櫓へ向けようとしたその瞬間、上空から緑の影が急降下した。
零戦の操縦士は、敵機の巨大なエンジンナセル――その脆い心臓部を照準器の中心に据えた。
ド、ド、ド、ドッ!
翼内の20mm機銃が重厚な音を立てて炸裂する。強力な炸裂弾はボーファイターの右エンジンを瞬時に粉砕。ロケット弾を放つはずだった翼からは、真っ赤な炎が噴き出した。
炎に包まれた敵機は、自重に耐えきれず海面へと激突する。
ドォォォォォンッ!
巨大な水柱が上がり、数秒前まで空を駆けていた「低空の侵入者」は、鋼鉄の残骸となってバリクパパンの海底へと消えていった。
「一機仕留めたぞ! 次だ、逃すな!」
無線に飛び交う勇壮な叫び。弾薬は残り少ないが、将兵たちの士気は最高潮に達していた。
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オーストラリ空軍第79攻撃航空団の指揮官機、そのコックピットの中でアーサー・マクシミリアン少佐は、歯を食いしばり操縦桿を固く握りしめていました。彼の視線の先には、バリクパパンの巨大な貯蔵タンク群が蜃気楼のように揺れている。
「……あと少しだ。あと少しでこのロケット弾を叩き込んでやる」
マクシミリアンの顔は、極度の緊張と熱帯の湿気で脂ぎり、酸素マスクの縁からはみ出た頬が小刻みに震えていた。だが、彼の背後に迫る「影」に気づいたとき、その瞳は驚愕で見開かれた。
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マクシミリアンが風防越しに横を見た瞬間、そこには驚くべき光景があった。零戦五二型が、ボーファイターの巨大な主翼のすぐ隣、手を伸ばせば届きそうな距離まで肉薄していた。
零戦の操縦席に座るのは、台湾沖航空戦を戦い抜いた坂本上等飛行兵曹。
その顔は、マクシミリアンとは対照的に、恐ろしいほど無機質で静かだ。日に焼けた精悍な顔立ち、血走った眼だけが獲物を捕らえて離さない。坂本は、あえて引き金を引かずに距離を詰めました。敵の銃座の死角に潜り込み、相手の表情、そして計器板の反射さえ見える距離まで。
マクシミリアンと坂本の視線が、時速400kmの極限状態で交差した。
マクシミリアンの顔に浮かんだのは「なぜ、ここにいるんだ」という絶望。
坂本の口元が、わずかに、冷酷に歪みました。
「……終わりだ、オージー」
坂本が親指でトリガーを押し下げると、20mm機銃の火線がボーファイターのエンジンナセルを至近距離からえぐり取りました。爆発的な火炎がマクシミリアンの視界を真っ赤に染め、重量のあるボーファイターの巨体は、海面を跳ねる石のように水面に激突。一瞬にして無数の破片となって四散した。
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一方、別の編隊では一式戦闘機「隼」三型が、低空での「格闘掃討」を続ける。
佐藤准尉は、水メタノール噴射装置を全開にし、隼特有の軽快な機動でボーファイターの編隊を内側から切り裂く。
佐藤の顔は、激しいG(重力加速度)によって歪み、剥き出しの歯からは呻きが漏れていた。しかし、その手足は機体と一体化したかのように滑らかに動く。
「陸軍の隼を舐めるなよ……!」
佐藤は、ロケット弾と爆弾で攻撃しようと高度を下げたボーファイターの、翼の下面にある「弱点」を突く。12.7mm機関砲の連射が、発射直前のロケット弾を直撃。
ボーファイターの操縦席では、若い豪州兵が最期に愛する者の名を叫ぼうと口を開くが、その言葉が形になる前に、自機が抱えたロケット弾の誘爆によって機体ごと炎上した。
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海面を這うように飛んでいた、ボーファイターの群れは、いまや海面に点々と広がる燃える油と、波に揺れる破壊された機体、そして沈みゆく残骸へと姿を変えていた。
坂本兵曹は、愛機の翼を大きく振って、脱出した敵兵を撃つことなく基地へと機首を向けた。彼の防空帽の下にある顔には、勝利の歓喜ではなく、ただ過酷な任務を完遂した男の、深い疲労と冷徹な安堵だけが刻まれていた。
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バリクパパンは、静寂に包まれていた。
バリクパパンの巨大な蒸留塔や貯油タンク群は、黒煙一つ上げることなく、午後の強い日差しの中で白く輝いていた。タラカンの空を焼き尽くす爆炎とは対照的に、ここは、まるで時間が止まったかのような平穏を保っている。
製油所の防空を担う陸軍高射砲部隊の将兵たちは、空っぽになった青空を見上げ、安堵と困惑が入り混じった表情を浮かべていた。彼らは死を覚悟して配置についていたのだ。
その静寂を破ったのは、遥か彼方から響く、聞き慣れたエンジンの音であった。
高度を下げながら、バリクパパンの上空へ差し掛かったのは、陸軍の「隼(一式戦闘機)」と、海軍の「零戦(五二型)」の混成編隊であった。
彼らは、上空での死闘を終え、基地へと帰還してきたのだ。
陸軍の隼は、機体に敵の機銃掃射を受けた痕跡が残り、尾翼の部隊マークが誇らしげに輝いている。操縦士たちは、弾薬を撃ち尽くし、疲労の色を隠せないものの、その目は、巨大な製油所が無事であることを確認し、安堵の光を宿していた。
海軍の零戦は、濃緑色の機体をバリクパパンの空を背景に、隼と共に整然と編隊を組んで飛行している。彼らもまた、弾倉を空にし、エンジンの咆哮を製油所へと響かせながら、静かなる勝利を報告していた。
製油所で働く現地の作業員や、防空壕から出てきた将兵たちは、頭上を通過する隼と零戦の勇姿を見上げ、歓声を上げた。
「俺たちの空は、彼らが守ってくれたんだ」
弾薬を撃ち尽くし、基地へと帰還する隼と零戦の翼は、油田を守り抜いた、帝国の守護者たちの誇りそのものであった。
ブルネイ司令部。
「……ボーファイター部隊、全滅。わが方の被害、極少」
山下大将は、窓の外に広がる平穏なジャングルの海を見つめ、静かに呟きました。
「空の橘花、海の烈風……そして低空を支えた陸海軍の古豪。これが今の我が軍の力だ」
1945年7月20日。カリマンタン島を襲った5回の嵐は、すべて過ぎ去った。オーストラリア空軍の誇った「世界第4位」の威容は、この地で、永遠に失われたかに思われた。




