天津へ上陸 張家口の戦い 7-2-2 避難民の脱出
1945年8月中旬、北支の空は低く垂れ込め、大陸特有の黄色い砂塵が絶え間なく街を穿っていた。
ソヴィエト・モンゴル軍の奇襲的な南下から数日。内モンゴル各地の開拓村や行政機関、炭鉱から逃れてきた避難民の波は、最後の大動脈である京張鉄道の始発地、張家口へとなだれ込んでいた。その数、およそ四万。溢れかえった群衆は駅舎を埋め、線路を埋め、飢えと恐怖の熱気で街の空気を引き裂いていた。
「押すな! 押し返すな! 子どもがいるんだ!」
惨状を極めるホームの片隅で、民族学者の北原始は、煤に汚れた外套の胸元を固くかばい続けていた。そこには、わずか二か月前に産声を上げたばかりの長男が抱かれていた。産着の隙間から覗く幼子の顔は、押し寄せる群衆の汗と油、そして黄土の粉塵で黒ずんでいる。
「あなた、みっちゃんが……息が詰まりそうになっています」
妻の節子が、青ざめた唇を震わせながら始の袖を引いた。始は長年、北支およびモンゴルの民族動態を現地調査してきた研究者であった。かつて愛した広大な草原とそこに生きる人々は、今や一転して血と硝煙の屠殺場と化していた。研究資料をすべて捨て、手元に残したのは小さな革手帳一冊と、この愛おしい命だけだった。
「大丈夫だ、節子。必ず乗せる。この子といっしょに北京へ逃げるんだ」
その時、長い警笛とともにホームへ滑り込んできたのは、旅客用客車などではなく、本来なら石炭や鉄鉱石を運ぶための屋根のない「無蓋貨車」であった。黒い鉄板で囲まれただけの無機質な箱。
「乗れ! 荷物は捨てろ! 人間だけ乗れ!」
憲兵と警備兵の叫び声が響くやいなや、群衆は狂乱した津波となって貨車の鉄板にしがみついた。
九歳の少年、尾張史は、父の手によって押し上げられるようにして貨車の縁を超えた。
「うわっ!」
鉄板の角で膝を強く打ち付けたが、痛みを感じる余裕すらなかった。次々と上から投げ込まれてくる大人たちの足、狂乱した手が史の身体を踏みにじる。父と母、そして小さな妹がなんとか這い上がってきたときには、数メートル四方の無蓋貨車は、すし詰めの人間で隙間なく埋め尽くされていた。立つことすら容易ではない。足の踏み場もなく、見知らぬ大人の体臭と絶望の汗が史の鼻腔を突いた。見上げれば、屋根のない空から無慈悲な灰色の雲が垂れ込めていた。
「史、お父さんの手から離れるなよ。絶対に離すな」
父のひび割れた声が頭上から降ってきた。史は小さく頷いたが、その全身は、いつ襲ってくるかわからないソヴィエト軍の戦車や爆撃機への恐怖で、ガチガチと震えていた。
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丸一陣地
張家口の街が絶望の狂乱に包まれている頃、北方わずか27キロに位置する「丸一陣地」の丘陵地帯では、地獄の蓋が開いていた。
「撃てッ! 一歩も退くな!」
駐蒙軍司令官・根本博中将の厳命を受けた日本軍歩兵部隊――「稲妻兵団」の陣地では、野砲と重機関銃の咆哮が地平線を揺るがしていた。
正面から押し寄せるのは、ソヴィエト軍のT-34戦車群と、ライフルと梱包爆弾を装備したモンゴル騎兵の波であった。圧倒的な物量と火力を前に、丸一陣地の塹壕は爆風で削り取られ、土砂と兵士の肉片が空中に舞った。
「司令官! 第三分隊、全滅! 敵戦車、第二線陣地に突破してきます!」
顔面を血で染めた伝令が泥の中に飛び込んできた。根本中将は動じず、双眼鏡を北方へ向けたまま静かに命じた。
「構わん。我々の目的は敵を撃滅することにあらず。ここで一日、一時間でも多くソヴィエト軍を繋ぎ止めることだ。後方には四万の同胞がおる。あの列車が最後のひと列車まで天津・北京へ脱出するまで、我々はここを絶対死守の墓場とする」
武力を以て避難民の背後を守る――それだけが、孤立無援となった駐蒙軍兵士たちの唯一の存在理由であった。
九二式重機関銃の身を灼くような連射音が響き、弾倉を撃ち尽くした兵士たちはタコツボ壕から飛び出して対戦車爆雷を抱え、T-34の履帯へと身を投げた。土煙の向こうで閃光が走り、金属の砕ける重い音が響く。丸一陣地は、文字通り血と鉄で固められた肉の防壁となって、ソヴィエト軍の猛威を押し留めていた。
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「発車! 発車あッ!」
張家口駅のホームで、駅員の血を吐くような叫びとともに、超重量を曳いた蒸気機関車が長い悲鳴のような警笛を鳴らした。
ガタリ、と大きな衝撃が無蓋貨車を揺らし、すし詰めの避難民たちが一斉に倒れ込んだ。
「動いた……! 動いたぞ!」
誰かが叫んだ。しかし、それは安堵の始まりではなかった。列車が張家口の街を離れ、荒涼とした北支の平原へと踏み出すにつれ、無蓋貨車に乗る人々を襲ったのは裸の剥き出しの恐怖であった。
屋根がない。それは、敵の航空機やゲリラの標的として晒されていることを意味していた。
列車が速度を上げると、遮るもののない8月の日差しが無蓋貨車を容赦なく照らし出し、蒸せ返るような熱気が襲う。疾風となって吹き抜ける風は汗ばんだ皮膚から急速に水分を奪い、猛暑と強風の混ざり合う熱波となって避難民の体力を激しく削り取っていく。
北原始は、汗と煤に塗れながら、自らの体で少しでも日陰を作ろうと妻の節子と赤ん坊に覆いかぶさっていた。胸の中で赤ん坊が熱気と脱水に苦しみ、引きつけを起こしたように消え入りそうな泣き声を漏らす。
「始さん、この子……全身が火のように熱くて、汗が止まりません」
「大丈夫だ、節子。俺の陰に入れ。濡らした手ぬぐいで少しでもあおいでやるんだ」
始は学者としての観察眼で、周囲の惨状を冷静に見つめようと試みたが、胸を締め付ける感情を抑えきれなかった。隣に座り込む老婆は、ひび割れた唇で虚ろに念仏を唱えながら、水もないまま熱風の中で力尽きそうになっている。その向こうでは、身寄りとはぐれた幼い姉弟が身を寄せ合い、うなされるようにぐったりと横たわっていた。
「史、空を見張っていなさい。変な音がしたらすぐ伏せるんだぞ」
史の父が言った。九歳の史は、すし詰めの大人たちの隙間から、流れ去る赤茶けた大陸の風景を見つめた。荒涼とした丘陵、吹き荒れる黄塵。時折、彼方からドスン、ドスンと丸一陣地の方角から重低音が響いてくる。
「……兵隊さんたちが、戦ってくれてるんだね」
史が呟くと、母が史の頭を強く引き寄せて抱きしめた。
「そうよ。だから私たちは生きなきゃいけないの。北京へ行くのよ」
列車は、死と生を分かつ一本の細い鉄路の上を、喘ぐような煤煙を吐きながら南東へとひた走っていた。
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1945年8月21日 宣化駅
日付が8月21日へ変わる未明。避難列車は、張家口から南東へ約三十キロ離れた「宣化駅」の構内へと滑り込もうとしていた。
周囲は深い闇と、不気味な静寂に包まれていた。蒸気機関車がシューッと蒸気を吐き出し、減速したその瞬間である。
暗闇の葦の茂み、そして駅舎の廃墟から、突如として夜空を切り裂く赤光のラインが走った。
タタタタタタタッ! ドカァン!
「敵襲ーッ! 伏せろ! 伏せろあッ!」
襲撃してきたのは、この地域の混乱に乗じて勢力を伸ばしていた中国共産党・八路軍のゲリラ部隊であった。彼らは鉄路を遮断し、減速した避難民列車を包囲して一斉射撃を叩き込んできたのである。
無蓋貨車の中は、一瞬にして絶叫と狂乱の地獄と化した。
「ギャァァッ!」
「お母さん! お母さんッ!」
屋根のない貨車は、上からの射撃に対して無防備そのものであった。跳ね飛ぶ木屑と鉄弾、激しい弾雨がすし詰めの人間を容赦なく穿つ。史の目の前で、さきほどまで念仏を唱えていた老婆に命中し、温かい血が史の顔と手首にへばりついた。
「史! 伏せろ! 地面に頭を付けろ!」
父が史と妹の上に覆いかぶさった。背の上を、ヒュンヒュンと死の風切り音が通り過ぎていく。血と硝煙の臭いが充満し、貨車の床には赤黒い液体が急速に広がっていった。
「くそっ! 打ち返せ!」
列車の前後、および要所に配置されていた護衛の日本軍歩兵部隊――響兵団(独立混成第2旅団)の第二大隊第四中隊、そして、前線から後送されてきた傷病兵の分隊が民間人が乗る無蓋車を盾にしながら、駅周辺に展開した八路軍に対して必死の応戦を行う。
包帯を巻き、足を引きずり、満足に目も見えないはずの傷残兵たちが、三八式歩兵銃や九九式軽機関銃を構えて貨車のフチへと身を乗り出した。
「 敵の火点を叩け!」
片腕を失った准尉が、残された左手で拳銃を撃ちながら叫んだ。
北原始は、泣き叫ぶ妻と赤ん坊を自らの体躯で完全に覆い隠しながら、前方の光景を目撃した。
一人の若き歩兵が、胸部に弾を受けながらも、無蓋貨車を守るために立ち塞がっていた。彼は避難民たちの盾となり、外からの弾雨をその背中で受け止めていたのだった。
「兵隊さん! 兵隊さんッ!」
始が叫ぶも、若い兵士は振り返らず、ガクガクと膝を震わせながら銃を撃ち続けた。
「行け……早く……この列車を……動かせ……!」
それが彼の最後の言葉だった。兵士の背中は蜂の巣となり、崩れ落ちていった。
「機関士! 出せ! 止まるな! 釜を焚けッ!」
中隊長が、血煙の中で機関室に向かって怒号を上げた。機関士たちは、弾丸が飛び交う中で石炭を狂ったように炉へくべ続けた。安全弁が吹き飛びそうなほどの蒸気圧が上がり、車輪が悲鳴を上げて空転する。
ガガガガッ! ガタンッ!
激しい衝撃とともに、列車が再び動き始めた。八路軍のゲリラたちが線路脇から取り付き、貨車へ飛び乗ろうと手をかける。
「させるかあッ!」
兵士が、銃剣を突きたてて敵兵を突き落とした。列車は徐々に速度を上げ、宣化駅の構内を脱出していく。闇の向こうへ遠ざかる激しい銃声と火光。そして、ホームや線路脇に残され、身を挺して戦い続けていた兵たちの姿が、遠ざかる視界の中で炎に照らし出されていた。
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南へ、生の彼方へ
東の空が白み始めた頃、避難列車は恐怖の宣化を脱し、さらに南方の平野部へとひた走っていた。
無蓋貨車の中は静まり返っていた。聞こえるのは、規則正しい線路の継ぎ目の音と、途切れ途切れのすすり泣きだけだった。
尾張史は、ゆっくりと頭を上げた。父も母も、妹も生きていた。しかし、周囲の床には、冷たくなった多くの同胞たちが横たわっていた。史は自分の手にへばりついた乾燥した血を見つめ、声もなく涙を流した。自分が生きていることの不思議さと、奪われた命の重みが、幼い胸にずしりと重くのしかかっていた。
一方、北原始は、静まりかえった胸元にそっと耳を当てた。
「……トックン、トックン……」
かすかな、しかし確かな鼓動が聞こえた。
「節子……生きてる。満生は生きてるぞ」
始の声に、疲弊しきっていた節子が涙をこぼしながら頷いた。始は胸元から濡れた革手帳を取り出し、震える手で鉛筆を走らせた。
1945年8月21日。宣化にて襲撃を受く。兵の死を以て我が子生き残る。この命、我がものにあらず。
手帳を収めると、始は北の空を振り仰いだ。遥か彼方、丸一陣地があるはずの方角の空は、重く黒い雲に覆われていた。根本博中将と駐蒙軍の兵士たちは、今この瞬間も、死を賭してソヴィエト軍の足止めを続けているはずだった。
自分たちがこうして南へ逃れることができるのは、あの陣地で泥と血にまみれて倒れていった兵士たち、そして宣化駅で身を投げ出して盾となったあの若い兵士のおかげであった。
列車は美しい山並みを抜けていく。
その先には、北京、そして天津の街が待っていた。四万の避難民の命を乗せた「無蓋列車」は、無数の犠牲と引き換えに掴み取った微かな「生」の光に向かって、朝日が差し込み始めた南の大地をどこまでも走り続けていった。




