1-3 市民たちのEU決済
8満州元の日本語書籍
一九五一年、秋。ハルビンの朝は冷たかった。
大学の構内では、学生たちが厚手の外套を着込み、吐く息を白くしながら講義室へ向かっていた。工学部二年の張明宇は、その日の講義が終わると、大学正門の向かいにある小さな書店へ向かった。
店の名前は、「東亜書房」だった。日本から輸入された技術書、医学書、文学書、辞書、農業書。満洲国内で出版された書籍と並んで、日本の本が棚いっぱいに並べられている。明宇は店内に入ると、奥の棚へ向かった。
「あった……」
探していた本を見つけた。日本の大学で使われている機械工学の教科書だった。表紙をめくる。図面が多い。説明も分かりやすい。大学の教授が講義中に、「この本は日本の工業大学でも使用されている。興味がある者は読んでおきなさい」と言っていた本だった。明宇は本を抱えて、カウンターへ持っていった。
「これ、いくらですか?」
店主が値札を確認する。
「8満州元です」
「8元……」
明宇は財布を取り出した。学生にとって八元は安くない。しかし、今月は食費を少し節約すれば買えない額ではない。
「買います」
「はい」
明宇は八枚の紙幣を差し出した。店主は受け取ると、領収証を切った。明宇は何気なく尋ねた。
「店主さん。この本、日本ではいくらなんですか?」
「120円ですよ」
「120円?」
「ええ」
明宇は少し考えた。
「じゃあ……どうして満洲では8元なんです?」
店主は笑った。
「君、大学生だろう?」
「はい」
「ならEUくらい習ったんじゃないのか?」
「あれは国際経済の授業で少し……」
店主はカウンターの下から小さな計算表を取り出した。そこには、現在の公定清算相場が印刷されていた。
1EU=360円=24満州元
「日本の120円は?」
店主が指を動かす。
「3分の1EU」
そして満州元の欄を見る。
「3分の1EUは8元」
「なるほど……」
明宇は本を見つめた。
「でも、僕はEUなんて持っていませんよ」
「持つ必要はない」
「え?」
「君は満州元を払えばいい」
店主は8元を銀行へ預ける。銀行は輸入業者の帳簿に記録する。輸入業者が日本の出版社へ支払うべき金額を、ユーラシア決済網で清算する。
日本側では、3分の1EU=120円として処理される。
「つまり……」
明宇は考えながら言った。
「僕は満州元を払う」
「そう」
「日本の出版社は円を受け取る」
「その通り」
「その間にEUがある」
「そういうことだ」
店主は笑った。
「EUは、君の財布に入るものじゃない」
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店を出ると、冷たい風が吹いていた。明宇は買ったばかりの本を胸に抱えた。大学へ戻る道の途中、ふと足を止める。街の向こうには、貨物列車が走っていた。
満洲の工場へ向かう鉄鋼
モンゴルから運ばれてきた石炭
日本から輸入された工作機械
そして、彼の腕の中には日本の教科書
明宇は本の表紙を見つめた。
「これも貿易なんだな……」
今まで彼にとって貿易とは、新聞に書かれている数字だった。
石炭何万トン
鉄鋼何万トン
輸出額何百万EU
そんな数字だけだった。しかし今、自分自身がその一部になった。
8満州元。
120円。
3分の1EU。
たった一冊の本が、それら三つの数字を結んでいる。
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日本から来た知識
数日後、講義室で教授が黒板に機械の断面図を描いていた。
「この設計については、日本の工業大学で研究が進んでいる」
教授は言った。
「先日、日本から新しい技術書が届いた。興味のある学生は図書館で読んでおきなさい」
学生たちがざわめく。
「日本の本ですか?」
「そうだ」
「日本語ですよね?」
「だから日本語を勉強しておけと言っただろう」
笑いが起こった。明宇は黙って、自分の鞄を見た。中には、あの本が入っている。昨夜、遅くまで読んだ。まだ日本語の専門用語には苦労する。それでも、図面と数字は世界共通だった。そして数ページ読むたびに、新しい知識が頭に入ってくる。
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昼休み、友人の李が尋ねた。
「その本、日本から来たんだろ?」
「そうだよ」
「高かったか?」
「8元」
「8元!」
李が目を丸くする。
「学生には高いな」
「でも、日本では120円らしい」
「それなら、ずいぶん安いじゃないか」
「EUで計算すると同じなんだ」
「EU?」
「1EUが360円で、24満州元だから」
李はしばらく考えた。
「じゃあ……」
彼は笑った。
「日本人が八元払っても、同じ本が買えるのか?」
「いや、日本では円だよ」
「そうか」
李は少し考えてから言った。
「不思議な制度だな」
「僕もそう思う」
「でも便利じゃないか」
「うん」
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海を越える本
その夜、東亜書房では、新しい荷物が届いていた。木箱の中には、日本から輸送された大量の書籍が入っている。
工学 医学 農業 文学 法律 数学 辞書
そして、日本の大学で出版された研究論文集
店主は一冊ずつ棚に並べていった。その中には、満洲ではまだ出版されていない分野の本もあった。店の外では、学生たちが待っている。
「新刊は来た?」
「日本から届いた?」
「医学書は?」
「航空工学は?」
店主は笑いながら答えた。
「慌てるな。全部ある」
誰かが尋ねる。
「値段は?」
「明日、銀行の清算価格が確定してから決める」
「EUですか?」
「そうだ」
その言葉を聞いた学生たちは、特別な反応を示さなかった。
EUは、いつの間にか日常の一部になっていた。
学生が本を買う。
研究者が論文を取り寄せる。
病院が日本の医療機器を購入する。
工場が日本製の工作機械を輸入する。
そのたびに、国際決済の帳簿のどこかにEUの数字が記録される。
だが、市民がそれを見ることはほとんどない。
彼らにとってEUとは、「国境を越えて物を買える仕組み」だった。
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十年後
一九六一年。
かつて8満州元で買った教科書を抱えていた張明宇は、今では大学の講師になっていた。研究室の本棚には、日本語の専門書が並んでいる。
満洲で出版された本
日本から来た本
モンゴルの鉱業研究
自治国の地質調査報告
シベリア鉄道の輸送技術に関する論文
十年前には、これほど多くの本が手に入るとは思わなかった。研究室に入ってきた学生が尋ねる。
「先生。この日本の本、注文してもいいですか?」
「もちろんだ」
「いくらですか?」
明宇は本の値段を見る。
「12満州元だ」
「高い……」
「日本では?」
「480円です」
学生が計算する。
「1EUが……」
「そう」
明宇が笑った。
「EUは本を買うための通貨じゃない」
「はい」
「だが、EUがあるから、本を買うための国境を越えた決済が簡単になった」
学生は本を見つめた。
「つまり……」
「そうだ」
明宇は窓の外を見た。ハルビン駅から貨物列車が出ていく。その列車には、工業製品だけではなく、書籍も積まれている。
「EUが運んでいるのは、石炭や鉄だけじゃない」
学生が顔を上げる。
「知識も運んでいるんだ」
列車の汽笛が鳴った。遠ざかる列車を見ながら、明宇は十年前のことを思い出した。8満州元で買った、一冊の日本の本。あの一冊から始まった知識が、今では自分の研究室の本棚を埋め尽くしている。
そして彼は理解していた。
EUとは、紙幣ではない。
硬貨でもない。
財布に入れることもできない。
それでも、1冊の本を東京からハルビンまで届けることができる。それが、EUという制度が大陸の人々に与えた、最も静かな変化だった。




