悪鬼・羅刹 追撃戦、バイカル湖までシベリア鉄道を走れ エピローグ 占領後のイルツーツクの視察
極寒のシベリア大気を切り裂くアンガラ川の湿った川風が、占領直後のイルクーツク市街に吹きすさんでいた。
激しい砲爆撃の硝煙はすでに引き、街の随所に残る破砕されたソヴィエト軍の防衛陣地には、北方防衛開放軍の歩兵部隊が哨戒線を敷いている。凍てついた鉄路の先、煙突から未だ途切れぬ排煙を上げる巨大な工場群を見渡す高台に、重厚な軍用車列が静かに滑り込んできた。
黒塗りの統合一型兵員輸送トラックを改造した司令部付き車両から降り立ったのは、南方軍総司令長官兼南方軍司令官の掛井道真大将であった。その傍らには、総参謀長兼先任参謀の武田五郎大佐、情報参謀の久我健一少佐、兵装・技術参謀の小倉善二中佐、そして航空連絡参謀の桜木徹少佐が控えている。
彼らを迎えたのは、このシベリア遠征の地上戦を指揮した北方軍司令官、伊勢神忠雄中将であった。伊勢神中将の後方には、参謀長の高瀬仁志少将、作戦参謀の水町健吾中佐、情報参謀の白川義昭少佐、そして後方兵站を一手に引き受ける榎本隆正大佐が居並んでいた。
「掛井将軍。ソヴィエト空軍航空隊と防空陣地はすでに潰え、ここイルクーツクの全主要施設は、ほぼ完璧な状態で我が北方軍の統制下にあります」
伊勢神中将が占領報告をすると、掛井大将はゆっくりと視線を工場群のシルエットに向け、静かにうなずいた。
「見事だったな、伊勢神中将。……『シベリアの心臓』とまで称されたこの一大軍事・工業拠点を、ほぼ無傷に近い形で手中に収めた意味は極めて大きい。我々の今後の全ユーラシア構想における生産・補給の最大拠点として、その実態をこの目で精査しておきたかったのだ」
「はっ。各部門の現地視察の準備は整っております。まずは、この巨大都市を支える動脈……鉄道と兵站の基盤からご案内いたしましょう」
北方軍の後方参謀・榎本大佐が歩みで出、地図を広げながら先導を開始した。
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車列が最初に立ち寄ったのは、イルクーツク第一・第二操車場であった。見渡す限りの鉄路が幾重にも交差し、多数の側線の上を、巨躯を誇るソヴィエトのFD型重蒸気機関車が激しく蒸気を吹き上げながら佇んでいる。古びた腕木式信号機が物々しく立ち並び、手動の転轍器や素朴な仕分け線が広がるその光景は、戦時下の過酷な物資輸送を支えるシベリア鉄道の巨大な中枢そのものであった。
「……実に凄まじいな」
南方軍参謀長・武田大佐が感嘆の声を漏らした。
「モスクワから遥か東のウラジオストクへと続くシベリア鉄道──その行く手を阻むバイカル湖を直前に控えたイルクーツク操車場は、まさに大陸輸送の巨大な障壁であり、同時に最大の要衝だ。ここからさらに東のウラン・ウデへと進めば、モンゴルへ南下する路線をも見据えることになる物流の大動脈。戦時下の今、手動の転轍器が悲鳴を上げるこのヤードでは、1日に数十本も軍事列車がひしめき合い、前線へと送り出される兵員や物資の組み替えが、不眠不休の人力作業によって辛うじて成し遂げらていたようだ」
「その通りです、武田大佐」
榎本大佐が解説を継ぐ。
「隣接する機関区および車両修理工場には大型転車台と巨大な扇形機関庫が並び、蒸気機関車のボイラーから引かれた高熱蒸気を吹き付けて軸受けや下回りの結氷を一気に溶かしています。機関車への石炭補給や水補給の多くは、十分な機械化がなされておらず、バケツや手押し車、クレーンを使った労働者の激しい肉体労働によって支えられていました。さらにバイカル湖畔の切り立った崖沿いを通る『環バイカル鉄道』の保線司令部も接収しました。極寒のシベリアという過酷な自然環境に対して、膨大な数の人員による人海戦術と、文字通りの命がけの肉体労働で強引に運行を維持している状態でした」
「それは酷いな、戦後に大規模な整備が必要だな。しかし、鉄道に連動する兵站拠点は破格だな」
北方軍参謀長・高瀬少将が、敷地内に整然と並ぶ数十棟の全天候型倉庫群——第129中央兵站補給基地を指さした。
「各種砲爆弾、ドラム缶の山、医療物資、防寒被服。満州戦役とシベリア回廊を支えるための第2線補給廠としての蓄積が、そっくりそのまま我が軍の懐に入ったわけです」
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続いて車列は、黒煙と金属粉の匂いが充満する重工業コンビナート地帯へと向かった。
クイビシェフ記念重機械製造工場(第572工場)の巨大な鋳造ドックでは、いまだ熱気を帯びた大型工作機械や高張力鋼の加工設備が鎮座していた。本来であれば、ここでT-34戦車の鋳造部品や重迫撃砲の砲身、砲弾の薬莢が不眠不休で作り出されていた場所である。
「小倉中佐、技術屋の目から見てどうだ?」
掛井大将が振り返り、南方軍の兵装・技術参謀である小倉善二中佐に問いかけた。
小倉中佐は大型の旋盤や圧延機を注意深く触りながら、確信に満ちた声で答えた。
「極めて優秀な設備です。さらに、アンガルスクの化学・燃料コンビナートと工業用ゴム工場が直結している点が素晴らしい。チェレムホヴォの石炭と原油精製ラインが生きていますから、原油の都合がつけば、高オクタン価の航空ガソリン、軍用ディーゼル油、さらには爆薬原料のトルエンや合成ゴム、耐寒パッキンまで自前で調達できます、樺太のオハ油田があれば、何とかなるかと」
小倉中佐はそこで一度言葉を切り、声を潜めて周囲の参謀たちを見回した。
「ただし……掛井将軍、伊勢神将軍。基本方針の確認をさせていただきたく存じます。我が軍の根幹技術である《帰還鋼》の製造および精錬技術は、このイルクーツクの工場には絶対に入れない……ということでよろしいですね?」
掛井大将は重々しく頷いた。
「当然だ。帰還鋼の分子構成と特殊熱処理のノウハウは我が軍の生命線。現地採用の労働者や捕虜を多数使うこのシベリアの現場に、その技術を漏らすわけにはいかん。ここでは従来のソヴィエト製鋼材および現地素材のみを扱わせる」
「理解いたしました」小倉中佐が続ける。
「現状、この視察の段階では、まだ補修部品や消耗部品の生産ラインすら動かしておりません。まずは我が軍がシベリアで現用に供している車両、火砲、航空機のメンテナンス用パーツ……油脂類や履帯、ねじ類、南方軍の交換砲身といった消耗品の精製・製造に特化させます」
「将来的な運用の見通しはどうだ?」
北方軍作戦参謀の水町中佐が尋ねた。
「我が軍と同盟を結ぶアジア・ユーラシアの解放諸国……彼らへの武器の供給拠点とすることです。ただし、ソヴィエトの元の設計そのままで手渡すわけにはいきません。我が軍の手で徹底的な改良と洗練を加え、信頼性と火力を高めた『改良型ソヴィエト兵器』として再量産し、同盟諸国軍へ供給するのです」
「……なるほどな」
北方軍情報参謀の白川少佐が意図をくみ取って頷いた。
「同盟諸国の軍隊は、我が軍の最新兵器や、扱いが繊細な装備をすぐには運用・維持できません。ソヴィエト系兵器の堅牢さと簡便さをベースに、我が軍の技術で弱点を潰した兵器こそが最適。そして、それを扱える軍組織そのものを、戦後に我が日本軍が手取り足取り指導して組み上げていく……そういう筋書きですね」
「その通りだ」掛井大将の瞳に鋭い光が宿った。「このイルクーツクは、単なる我が軍の補給廠にとどまらず、戦後の新世界秩序における同盟軍再編の兵工廠となるのだ」
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車列はさらに進み、市街北東部に位置する巨大な飛行場と、それに隣接する膨大な建造物群へと到着した。第39航空工場——そして、そこに併設された各種航空設計研究所群である。
2,500メートル級の滑走路の脇には、急降下爆撃機Pe-2、長距離爆撃機Il-4、攻撃機Il-10の巨躯が整然と並び、さらにはアメリカからアラスカ・シベリア空路を経由して送られてきたB-25ミッチェルやP-63キングコブラの姿もあった。
「桜木少佐、航空側の収穫は?」
武田大佐の問いに、南方軍航空連絡参謀の桜木徹少佐の顔が綻んだ。
「言葉を失うほどの莫大な『財産』です、武田大佐。第39特別試作設計局(OKB-39)をはじめ、モスクワから疎開していたイリューシンやツポレフの現地派生研究所、ベリエフ水上機設計局のバイカル研究班、そして中央流体力学研究所の極寒地空力研究支部……その全てが無傷で手に入りました」
桜木少佐は、接収された設計棟の内部へ将校たちを促した。
そこには、巨大な製図台の上に広げられた最新機体の詳細な設計図面、米英レンドリース機材から取り外された航法レーダーや自動操縦装置の解析情報、そして風洞実験室や極低温材料試験室の精密な測定機器が完璧な状態で残されていた。
さらに、何百人ものソヴィエト最精鋭の航空エンジニアや製図士たちが、北方軍の厳重な警備の下、静かに作業台の前に待機させられていた。
「白川少佐と連携し、すでに機密資料の精査に着手しています」
白川情報少佐が膨大なファイルを示しながら解説を加える。
「最大の戦利品は、ソヴィエトが長年蓄積してきた『マイナス40度以下の極寒地における運用指南書』です。エンジン保温機構、極低温下でも固化しない油圧作動油の配合、そして翼面の着氷現象を防ぐ加熱式・耐寒防氷装置の情報です」
それを聞くと、桜木少佐が強い口調で言った。
「これらは直ちに我が自軍の主力機……P-51『麒麟』、P-47『稲妻』、そして零戦六四式改などのシベリア運用改修へ適用されます! これまで極寒地での油圧低下や着氷に悩まされていた我が方の航空部隊ですが、この情報を適用すれば、稼働率と信頼性は一気に跳ね上がります。同時に、ソヴィエト航空機の構造的弱点、電探の周波数特性、機体強度の限界も完全に露呈しました。もはやソヴィエト空軍に、我が軍の脅威となり得る秘密はありません」
「敵の頭脳と経験を丸ごと奪い、我が翼の糧としたわけか」
掛井大将は満足そうに頷き、整然と並ぶソヴィエト人技師たちを見つめた。
「彼ら熟練の技術者たちの身の安全は保証せよ。当面は、我が軍の指示の下でソヴィエト製機体の改良設計と、同盟国向け説明書、指南書の改訂に従事させる」
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視察の最後、将校たちは旧NKVD第91警備連隊本部の高台に立ち、夕日に染まるイルクーツクの街並みと、ゆったりと流れるアンガラ川を見下ろしていた。
被服工場群からは数万着の防寒軍服が生産され、食糧工場群の缶詰生産工程は明日からでも我が軍の兵員用に稼働できる。操車場からは絶え間なく蒸気機関車の汽笛が響き、第129補給基地の無数の倉庫群が圧倒的な物資の山を抱え込んでいる。
「伊勢神中将」
掛井大将が静かに口を開いた。
「見事なシベリア攻略戦だった。このイルクーツクの接収により、我が軍の北方防衛線は単なる『防御陣地』から『自給自足し得る不滅の巨大兵站基地』へと昇華した」
伊勢神中将は背筋を正し、敬礼を返した。
「ハッ。敵の反撃の芽は完全に摘み取りました。帰還鋼などの機密は厳重に保持しつつ、この巨大な生産力をもって、まずは我が北方軍の装備維持と足腰の強化を徹底いたします。そして来たるべき戦後、この地から新たな同盟諸国の軍勢を世に送り出してみせましょう」
赤く染まるシベリアの空の下、シベリア鉄道の不滅の鉄路が鈍い光を放ちながら、遥か西の地平線へとまっすぐに伸びていた。
その鉄路の上に築かれたのは、もはや一国の勝利にとどまらない。日本軍の手によって再定義され、過酷なシベリアの地に打ち立てられた、新たなる多極的秩序の揺るぎない礎であった。
悪鬼・羅刹 追撃戦、バイカル湖まで東清鉄道を走れ。終
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