モンゴル征伐 10-1 モンゴル人民共和国
満州戦役において、外モンゴルからの電撃的な侵攻によって関東軍は多大な損害を受けて撃破された。イルツークツまで占領を完了した日本軍はソヴィエト軍ザバイカル方面軍の策源地であるモンゴル人民共和国が二度とソヴィエト軍の拠点にならないようにすべく行動を開始した。それは共産主義政権の解体と親日政権の樹立が最終目的である。
その為に軍事のみではなく、内政や外交などの国務が務まる内政チームを作る必要があり、 総合国家政治戦略企画機関へその体制の確立のすべてを依頼した。
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モンゴル人民共和国
世界で二番目の社会主義国家:ソヴィエトの「忠実な《盟友》」
1945年当時、モンゴル人民共和国は世界で二番目に誕生した社会主義国家(1924年建国)であり、事実上、ソヴィエトの強力な衛星国だ。最高指導者はホルローギィン・チョイバルサン。彼の指揮下でモンゴルは軍事国家化が進められていた。ソヴィエト軍の巨大な前進基地としてモンゴル全土が、ザバイカル方面軍(マリノフスキー元帥)の巨大な集結地となっていた。広大な草原と砂漠に大軍を移動させていた。
ホルローギーン・チョイバルサンは、1930年代後半からモンゴル人民共和国の最高指導者を務めた政治家・軍人。ソビエト連邦の指導者ジョセフ・スターリンと緊密な同盟関係を結び、国内で大規模な政治粛清を行ったことから、しばしば「モンゴルのスターリン」と呼ばれる。
チョイバルサン(本名ドゥガル)は、父親を知らない未婚の貧しい牧畜民の家庭に生まれた。13歳のとき、貧困から逃れるために仏教寺院へ入れられ、そこで「チョイバルサン」という宗教名を与えれた。17歳で寺院を脱走して首都ウランバートル(当時のウルガ)へ逃れ、雑用係として働いた。その後、親露派の知識人に助けられてロシア語翻訳学校に入学し、1914年からロシアのイルクーツクへ留学する。ここでロシア革命と共産主義思想に触れた。帰国後の1920年に、モンゴル建国の父と呼ばれるダムディン・スフバートルらと共にモンゴル人民党(のちの人民革命党)の創設メンバーとなる。
スフバートル亡き後、ソ連のスターリンの後援を受けて急速に台頭した。1936年に軍元帥および内務大臣に就任して治安・警察権力を握り、1939年には首相(人民委員会議長)に就任して名実ともに独裁体制を固めた。
1930年代後半から、スターリンの指示を仰ぐ形で「反革命分子の排除」を名目とした大粛清を主導した。自身の前に首相を務めていたゲレンドルジやアマルといった歴代の穏健派指導者たちを「日本のスパイ」として逮捕・処刑し、権力を完全に一極集中させた。文化の破壊、弾圧は凄まじく、当時10万人以上いたとされる仏教僧侶の階級はほぼ壊滅し、何百もの由緒ある寺院が灰になった。
当時のモンゴルの人口の数%にあたる約3万〜3万5,000人が処刑・投獄されたと推定する。
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1945年8月の作戦における役割
ソヴィエトの対日参戦(1945年8月9日)と同時に、モンゴルも対日宣戦布告を行う。外モンゴルから満州に攻め込んだソ蒙騎兵機甲集団(ソヴィエト軍イッサ・プリエフ少将指揮)はモンゴル軍の精鋭騎兵部隊とソヴィエト軍の機甲部隊が統合された特殊な部隊だ。ザバイカル方面軍は日本側が「大軍の通過は不可能」と断定していたゴビ砂漠と大興安嶺山脈を、驚異的な速度で突破しました。これが、関東軍が通遼付近までで一気に攻め込まれた最大の原因だった。
モンゴル軍の戦力構成
当時のモンゴル人民軍は、数こそソヴィエト軍に及ばないが、現地の地形を知り尽くした強力な補助戦力だった。モンゴル人騎兵 は圧倒的な機動力と忍耐力よって砂漠地帯での索敵、日本軍の退路遮断を行う能力があった。ソヴィエト軍の装甲車部隊の快速部隊のBA-64などと騎兵とが連携した電撃的な進撃を可能にした。連赤軍の第12航空軍(ザバイカル方面軍隷下)航空隊 Yak-9やLa-5などのソヴィエト機は局地的な制空権の確保した。
対日参戦
モンゴル国内に展開していたソビエト軍の装甲部隊や航空部隊の「ほぼすべて」が移動し、満洲・内モンゴルへの侵攻作戦へと投入された。ただし、それはプリエフ集団(ソ蒙機械化騎兵集団)だけを意味するのではない。ザバイカル方面軍という「巨大な主力軍」として、モンゴル全土が巨大な兵站基地・出撃拠点へと変貌し、国境を越えていった。
モンゴルはザバイカル方面軍の「巨大な発射台」だった。1945年8月の対日参戦に向けて、ソヴィエト軍はドイツ戦線から気の遠くなるような大移動を行い、シベリア経由でモンゴル国内へと膨大な軍事力を集結させた。満洲国の西側(現在の内モンゴル自治区側)から攻め込んだザバイカル方面軍は、この作戦の最大の主力だった。モンゴル国内の基地、東部のタムスク基地など、モンゴル平原に巨大な秘密基地群が急造され、数千両の戦車や航空機、膨大な燃料が隠されていた。
8月9日の午前0時、これらの基地にいたソヴィエト軍部隊は一斉に動き出し、国境を越えて満洲国および蒙古自治政府へと侵攻した。
移動した部隊の「二大ルート」モンゴル国内の集結地から出撃したソヴィエト軍の装甲・航空部隊は、主に次の2つのルート(役割)に分かれて移動した。
① プリエフ集団(西翼・快速部隊) 砂漠と山脈を越えて「張家口・承徳」へ
プリエフ集団(最右翼・西側のルート)先述のイッサ・プリエフ将軍が率いた混成部隊。ここにはソヴィエト軍の戦車旅団や機械化旅団、オートバイ連隊が組み込まれ、モンゴル軍の騎兵部隊とセットになってゴビ砂漠を南下した。彼らは満洲のさらに西側、内モンゴルの砂漠地帯を突破して中国本土との連絡を断つ任務に就いた。
② ザバイカル方面軍・主力(近衛戦車第6軍など) 大興安嶺山脈を強行突破して「新京(長春)・奉天(瀋陽)」へ近衛戦車第6軍など(本隊・中央のルート)プリエフ集団よりもさらに大量のソヴィエト製戦車(T-34など)や航空部隊が、モンゴル東部国境から満洲中央部を目指して移動した。その中核が近衛戦車第6軍だ。彼らは道なき大興安嶺山脈を、戦車で強行突破するという荒技を成し遂げ、関東軍の心臓部である新京(長春)や奉天(瀋陽)へと一気に突き進んだ。
モンゴル国内の戦力は前線の実戦部隊(装甲部隊や航空部隊)がすべて国境を越えて満洲へ移動したため、作戦開始後のモンゴル国内に残されたのは「完全な後方支援組織」だけになる。
前線へ燃料や弾薬を送り届ける自動車化輸送隊の兵站部隊。前線から送られてくる負傷者を収容する野戦病院(タムスク基地などに事前に準備されていたもの)の医療部隊。前線とモスクワを繋ぐ通信拠点の通信・司令部の残留組。
1945年8月の段階で、モンゴル国内にあったソヴィエト軍(装甲・航空戦力)は文字通り「空っぽ」になるまで動員され、そのすべてが満洲・内モンゴルを瞬時に制圧するための津波となって押し寄せた。
そして、満州戦役における壊滅的敗北。
1945年8月の参戦は、モンゴルにとって「中華民国からの正式な独立承認」を勝ち取るための政治的なデモンストレーションでもあった。スターリンはこの戦功を盾に、戦後のヤルタ体制においてモンゴルの独立を認めさせることをねらっていた。日本軍の『回天・通遼作戦』が成功し、この流れが断たれモンゴル独立も大きく狂った。 戦後の国際的な独立承認への道は閉ざされた。




