第30親衛狙撃連隊の決断 3
三、バイカル湖の風(十一月上旬)
満州を抜け、モンゴルの国境を越え、ついに彼らはシベリアの地へと足を踏み入れた。
眼下に広がっていたのは、冬の訪れとともに雪がつもり始めた、広大なバイカル湖の姿であった。澄み切ったシベリアの空から、冷たい風がプロホロフたちの煤けた顔を撫でる。
「大佐……ロシアです。我々は、帰ってきたのです……」
膝をついた先任曹長が、ひび割れた唇を震わせながら呟いた。その双眸から、一筋の涙が乾いた頬の煤を洗って流れ落ちる。
ヴィクトル・ボリソヴィチ・プロホロフ大佐は、ゆっくりと歩みを進め、曹長の肩に大きな手を置いた。十一月上旬、シベリアの容赦ない冬の始まりが、凍てつく風となって彼らの細い身体を叩く。軍靴の底は雪が張り付き、一歩ごとに足首の関節へ燃えるような激痛が走る。だが、彼の背筋は凍土の上でも、なお直立していた。
「……皆、よく歩き通した」
プロホロフは低く、しかし驚くほど穏やかな声で、背後に続く二百名の生き残りたちを見つめた。
兵士たちは、限界を超えた肉体でなおも立ち尽くそうとしていた。軍隊としての隊列を、親衛の誇りを崩すまいと、痛む足を踏ん張っていた。だが、彼らの弾帯はとっくに空であり、重火器もなければ、ただ一歩を動かす体力すら残されていなかった。すでに戦闘を行える状態ではないことは、誰の目にも明らかだった。
大佐は、そんな愛すべき部下たちの姿を見つめ、静かに頷いた。
「もういい。全員、その場に跪け。故郷の土に、祈りを捧げることを許す」
その言葉は、凍てつく空気に溶けるように優しかった。
張り詰めていた鉄の規律が、一瞬だけ温かな許しへと変わる。曹長に続き、兵士たちは一人、また一人と、雪の積もったシベリアの大地を抱きしめるように膝を折った。ある者は両手を雪の積もった地面に突き、ある者は地表の雪を愛おしむように額ずいた。
それは敗北の屈伏ではなく、生きて帰れた奇跡を、そして死んでいった戦友たちの魂を、神へと委ねる敬虔な祈りの姿勢であった。
「大佐……」
曹長は、地を抱く姿勢のまま、銃弾の痕でちぎれかけた連隊旗の布端を握りしめ、背後の大興安嶺山脈を振り返った。
「通遼の連中や、道中で暴徒と化した敗残兵どもは、我々を狂ったと言いました。なぜ略奪をしない、なぜ住民から奪わない、思想の時代は終わったのだから獣になれ、と」
「ああ、言っていたな」
「私は、今なら彼らに言い返せます。我々は獣にならず、神の前の人間であり続けたからこそ、この十一月の冷たい風をもう一度吸うことができたのだと。魂を汚さなかったからこそ、軍隊のままでここまで歩き通せたのだと、ビクターあなたのおかげだ」
プロホロフは、静かに頷いた。彼の胸にピンで留められた親衛の徽章は、傷だらけになりながらも、初冬の低い陽光を反射して鈍く輝いている。
「その通りだ、曹長。軍が崩壊し、狂信者どもが平原の泥にまみれて消え去ろうとも、我々が守り抜いた規律だけは本物だ。お前たちが磨き続けたその銃身と、大地に捧げるその祈りこそが、我々が人間であるという証拠だ」
プロホロフは一度言葉を切り、遠く地平線の彼方、雪がまばらに舞う平原の境界線を見つめた。
そこには、白い防寒外套に身を包み、等間隔の美しい散兵線を崩さずに、一歩ずつこちらへ近づいてくる「日本の悪魔」たちの影があった。
「大佐、奴らが来ます」
大地を抱いていた曹長が、顔を上げた。
「地の果てまで追ってくるという噂は、本当だったようです。我々を……消去しにきたのでしょうか。しかし、我々にはもう、戦う弾薬も力も残されていません」
プロホロフは、静かに近づいてくる日本兵の列をじっと見つめた。彼らは銃を構える風でもなく、ただ、毅然とした歩調で距離を詰めてくる。
「……曹長。銃を置け」
プロホロフは静かに告げた。
「大佐?」
「我々はソ連軍としてではなく、ロシアの『第30親衛狙撃連隊』として、軍人の誇りを守り抜いた。無益な犬死にはこれ以上させん。我々の任務は、この誇り高き連隊の記憶を、生きて後世へ繋ぐことだ」
プロホロフ大佐は自らのモシン・ナガン小銃を雪の上に静かに横たえると、二百名の生き残りたちに向き直り、堂々たる声で告げた。
「全員、銃を置け。これより我が連隊は、堂々と敵を迎える。我々は降伏するが、魂まで屈服したわけではない。親衛連隊の誇りを胸に、胸を張って奴らと対峙せよ!」
曹長が、そして二百名の兵士たちが、涙を拭いながら自らの小銃を白雪の上に並べていった。小銃はどれも美しく磨き上げられていた。
兵士たちは痛む足を揃え、背筋を伸ばし、一糸乱れぬ直立の姿勢で日の丸の列を迎え入れた。バイカル湖の風が雪を巻き上げる中、プロホロフ大佐は先頭に立ち、近づきつつある日本軍の指揮官へ向けて、自らの軍帽を静かに脱ぎ、軍人としての無言の礼を尽くした。




