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待たせたな!  作者: 僧籍
最終章

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263/280

1-2 ユーラシア・ユニット――最初の相場表

 ユーラシア・ユニット――最初の相場表


 一九五〇年六月、ハルビン。


 ユーラシア経済協力機構本部の地下会議室には、各国から集まった代表者たちが並んでいた。机の中央には、一枚の紙が置かれている。誰も、それに手を触れようとはしなかった。紙の上部には、ただ一行。「ユーラシア・ユニット公定基準相場表」と書かれていた。


「これを公表すれば、各国の通貨に対するEUの価値が決まります」


 ユーラシア決済評議会議長の高橋が言った。


「日本円に対して1EUはいくらなのか。満州元に対してはいくらなのか。トゥグルグに対してはいくらなのか」


 モンゴル代表のバトバートルが腕を組む。


「つまり、EUが新しい通貨になるということですか?」


「違います」


 高橋は即座に答えた。


「EUは通貨ではありません」


「しかし、相場がある」


「ええ」


「銀行が交換する」


「ええ」


「企業がそれを基準に契約する」


「その通りです」


 バトバートルは眉をひそめた。


「それなら、通貨と何が違うのです?」


 高橋は少し考えてから答えた。


「EUそのものを、あなたの国の人間が市場で使うことはありません」


「……」


「パンを買うとき、トゥグルグを使う。給料を払うときもトゥグルグを使う。税金もトゥグルグで納める。日本では円を使う。満州では満州元を使う」


 高橋は紙の上に指を置いた。


「EUは、その国境と国境の間だけに存在する」


 会議室が静かになった。


「貿易の帳簿に存在する。中央銀行の清算記録に存在する。そして、各国が互いの価値を測るときに存在する」


 ---


 1EU、360円


 高橋が紙をめくった。


「第一項」


 全員が資料を見た。


  1EU=360円


 日本代表の一人が頷く。


 しかし、すぐに満州側から質問が飛んだ。


「なぜ360円なのです?」


「日本円だけを基準にしているわけではありません」


 高橋は答えた。


「EUは複数の実物資産を基礎にしています」


 後方の係官が黒板に数字を書いた。


 日本の工業製品・技術・円 20%

 満州の鉄鋼・機械・化学製品 20%

 モンゴルの石炭・金・畜産資源 15%

 自治国の石油・鉱物 20%

 農林資源 10%

 鉄道・輸送サービス 10%

 戦略備蓄・金準備 5%


「これがEUの基礎です」


 日本代表が資料をめくる。


「つまり、円だけが強くなってもEU全体が同じ割合で強くなるわけではない」


「その通りです」


「逆も同じか」


「はい」


 高橋は頷いた。


「EUは一国の通貨ではなく、加盟国の生産力と資源と輸送能力を束ねた計算単位です」


 ---


 満州元


「では、満州は?」


 満州代表が尋ねた。


 高橋は次の行を読み上げた。


 1EU=24満州元


 満州代表はしばらく数字を見つめた。


「満州の工業生産は、今後さらに増えます」


「承知しています」


「鉄鋼も機械も化学工業も拡大している」


「だからこそ、固定値にはしません」


 高橋は説明した。


「一年ごとに生産量、輸出量、価格、備蓄量を再計算する」


「つまり……」


「満州の工業力が大きくなれば、EUの資産構成にも影響します」


 満州代表は黙った。


 EUは単なる「数字」ではない。


 工場が増えれば変わる。


 鉄道が伸びれば変わる。


 炭鉱が増産すれば変わる。


 農地が開墾されれば変わる。


 それは、紙の上の金融商品ではなく、大陸そのものの生産力を数字に変換する制度だった。


 ---


 モンゴル・トゥグルグ


 次の行が読み上げられる。


 1EU=120トゥグルグ


 モンゴル代表のバトバートルは、今度は黙って数字を書き写した。


「石炭価格が下がった場合は?」


「再評価します」


「金の産出量が増えた場合は?」


「再評価します」


「羊毛が増産された場合は?」


「同じです」


「では、モンゴルが鉄道を整備すれば?」


 高橋が微笑んだ。


「それもEUの価値に影響します」


 バトバートルは顔を上げた。


「鉄道まで?」


「当然です」


 高橋は地図を指差した。


「資源があっても運べなければ、経済的価値は限定される」


 地図には、モンゴルから満州へ伸びる鉄道が描かれていた。


「鉱山から駅までの道路」


「駅から国境までの鉄道」


「国境から工場までの輸送」


「港湾への接続」


 高橋は言った。


「それらすべてが、EUの裏付けです」


 バトバートルはしばらく地図を見ていた。


 そして、小さく笑った。


「なるほど」


「何か?」


「我々が線路を一本延ばせば、数字まで変わるのですな」


 ---


 固定相場ではない


 会議はその日の午後まで続いた。最大の争点は、EUと各国通貨の相場を固定するかどうかだった。

 日本側は安定を求めた。

 モンゴル側は、資源価格の変動を考慮するよう求めた。

 自治国側は、外部市場の急激な変動が国内経済に波及することを警戒していた。

 最終的に採択されたのは、「管理変動制」だった。基準相場を中心に、一定の範囲内で変動させる。


 例えば日本円なら、基準値1EU=360円、許容変動幅±五%。つまり、 342円~378円の範囲を原則とする。


 異常な投機や短期的な混乱によって、この範囲を超えそうになった場合、ユーラシア決済評議会が協議を開始する。しかし、相場を永遠に固定することもしない。実体経済が変われば、基準そのものを見直す。それが原則だった。


 ---


 EUは市場に流さない


「もう一つ」


 日本代表が資料を閉じながら言った。


「EUそのものの市場取引を禁止する必要があります」


 何人かが顔を上げた。


「EUを自由に売買できるようにすれば、結局、EUそのものが投機対象になる」


 高橋は頷いた。


「その通りです」


「では、どうする?」


「EUは中央銀行間の清算単位とします」


 日本の企業が満州から鉄鋼を購入する。

 その取引はEUで記録される。

 しかし日本企業が実際に支払うのは円。

 満州企業が受け取るのも満州元。

 中央銀行同士がEUによって債権・債務を清算する。

 EUそのものが市民の財布に入ることはない。


「これなら、EUを買い占めることもできない」


「投機市場も作れない」


「通貨危機が起きても、EUそのものが一夜で消えることはない」


 高橋は最後に言った。


「我々はEUを儲けるために作ったのではありません」


 一同が静かに聞いていた。


「互いの生産物を、安定して交換するために作ったのです」


 ---


 最初の清算


 一九五〇年七月、最初の本格的なEU決済が行われた。モンゴルから日本へ石炭が輸出された。


 価値は、五十万EU。モンゴル側の中央銀行では、五十万EU=六千万トゥグルグとして記録された。日本側では、五十万EU=一億八千万円。だが、モンゴル企業が一億八千万円を受け取ったわけでも、日本企業が六千万トゥグルグを払ったわけでもない。双方の中央銀行の帳簿に、五十万EUという共通の記録が刻まれた。その記録をもとに、日本側はモンゴルからの輸入代金を円で決済し、モンゴル側は自国企業にトゥグルグを支払った。そしてモンゴルは、その五十万EU相当の清算権を使って、満州から工作機械を購入した。


 石炭が機械へ変わった。

 機械が工場へ入り、工場が新しい製品を作る。

 その製品が再び別の国へ輸出される。

 EUは、その循環を記録していた。


 ---


 最初の相場表


 同年八月、ハルビン駅前の新聞売店に、一枚の公告が貼り出された。


 ユーラシア経済協力機構

 第一回公定清算相場


 1EU=360円

 1EU=24満州元

 1EU=120トゥグルグ

 1EU=18シベリア自治国ルーブル

 1EU=20バイカル自治国ルーブル

 1EU=22沿シベリア自治国ルーブル

 1EU=16アルタイ自治国ルーブル


 人々はその前に立ち止まった。


「EUって何だ?」


「新しい金か?」


「違うらしい」


「じゃあ、何に使う?」


「普通の店では使えないそうだ」


「じゃあ、なんで相場がある?」


 誰かが答えた。


「国と国の間で使うんだろ」


 人々には、まだその意味が完全には理解できなかった。


 だが、経済人たちは違った。

 銀行家は数字を見た。

 商人は契約書を見た。

 工場主は原材料の価格を見た。

 鉄道会社は輸送量を見た。

 鉱山会社は埋蔵量を見た。

 そして政府は、自国の生産力そのものを見た。


 EUの価値を高めるために紙幣を印刷することはできない。

 必要なのは、


 石炭を掘ること。

 鉄を作ること。

 機械を作ること。

 農地を耕すこと。

 油を採ること。

 鉄道を延ばすこと。

 そして、それらを互いに交換できる制度を守ること。

 EUは、その現実を数字に変えた。


 ---


 十年後


 一九六〇年、ハルビンの決済評議会では、十年前の相場表が額縁に入れられていた。新しい相場表が、その隣に掲げられる。


 数字は変わっていた。

 日本の工業生産は増えた。

 満州の鉄鋼生産は十年前とは比較にならない規模になっていた。

 モンゴルでは鉱山と鉄道が拡張された。

 自治国では油田と農地が開発された。

 シベリア鉄道の輸送能力も増えている。

 EUの基準も、それに合わせて改訂される。

 ある若い職員が、古い相場表を見ながら言った。


「十年前のEUと今のEUでは、同じ名前でも意味が違いますね」


 上司が答えた。


「数字が変わったからか?」


「いいえ」


 若い職員は窓の外を見た。駅では貨物列車が動き始めていた。


「十年前には、まだ存在しなかった工場や鉄道や鉱山が、今は存在している」


 上司は頷いた。


「そうだ」


「つまりEUは、紙の価値を維持しているんじゃない」


「……」


「我々が作った現実の価値を、数字にしているんですね」


 上司はしばらく黙っていた。そして、前回の相場表を額縁から外した。


「だからこそ」


 彼は言った。


「数字だけを守ろうとしてはいけない」


 新しい相場表を壁に掛ける。


「守るべきなのは、数字の後ろにあるものだ」


 窓の向こうで汽笛が鳴った。


 日本から来た機械

 満州から来た鉄鋼

 モンゴルから来た石炭

 自治国から来た石油

 シベリアから来た木材


 それらを積んだ列車が、広大なユーラシアを横断していく。


 EUは財布の中にはない。

 銀行券にも印刷されていない。

 市場の店頭で使うこともできない。

 それでも、大陸のあちこちに存在していた。

 帳簿の中に。

 契約書の中に。

 鉄道の運行計画の中に。

 鉱山の生産計画の中に。


 そして何より、


 国境を越えて互いの生産物を必要とするという、国家間の現実の中に。それが、 EU――ユーラシア・ユニットだった。


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