シベリア戦役 14-2 オムスク防衛戦
シベリア戦役
オムスク防衛戦
1946年4月下旬
オムスクへ向かう道路には、兵士が歩いていた。誰も話さなかった。トラックの荷台には負傷兵。その隣には弾薬箱。さらにその隣には、古い機関銃。車両の数は少なかった。燃料がなかったからだ。ヴァシレフスキーは車列の先頭から、後方へ続く長い列を見ていた。その列は軍隊には見えなかった。難民の列にも見えた。だが、そのどちらでもなかった。それは、敗走する国家そのものだった。
---
オムスク。
かつてシベリア鉄道の重要都市だったこの街には、ノヴォシビルスク陥落の報が届いた翌日から、避難民が流れ込んできた。鉄道駅は人で溢れていた。東から来た者。西へ逃げようとする者。軍人。工場労働者。官僚。老人。子供。そして、負傷した兵士。誰もが同じ質問をしていた。
「日本軍はどこまで来ている?」
だが、誰にも正確な答えはなかった。ヴァシレフスキーが司令部に入ったとき、最初に目にしたのは地図だった。壁いっぱいに広げられたシベリアの地図。ノヴォシビルスクには赤い印。その東側には、さらにいくつもの印。日本軍の進撃線だった。彼は地図を見て、静かに言った。
「近いな」
参謀が答える。
「先遣部隊はノヴォシビルスクから西へ進んでいます」
「速度は?」
「一日あたり、およそ百キロ以上」
「……百キロ」
ヴァシレフスキーは椅子に座った。
「では、我々には何日ある?」
誰も答えなかった。彼はもう一度尋ねた。
「何日だ」
「……五日」
別の参謀が言った。
「長くても一週間です」
ヴァシレフスキーは時計を見た。
「では五日でやる」
「何をです?」
「軍隊を再編する」
---
問題は、人間ではなかった。兵士はいた。むしろ多すぎるほどいた。問題は、兵士を兵士として機能させるものだった。ドイツ戦ではこの都市から送り出していた物が、今は無い。イルクーツクから撤退してきた航空機、T-34-85戦車、銃、弾薬、砲、燃料、無線機、食料。そして、指揮官。ヴァシレフスキーは各部隊から提出された報告書を机に並べた。
オムスク守備隊 第39訓練狙撃師団――定員の七割。
実戦兵力――三割。
戦車連隊――保有車両三十二両。
稼働可能――十一両。
砲兵連隊――砲四十八門。
使用可能な砲弾――平均二日分。
航空連隊――航空機二十七機。
飛行可能――九機。
彼は一枚ずつめくった。数字が少なくなっていく。最後の報告書を置いた。
「これで日本軍を止めろと言うのか」
誰も答えなかった。ヴァシレフスキーは笑った。乾いた笑いだった。
「スターリンは私に何を期待しているんだろうな」
---
四月二十三日、最初の日本軍機がオムスク上空に現れた。警報、人々が地下へ逃げる。高射砲が撃ち上がる。しかし、日本軍機は高度を変え、街の中心ではなく軍の重要施設へ向かった。99艦爆の編隊が上空から爆撃目標に向かって爆撃を開始した。駅の東側の防御陣地から黒煙が上がる。次いで、燃料施設、軍用倉庫、戦車工場、通信施設、爆撃は正確だった。
ヴァシレフスキーは司令部の窓から煙を見た。
「なぜ市街地を狙わない?」
参謀が答える。
「必要がないのでしょう」
その言葉に、ヴァシレフスキーは振り向いた。
「そうだ」
彼は理解した。
「街を破壊する必要がない」
日本軍が欲しいのはオムスクそのものではない。オムスクの機能だった。
鉄道、燃料、戦車工場、トラック工場、橋、飛行場、通信。それらを奪えば、都市は自然に降伏する。
「敵は我々を殺すことより、我々を動けなくすることを考えている」
ヴァシレフスキーは呟いた。
---
その夜、彼は地下司令部で作戦会議を開いた。
「正面防衛はしない」
将校たちがざわめいた。
「閣下?」
「市街地を完全に囲って守るのは不可能だ」
ヴァシレフスキーは地図を指した。
「日本軍は鉄道を使ってくる。戦車と歩兵を列車で運び、航空機は占領した飛行場から前進してくる」
「ではどうするのです?」
「鉄道を切る」
一人の将校が首を振った。
「我々自身の鉄道でもあります」
「わかっている」
「破壊すれば、こちらも補給を失います」
「それでもだ」
ヴァシレフスキーは地図上の線路を指でなぞった。
「敵に使わせないために、一部を破壊する」
「そして?」
「戦車を止める」
「どこで?」
「都市ではない」
彼はオムスク東方の地形を指した。
「ここだ」
小さな河川、湿地、森林。鉄道が狭い地帯を通る場所だった。
「ここに対戦車砲を集める」
「戦車で迎撃しますか?」
「違う」
ヴァシレフスキーは首を振った。
「戦車は使わない」
「では?」
「歩兵だ」
---
四月二十五日、日本軍の先頭部隊がオムスク東方へ接近した。偵察隊から報告が入る。
「敵戦車多数」
「歩兵は?」
「機械化歩兵」
「砲兵は?」
「確認できるだけでも複数部隊」
「航空機は?」
「敵の飛行場から継続的に出撃しています」
ヴァシレフスキーは目を閉じた。予想どおりだった。日本軍は、ノヴォシビルスクを占領したことでさらに強くなっている。敵は進む。進むたびに補給拠点を手に入れる。飛行場を手に入れる。鉄道を手に入れる。そして、手に入れたものを次の攻撃に使う。それは止めなければならない。
---
午前九時、日本軍の砲撃が始まった。ソヴィエト軍陣地の前方で土煙が上がる。ヴァシレフスキーは後方の観測所から戦場を見ていた。
「まだ撃つな」
砲兵将校が緊張した顔で待つ。
「敵が近づいています」
「まだだ」
戦車が見える。
一両、二両、十両、その後ろにトラック、さらに歩兵。
「……まだだ」
日本軍が湿地帯へ入る。先頭車両が減速した。その瞬間。
「撃て」
一斉射撃。
砲弾が戦車の前方へ集中した。先頭の戦車が停止する。次の戦車が砲撃によって、爆炎に包まれる。続く車両が詰まる。日本軍歩兵が散開する。ソヴィエト軍の機関銃が火を噴いた。
「今だ!」
砲兵がさらに撃つ。数分間。日本軍の前進が止まった。司令部に歓声が上がる。
「やった!」
しかし、爆炎に包まれていた一式中戦車は装甲に黒い煤を付けたまま、動き出した。黒煙を振り払うように身震いした一式中戦車は、そのまま敵の射撃火炎が上がる地点へ向け、容赦なく榴弾を叩き込んだ。初弾がソヴィエト軍の機関銃陣地を直撃し、土嚢と兵士を吹き飛ばす。
それを合図に、後続の日本軍戦車が一斉に砲撃へ転じた。湿地帯で足を取られながらも、各車は正確に敵の砲火の位置を捉え、猛烈な榴弾の嵐を浴びせる。狙撃姿勢を保っていたソヴィエト軍の砲兵陣地は、一転して激しい爆煙と土煙に呑み込まれた。反撃どころか、頭を上げることすら許されない状況へと追い込まれていく。
観測所が砲風で激しく震えた。歓声が上がっていた司令部に、冷や水が浴びせられたような沈黙が広がる。
「ばかな……あの砲撃に耐えたというのか!?」
将校の一人が叫ぶ。ヴァシレフスキーは眉ひとつ動かさず、双眼鏡を握り直した。黒い煤を纏った日本の鉄の塊は、砲撃を浴びながらもなお、履帯を軋ませて泥を噛み、じりじりと距離を詰めてくる。湿地という障害すらも、彼らの進軍を完全に止める理由にはならなかった。
「砲兵隊、照準を修正しろ! 敵の先頭車両を叩け!」
ヴァシレフスキーの低い声が響く。だが、一度崩れたソヴィエト軍の射撃態勢を取り戻すのは容易ではなかった。日本軍歩兵も戦車の火力を背に受け、散開状態から迅速に肉薄を開始している。
「敵機銃の残存、確認! 撃ち続けろ!」
一式中戦車の砲身から吐き出される榴弾が、ソヴィエト軍の防衛線を着実に削り取っていく。戦場の主導権は、わずか数分のうちに完全に逆転していた。
---
午後、日本軍航空隊が到着した。空から爆音。爆弾が落ちる。ソヴィエト軍陣地が吹き飛ぶ。対空砲が応射する。しかし、日本軍は低空へ降りてきた。機関銃掃射。塹壕が土煙に包まれる。
「航空支援を!」
「我々の航空機は?」
「飛べるのは四機だけです!」
「出せ!」
四機の戦闘機が飛び立った。しかし、二十分後。二機が戻らなかった。残った二機も損傷していた。ヴァシレフスキーは空を見た。そして、理解した。
「制空権を失った」
誰も答えなかった。それは事実だった。
---
夕方、日本軍が再攻撃を開始した。今度は戦車だけではない。歩兵、砲兵、航空機。すべてが同時に動いた。ソヴィエト軍の第一線が崩れた。
「後退!」
「第二線へ!」
兵士たちが走る。負傷者を運ぶ。弾薬箱を抱える。だが、トラックが足りない。負傷者の一部はその場に残された。ヴァシレフスキーは無線機から流れる声を聞き続けた。
「こちら第三連隊!」
「敵が突破!」
「こちら第五師団!」
「砲弾がありません!」
「こちら工兵隊!」
「橋が破壊できません!」
声、声、声。
やがて、それらが混ざり合った。ヴァシレフスキーは無線機の電源を切った。静かになった。
「閣下?」
「もう十分だ」
彼は言った。
「第二防衛線へ撤退させろ」
---
四月二十六日、日本軍はオムスク東部へ侵入した。市街戦が始まった。だが、ノヴォシビルスクのときとは違っていた。ヴァシレフスキーは都市そのものを守ろうとはしなかった。部隊を小さく分けた。一個大隊を工場へ。一個中隊を鉄道施設へ。別の部隊を橋へ。そして、撤退する。日本軍が追いつく。また撤退。その背後で爆破。道路を塞ぐ。橋を落とす。倉庫を空にする。燃料を西へ運ぶ。彼は「勝つ」ためではなく、「時間を買う」ために戦った。
---
四月二十七日、日本軍はオムスク中央駅へ迫った。ヴァシレフスキーは駅を見下ろす建物の屋上にいた。線路の向こうから、日本軍戦車が現れる。その後ろには歩兵。さらにトラック。まるでノヴォシビルスクで見た光景の再現だった。
だが一つだけ違っていた。今度は、彼自身がその光景を待ち構えていた。
「列車を出せ」
「どの列車です?」
「最後の補給列車だ」
「まだ市内に残っています」
「全部西へ送れ」
「しかし、兵士が乗れません」
ヴァシレフスキーは一瞬だけ黙った。
「弾薬を優先しろ」
「……了解」
列車が動き始める。ゆっくり。そして、加速していく。その列車が西へ消えた直後。工兵が最後の爆薬を起爆した。鉄道橋が崩れた。巨大な鉄の塊が川へ落ちる。日本軍戦車が停止した。
「これで少しは遅れる」
ヴァシレフスキーは呟いた。だが、その瞬間。背後から砲撃音が聞こえた。日本軍が別の方向から市街地へ入ってきたのだ。
「橋を迂回した?」
「はい!」
ヴァシレフスキーは苦笑した。
「当然だな」
---
午後五時、オムスク中央部。ソヴィエト軍はすでに分断されていた。一部は西へ撤退。一部は包囲。一部は孤立。ヴァシレフスキーは司令部を撤収させた。最後に残ったのは数百人。
「閣下、これ以上は危険です」
「危険なのは最初からだ」
彼は外套を着た。
「行くぞ」
車が動き出す。その背後で、オムスクの中心部から銃声が響いていた。
---
夜、ヴァシレフスキーはオムスク西方の小さな村で車を止めた。街の方向を見る。空が赤かった。ノヴォシビルスクと同じだった。だが、今回は不思議と悔しくなかった。彼は敗北を認めていた。オムスクは守れなかった。だが、すべてを失ったわけではない。彼は参謀に尋ねた。
「西へ向かった部隊は?」
「集結中です」
「弾薬は?」
「一部確保しました」
「航空隊は?」
「残存機をさらに西へ移動させています」
「では、まだ軍隊はある」
参謀は黙った。ヴァシレフスキーは地図を広げた。その指が、西へ動いていく。オムスク。そして、その先。ペトロパブロフスク。クルガン。スヴェルドロフスク。さらに西。ヨーロッパ・ロシア。彼はそこで初めて気づいた。日本軍はシベリアを占領しているのではない。シベリアを通過している。その目的地は、もっと西なのだ。ヴァシレフスキーは地図を折りたたんだ。
「次は、都市を守らない」
参謀が顔を上げる。
「では何を?」
「軍隊を守る」
「軍隊を?」
「そうだ」
ヴァシレフスキーは言った。
「都市は一つ落ちれば終わる。しかし軍隊は、残ればまた戦える」
彼は西の空を見た。
「日本軍が欲しいのは鉄道だ」
「はい」
「なら、我々は鉄道の先で待つ」
「どこで?」
ヴァシレフスキーは地図の一点を指した。スヴェルドロフスク。
「ここで、初めて本当の戦いをする」
---
その頃。オムスク中央駅では、日本軍の兵士たちが線路を調べていた。工兵が橋梁を修復する。鉄道部隊が損傷した線路を直す。補給部隊が列車を待つ。そして、夜明け前。東から一編成の貨物列車が入ってきた。戦車。トラック。砲兵。燃料。弾薬。
日本軍の西進は、再び始まろうとしていた。シベリア鉄道は、まだ生きていた。そしてその鉄道は、日本軍をさらに西へ運ぶ。オムスクは陥落した。だが、ヴァシレフスキーは生き残った。彼は敗残兵たちを集めながら、静かに次の戦場へ向かった。
その先には、ウラル山脈があった。そしてその向こうには――ソヴィエト国家の心臓部があった。




