1-2 ユーラシア・ユニット――最初の相場表
ユーラシア・ユニット――最初の相場表
一九五〇年六月、ハルビン。
ユーラシア経済協力機構本部の地下会議室には、各国から集まった代表者たちが並んでいた。机の中央には、一枚の紙が置かれている。誰も、それに手を触れようとはしなかった。紙の上部には、ただ一行。「ユーラシア・ユニット公定基準相場表」と書かれていた。
「これを公表すれば、各国の通貨に対するEUの価値が決まります」
ユーラシア決済評議会議長の高橋が言った。
「日本円に対して1EUはいくらなのか。満州元に対してはいくらなのか。トゥグルグに対してはいくらなのか」
モンゴル代表のバトバートルが腕を組む。
「つまり、EUが新しい通貨になるということですか?」
「違います」
高橋は即座に答えた。
「EUは通貨ではありません」
「しかし、相場がある」
「ええ」
「銀行が交換する」
「ええ」
「企業がそれを基準に契約する」
「その通りです」
バトバートルは眉をひそめた。
「それなら、通貨と何が違うのです?」
高橋は少し考えてから答えた。
「EUそのものを、あなたの国の人間が市場で使うことはありません」
「……」
「パンを買うとき、トゥグルグを使う。給料を払うときもトゥグルグを使う。税金もトゥグルグで納める。日本では円を使う。満州では満州元を使う」
高橋は紙の上に指を置いた。
「EUは、その国境と国境の間だけに存在する」
会議室が静かになった。
「貿易の帳簿に存在する。中央銀行の清算記録に存在する。そして、各国が互いの価値を測るときに存在する」
---
1EU、360円
高橋が紙をめくった。
「第一項」
全員が資料を見た。
1EU=360円
日本代表の一人が頷く。
しかし、すぐに満州側から質問が飛んだ。
「なぜ360円なのです?」
「日本円だけを基準にしているわけではありません」
高橋は答えた。
「EUは複数の実物資産を基礎にしています」
後方の係官が黒板に数字を書いた。
日本の工業製品・技術・円 20%
満州の鉄鋼・機械・化学製品 20%
モンゴルの石炭・金・畜産資源 15%
自治国の石油・鉱物 20%
農林資源 10%
鉄道・輸送サービス 10%
戦略備蓄・金準備 5%
「これがEUの基礎です」
日本代表が資料をめくる。
「つまり、円だけが強くなってもEU全体が同じ割合で強くなるわけではない」
「その通りです」
「逆も同じか」
「はい」
高橋は頷いた。
「EUは一国の通貨ではなく、加盟国の生産力と資源と輸送能力を束ねた計算単位です」
---
満州元
「では、満州は?」
満州代表が尋ねた。
高橋は次の行を読み上げた。
1EU=24満州元
満州代表はしばらく数字を見つめた。
「満州の工業生産は、今後さらに増えます」
「承知しています」
「鉄鋼も機械も化学工業も拡大している」
「だからこそ、固定値にはしません」
高橋は説明した。
「一年ごとに生産量、輸出量、価格、備蓄量を再計算する」
「つまり……」
「満州の工業力が大きくなれば、EUの資産構成にも影響します」
満州代表は黙った。
EUは単なる「数字」ではない。
工場が増えれば変わる。
鉄道が伸びれば変わる。
炭鉱が増産すれば変わる。
農地が開墾されれば変わる。
それは、紙の上の金融商品ではなく、大陸そのものの生産力を数字に変換する制度だった。
---
モンゴル・トゥグルグ
次の行が読み上げられる。
1EU=120トゥグルグ
モンゴル代表のバトバートルは、今度は黙って数字を書き写した。
「石炭価格が下がった場合は?」
「再評価します」
「金の産出量が増えた場合は?」
「再評価します」
「羊毛が増産された場合は?」
「同じです」
「では、モンゴルが鉄道を整備すれば?」
高橋が微笑んだ。
「それもEUの価値に影響します」
バトバートルは顔を上げた。
「鉄道まで?」
「当然です」
高橋は地図を指差した。
「資源があっても運べなければ、経済的価値は限定される」
地図には、モンゴルから満州へ伸びる鉄道が描かれていた。
「鉱山から駅までの道路」
「駅から国境までの鉄道」
「国境から工場までの輸送」
「港湾への接続」
高橋は言った。
「それらすべてが、EUの裏付けです」
バトバートルはしばらく地図を見ていた。
そして、小さく笑った。
「なるほど」
「何か?」
「我々が線路を一本延ばせば、数字まで変わるのですな」
---
固定相場ではない
会議はその日の午後まで続いた。最大の争点は、EUと各国通貨の相場を固定するかどうかだった。
日本側は安定を求めた。
モンゴル側は、資源価格の変動を考慮するよう求めた。
自治国側は、外部市場の急激な変動が国内経済に波及することを警戒していた。
最終的に採択されたのは、「管理変動制」だった。基準相場を中心に、一定の範囲内で変動させる。
例えば日本円なら、基準値1EU=360円、許容変動幅±五%。つまり、 342円~378円の範囲を原則とする。
異常な投機や短期的な混乱によって、この範囲を超えそうになった場合、ユーラシア決済評議会が協議を開始する。しかし、相場を永遠に固定することもしない。実体経済が変われば、基準そのものを見直す。それが原則だった。
---
EUは市場に流さない
「もう一つ」
日本代表が資料を閉じながら言った。
「EUそのものの市場取引を禁止する必要があります」
何人かが顔を上げた。
「EUを自由に売買できるようにすれば、結局、EUそのものが投機対象になる」
高橋は頷いた。
「その通りです」
「では、どうする?」
「EUは中央銀行間の清算単位とします」
日本の企業が満州から鉄鋼を購入する。
その取引はEUで記録される。
しかし日本企業が実際に支払うのは円。
満州企業が受け取るのも満州元。
中央銀行同士がEUによって債権・債務を清算する。
EUそのものが市民の財布に入ることはない。
「これなら、EUを買い占めることもできない」
「投機市場も作れない」
「通貨危機が起きても、EUそのものが一夜で消えることはない」
高橋は最後に言った。
「我々はEUを儲けるために作ったのではありません」
一同が静かに聞いていた。
「互いの生産物を、安定して交換するために作ったのです」
---
最初の清算
一九五〇年七月、最初の本格的なEU決済が行われた。モンゴルから日本へ石炭が輸出された。
価値は、五十万EU。モンゴル側の中央銀行では、五十万EU=六千万トゥグルグとして記録された。日本側では、五十万EU=一億八千万円。だが、モンゴル企業が一億八千万円を受け取ったわけでも、日本企業が六千万トゥグルグを払ったわけでもない。双方の中央銀行の帳簿に、五十万EUという共通の記録が刻まれた。その記録をもとに、日本側はモンゴルからの輸入代金を円で決済し、モンゴル側は自国企業にトゥグルグを支払った。そしてモンゴルは、その五十万EU相当の清算権を使って、満州から工作機械を購入した。
石炭が機械へ変わった。
機械が工場へ入り、工場が新しい製品を作る。
その製品が再び別の国へ輸出される。
EUは、その循環を記録していた。
---
最初の相場表
同年八月、ハルビン駅前の新聞売店に、一枚の公告が貼り出された。
ユーラシア経済協力機構
第一回公定清算相場
1EU=360円
1EU=24満州元
1EU=120トゥグルグ
1EU=18シベリア自治国ルーブル
1EU=20バイカル自治国ルーブル
1EU=22沿シベリア自治国ルーブル
1EU=16アルタイ自治国ルーブル
人々はその前に立ち止まった。
「EUって何だ?」
「新しい金か?」
「違うらしい」
「じゃあ、何に使う?」
「普通の店では使えないそうだ」
「じゃあ、なんで相場がある?」
誰かが答えた。
「国と国の間で使うんだろ」
人々には、まだその意味が完全には理解できなかった。
だが、経済人たちは違った。
銀行家は数字を見た。
商人は契約書を見た。
工場主は原材料の価格を見た。
鉄道会社は輸送量を見た。
鉱山会社は埋蔵量を見た。
そして政府は、自国の生産力そのものを見た。
EUの価値を高めるために紙幣を印刷することはできない。
必要なのは、
石炭を掘ること。
鉄を作ること。
機械を作ること。
農地を耕すこと。
油を採ること。
鉄道を延ばすこと。
そして、それらを互いに交換できる制度を守ること。
EUは、その現実を数字に変えた。
---
十年後
一九六〇年、ハルビンの決済評議会では、十年前の相場表が額縁に入れられていた。新しい相場表が、その隣に掲げられる。
数字は変わっていた。
日本の工業生産は増えた。
満州の鉄鋼生産は十年前とは比較にならない規模になっていた。
モンゴルでは鉱山と鉄道が拡張された。
自治国では油田と農地が開発された。
シベリア鉄道の輸送能力も増えている。
EUの基準も、それに合わせて改訂される。
ある若い職員が、古い相場表を見ながら言った。
「十年前のEUと今のEUでは、同じ名前でも意味が違いますね」
上司が答えた。
「数字が変わったからか?」
「いいえ」
若い職員は窓の外を見た。駅では貨物列車が動き始めていた。
「十年前には、まだ存在しなかった工場や鉄道や鉱山が、今は存在している」
上司は頷いた。
「そうだ」
「つまりEUは、紙の価値を維持しているんじゃない」
「……」
「我々が作った現実の価値を、数字にしているんですね」
上司はしばらく黙っていた。そして、前回の相場表を額縁から外した。
「だからこそ」
彼は言った。
「数字だけを守ろうとしてはいけない」
新しい相場表を壁に掛ける。
「守るべきなのは、数字の後ろにあるものだ」
窓の向こうで汽笛が鳴った。
日本から来た機械
満州から来た鉄鋼
モンゴルから来た石炭
自治国から来た石油
シベリアから来た木材
それらを積んだ列車が、広大なユーラシアを横断していく。
EUは財布の中にはない。
銀行券にも印刷されていない。
市場の店頭で使うこともできない。
それでも、大陸のあちこちに存在していた。
帳簿の中に。
契約書の中に。
鉄道の運行計画の中に。
鉱山の生産計画の中に。
そして何より、
国境を越えて互いの生産物を必要とするという、国家間の現実の中に。それが、 EU――ユーラシア・ユニットだった。




