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待たせたな!  作者: 僧籍
最終章

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264/280

1-3 市民たちのEU決済

8満州元の日本語書籍


一九五一年、秋。ハルビンの朝は冷たかった。


 大学の構内では、学生たちが厚手の外套を着込み、吐く息を白くしながら講義室へ向かっていた。工学部二年の張明宇は、その日の講義が終わると、大学正門の向かいにある小さな書店へ向かった。


 店の名前は、「東亜書房」だった。日本から輸入された技術書、医学書、文学書、辞書、農業書。満洲国内で出版された書籍と並んで、日本の本が棚いっぱいに並べられている。明宇は店内に入ると、奥の棚へ向かった。


「あった……」


 探していた本を見つけた。日本の大学で使われている機械工学の教科書だった。表紙をめくる。図面が多い。説明も分かりやすい。大学の教授が講義中に、「この本は日本の工業大学でも使用されている。興味がある者は読んでおきなさい」と言っていた本だった。明宇は本を抱えて、カウンターへ持っていった。


「これ、いくらですか?」


 店主が値札を確認する。


「8満州元です」


「8元……」


 明宇は財布を取り出した。学生にとって八元は安くない。しかし、今月は食費を少し節約すれば買えない額ではない。


「買います」


「はい」


 明宇は八枚の紙幣を差し出した。店主は受け取ると、領収証を切った。明宇は何気なく尋ねた。


「店主さん。この本、日本ではいくらなんですか?」


「120円ですよ」


「120円?」


「ええ」


 明宇は少し考えた。


「じゃあ……どうして満洲では8元なんです?」


 店主は笑った。


「君、大学生だろう?」


「はい」


「ならEUくらい習ったんじゃないのか?」


「あれは国際経済の授業で少し……」


 店主はカウンターの下から小さな計算表を取り出した。そこには、現在の公定清算相場が印刷されていた。


1EU=360円=24満州元


「日本の120円は?」


 店主が指を動かす。


「3分の1EU」


 そして満州元の欄を見る。


「3分の1EUは8元」


「なるほど……」


 明宇は本を見つめた。


「でも、僕はEUなんて持っていませんよ」


「持つ必要はない」


「え?」


「君は満州元を払えばいい」


 店主は8元を銀行へ預ける。銀行は輸入業者の帳簿に記録する。輸入業者が日本の出版社へ支払うべき金額を、ユーラシア決済網で清算する。


 日本側では、3分の1EU=120円として処理される。


「つまり……」


 明宇は考えながら言った。


「僕は満州元を払う」


「そう」


「日本の出版社は円を受け取る」


「その通り」


「その間にEUがある」


「そういうことだ」


 店主は笑った。


「EUは、君の財布に入るものじゃない」


---


 店を出ると、冷たい風が吹いていた。明宇は買ったばかりの本を胸に抱えた。大学へ戻る道の途中、ふと足を止める。街の向こうには、貨物列車が走っていた。


 満洲の工場へ向かう鉄鋼

 モンゴルから運ばれてきた石炭

 日本から輸入された工作機械

 そして、彼の腕の中には日本の教科書


 明宇は本の表紙を見つめた。


「これも貿易なんだな……」


 今まで彼にとって貿易とは、新聞に書かれている数字だった。


 石炭何万トン

 鉄鋼何万トン

 輸出額何百万EU


 そんな数字だけだった。しかし今、自分自身がその一部になった。


 8満州元。

 120円。

 3分の1EU。

 たった一冊の本が、それら三つの数字を結んでいる。


---


日本から来た知識


 数日後、講義室で教授が黒板に機械の断面図を描いていた。


「この設計については、日本の工業大学で研究が進んでいる」


 教授は言った。


「先日、日本から新しい技術書が届いた。興味のある学生は図書館で読んでおきなさい」


 学生たちがざわめく。


「日本の本ですか?」


「そうだ」


「日本語ですよね?」


「だから日本語を勉強しておけと言っただろう」


 笑いが起こった。明宇は黙って、自分の鞄を見た。中には、あの本が入っている。昨夜、遅くまで読んだ。まだ日本語の専門用語には苦労する。それでも、図面と数字は世界共通だった。そして数ページ読むたびに、新しい知識が頭に入ってくる。


---


 昼休み、友人の李が尋ねた。


「その本、日本から来たんだろ?」


「そうだよ」


「高かったか?」


「8元」


「8元!」


 李が目を丸くする。


「学生には高いな」


「でも、日本では120円らしい」


「それなら、ずいぶん安いじゃないか」


「EUで計算すると同じなんだ」


「EU?」


「1EUが360円で、24満州元だから」


 李はしばらく考えた。


「じゃあ……」


 彼は笑った。


「日本人が八元払っても、同じ本が買えるのか?」


「いや、日本では円だよ」


「そうか」


 李は少し考えてから言った。


「不思議な制度だな」


「僕もそう思う」


「でも便利じゃないか」


「うん」


---


海を越える本


 その夜、東亜書房では、新しい荷物が届いていた。木箱の中には、日本から輸送された大量の書籍が入っている。


 工学 医学 農業 文学 法律 数学 辞書

 そして、日本の大学で出版された研究論文集


 店主は一冊ずつ棚に並べていった。その中には、満洲ではまだ出版されていない分野の本もあった。店の外では、学生たちが待っている。


「新刊は来た?」


「日本から届いた?」


「医学書は?」


「航空工学は?」


 店主は笑いながら答えた。


「慌てるな。全部ある」


 誰かが尋ねる。


「値段は?」


「明日、銀行の清算価格が確定してから決める」


「EUですか?」


「そうだ」


 その言葉を聞いた学生たちは、特別な反応を示さなかった。


 EUは、いつの間にか日常の一部になっていた。


 学生が本を買う。


 研究者が論文を取り寄せる。


 病院が日本の医療機器を購入する。


 工場が日本製の工作機械を輸入する。


 そのたびに、国際決済の帳簿のどこかにEUの数字が記録される。


 だが、市民がそれを見ることはほとんどない。


 彼らにとってEUとは、「国境を越えて物を買える仕組み」だった。


---


十年後

一九六一年。


 かつて8満州元で買った教科書を抱えていた張明宇は、今では大学の講師になっていた。研究室の本棚には、日本語の専門書が並んでいる。


 満洲で出版された本

 日本から来た本

 モンゴルの鉱業研究

 自治国の地質調査報告

 シベリア鉄道の輸送技術に関する論文


 十年前には、これほど多くの本が手に入るとは思わなかった。研究室に入ってきた学生が尋ねる。


「先生。この日本の本、注文してもいいですか?」


「もちろんだ」


「いくらですか?」


 明宇は本の値段を見る。


「12満州元だ」


「高い……」


「日本では?」


「480円です」


 学生が計算する。


「1EUが……」


「そう」


 明宇が笑った。


「EUは本を買うための通貨じゃない」


「はい」


「だが、EUがあるから、本を買うための国境を越えた決済が簡単になった」


 学生は本を見つめた。


「つまり……」


「そうだ」


 明宇は窓の外を見た。ハルビン駅から貨物列車が出ていく。その列車には、工業製品だけではなく、書籍も積まれている。


「EUが運んでいるのは、石炭や鉄だけじゃない」


 学生が顔を上げる。


「知識も運んでいるんだ」


 列車の汽笛が鳴った。遠ざかる列車を見ながら、明宇は十年前のことを思い出した。8満州元で買った、一冊の日本の本。あの一冊から始まった知識が、今では自分の研究室の本棚を埋め尽くしている。


 そして彼は理解していた。

 EUとは、紙幣ではない。

 硬貨でもない。

 財布に入れることもできない。


 それでも、1冊の本を東京からハルビンまで届けることができる。それが、EUという制度が大陸の人々に与えた、最も静かな変化だった。


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