第30親衛狙撃連隊の決断 5 エピローグ 阿修羅 我々は戦う、戦友のために
五、我々は戦う、戦友のために
ペチカの中で爆ぜる薪の音が、静かな室内に心地よく響いていた。
イルクーツクにある日本軍の施設は、通遼の地獄や大興安嶺の極寒が嘘のように温かかった。スープの湯気、焼き立ての黒パンの匂い、そして清潔な毛布。だが、五体を包むその温もりが、かえって二百名まで減り果てた第30親衛狙撃連隊の将兵たちの胸に、押し殺していた感情を堰を切ったように溢れ出させていた。
「……終わったんだな、本当に」
壁に背を預けた若い歩兵が、自分の手のひらを見つめながらぽつりと言った。凍傷でひび割れ、煤がこびりついた手だ。
「ああ。俺たちの戦争は、あのバイカル湖畔で終わった」
隣に座るベテランの戦車兵が、白湯を飲みながら応じる。
一人が口を開くと、堰き止められていた言葉が、それぞれの故郷の記憶とともに溢れ出した。
「ヴォルガの親父とお袋は、まだ生きているだろうか。俺が死んだという誤報が届いてなきゃいいが……」
「ウラルの俺の家には、まだ三歳になったばかりの娘がいるんだ。出征するとき、泣きじゃくって俺の外套の裾を離さなかった。……あの子をもう一度、この腕で抱きしめてやりたい」
「私の妻は、モスクワの工場で働かされているはずだ。毎日食うや食わずで、配給の列に並んでいるんじゃないか。早く、早く帰って安心させてやりたい……」
故郷、父母、兄弟、妻、そして子どもたち。極限のサバイバル行を支え続けたのは、思想ではなく、彼ら愛する者たちの顔だった。
しかし、家族への思慕が深まるほどに、部屋の空気は別の、より暗く激しい色を帯びていった。
それは、自分たちが命を賭けて戦ったはずの「国家」に対する、底知れない幻滅と怒りだった。
「だがよ……」
若手の兵士が、怒りに震える声で床を叩いた。
「俺たちが命からがら故郷の敷居を跨いだとして、あの国には何が残ってる? モスクワの、あの碌でもない、糞でカスな政府がまだふんぞり返ってるんだぞ!」
その過激な言葉に、誰も異を唱えなかった。通遼平原で数十万の同胞を犬死にさせ、「肉弾となって突撃せよ」とトカレフを振り回した政治将校の姿が、全員の脳裏に焼き付いていたからだ。
「そうだ」別の兵士が呪詛のように吐き捨てた。
「前線一歩も退くなと怒鳴り散らし、味方を後ろから撃ち殺すことしか能のない、あのイワノフみたいな追随者どもが支配する国だ。汗水垂らして農場や工場で働く俺たちの家族を、思想の奴隷としか思っていない糞の塊のような連中だ。そんなソヴィエトに帰って、俺たちは一体どう生きていけばいいんだ?」
「英雄として迎えられるわけがないさ」
先任曹長が、静かに、しかし冷徹な声で会話に加わった。
「あのカスどもは、敗北の責任をすべて前線の兵士に押し付ける。銃を置いて生き残った我々は、祖国に帰れば『裏切り者』としてシベリアの強制収容所送りか、最悪、壁際に並べられて銃殺だ。狂信者どもの保身のためにな」
室内が重苦しい沈黙に包まれる。愛する家族の元へ帰りたいという願いと、それを支配する無能で残虐な政府への拒絶。その板挟みの中で、兵士たちは拳を固く握りしめていた。
「……なぁ、大佐はさっき、日本軍の司令官に呼び出されていただろ」
一人の兵士が、部屋の奥で静かに彼らの会話を聞いていたヴィクトル・ボリソヴィチ・プロホロフ大佐を見上げた。
プロホロフ大佐はゆっくりと立ち上がり、二百名の部下たちの中心へと歩み出た。彼の軍服には、胸の親衛の徽章だけが、変わらぬ光を放っている。
「皆の言う通りだ」
プロホロフの声が、ペチカの熱気の中に響く。
「我々のソヴィエトの指導部は、一握りの狂信者と、その椅子にしがみつく追随者たちの糞塗れの巣窟だ。あの一味のために、これ以上我が連隊の血を流す価値など一滴もない」
大佐は部下たち一人ひとりの顔を見つめた。
「日本軍の司令官は、我々に三つの選択肢を提示した。このまま捕虜として安全に暮らすか。一人の民間人として家族の元へ帰るか。それとも――」
プロホロフは言葉を区切り、窓の外の十一月の白い雪原を見つめた。
「もう一度武器を手に取り、日本軍のパートナーとして、あの糞塗れの政府を叩き潰し、真のロシアを、我々の家族が怯えずに暮らせる新しい政府を、この手で再建するのを助けるかだ」
その言葉に、二百名の目が一斉に跳ね上がった。
「大佐……それじゃあ、俺たちはまた戦うんですか?」曹長が問う。
「無理にとは言わん。家族の元へ帰りたい者は帰り、捕虜のままいたい者は残れ。我が連隊はもう、思想の奴隷ではない。自由だ」
プロホロフは不敵に、しかし温かく微笑んだ。
「だが、もし、あの碌でもない連中に支配されるロシアを内側から変えたいと、愛する家族に本当の平和を命懸けで届けたいと願う男がいるならば……私はもう一度、第30親衛狙撃連隊の旗を掲げ、先頭に立つ。どうだ、曹長」
先任曹長は、白雪の上に並べた、あの美しく磨き上げられた自らのモシン・ナガン小銃の感触を思い出していた。
曹長はゆっくりと立ち上がり、大佐に向かって完璧な敬礼を送った。
「大佐。あの糞カスどもに俺たちの故郷をこれ以上蹂躙させるくらいなら、私はもう一度、あなたの後ろを歩きます。親衛連隊の魂を、奴らに見せつけてやりましょう」
「俺もだ!」「俺も行きます、大佐!」
部屋のいたるところから、地鳴りのような、しかしこれまでで最も意志の籠もった声が湧き上がった。
凍てつくイルクーツクの夜。
ソヴィエトという偽りの祖国に見捨てられ、しかし人間の尊厳を守り抜いた二百名のプロフェッショナルたちは、温かい部屋の中で、自分たちの「真の戦い」の始まりを静かに、そして熱く誓い合っていた。
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モスクワ クレムリン 大本営
「極東の空は、いつから日本人の庭になったのだ?」
スターリンの冷徹な声が、重苦しい会議室に響き渡った。
誰も答えない。
答えられるはずがなかった。下手なことを口にすれば、次の瞬間にはルビャンカの地下室行きが決まる。そこから生きて戻った者は、ほとんどいない。
長い沈黙の末、スターリンはゆっくりと視線を動かした。
そして、極東方面を担当する政治将校、ヴァシレフスキーを指差した。
「ヴァシレフスキー同志」
「はっ……」
「君の甘い見通しが、ウラジオストクを灰にした」
低い声だった。
だが、その一言が銃声よりも重く会議室に落ちた。
「シベリアの防衛線を、日本軍の散歩道に変えたのだ」
「し、しかし閣下……」
ヴァシレフスキーの額に汗が滲む。
「大和の主砲射程外からの攻撃など、現在の我が軍の兵装では――」
「言い訳はいらん」
スターリンが遮った。
その瞬間、室内の空気が凍りついた。
「君を即刻解任する」
「……!」
「シベリアの前線で、いかにしてソヴィエトの威信を守るべきか。自分の頭で考え直せ」
ヴァシレフスキーは青ざめた顔で敬礼すると、逃げるように部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静寂が戻った。
スターリンは何事もなかったかのように机上の地図へ視線を落とした。
ウラジオストク。
ハバロフスク。
そして、その遥か東。
日本列島から伸びる一本の矢印が、ソヴィエト極東軍管区の奥深くへ突き刺さっている。
担当者を切り捨て、自らの「無謬性」を守る。
それがスターリンのやり方だった。
だが――。
誰も見ていない地図の前で、スターリンは拳を固く握りしめた。
背中を、一筋の冷たい汗が伝う。
彼自身が、誰よりも理解していた。
極東の空を支配しているのは、もはやソヴィエトではない。
そして、このままでは――次に灰になるのは、ウラジオストクだけでは済まない。
第30親衛狙撃連隊の決断 終
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