フィリピン、孤立無援の群像
1945年5月。フィリピンの地は、もはや「戦場」と呼ぶにはあまりに無慈悲な、生と死の境界が曖昧になった地獄の様相を呈していました。
マニラを奪還した米軍の圧倒的な物量の前で、日本軍の組織的な抵抗は断片化され、それぞれの集団は深い山嶺の奥へと追い詰められていました。
1945年4月。フィリピン・ルソン島。
標高1,500メートルに位置する天空の都市バギオは、かつての避暑地としての面影を完全に失い、立ち込める霧と硝煙の中に沈んでいました。
そこは、山下奉文大将率いる第14方面軍「尚武集団」が選んだ、最後の抗戦地――天然の要塞にして、底なしの谷が多く入り込む高地でした
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天険の要塞、コルディリエラ
マニラ平野の灼熱とは対照的に、コルディリエラ中央山脈の空気は冷涼だ。
「……この地形なら山腹を掘り、防御陣地を作れば優勢なアメリカ軍に対抗できるかもしれない」
山下大将は、司令部の置かれた地下壕の入り口から、幾重にも重なる険しい山々を仰ぎ見ました。
急峻な斜面を縫うように走るベンゲット道路は、日本軍の手によって至る所が爆破され、切り立った崖には無数の横穴陣地が掘り進められた。雲海に隠れた深い渓谷は、一度足を踏み入れれば二度と戻れぬ「死の谷」にした。山下は、この天険の地を利用してアメリカ軍を山へと引きずり込み、一日でも長く、一兵でも多く敵を釘付けにする「持久戦」にすべてを賭けた。
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しかし、アメリカ軍の攻勢は山下の予想を遥かに超える苛烈なものだった。
1945年2月下旬から始まった総攻撃。アメリカ軍は歩兵を突入させる前に、まず圧倒的な物量の重砲撃と、空を埋め尽くす爆撃機によって山そのものを削り取る。
「また来たぞ! 伏せろ!」
轟音と共に、地下壕の天井から土砂が降り注ぐ。陣地に籠もる兵士たちの敵は、アメリカ軍だけではなかった。
補給の途絶えたバギオでは、一握りのお米さえもが貴重だ。兵士たちは密林を這い回り、野草を噛み、泥水を啜って命を繋いだ。マラリアと赤痢が、弾丸よりも確実に、静かに兵の命を奪っていく。
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薄暗い地下壕の奥、蝋燭の火を囲んで、山下は参謀長・武藤章中将と向き合っていた。
「武藤、第19師団の戦線はどうなっている」
「……尾崎の部隊は、もはや歩ける者が三割を切っております。ですが、誰一人として陣地を離れる者はおりません」
武藤の報告に、山下は深く目を閉じた。
彼の手元には、本土からの勇ましい電文が届いていた。しかし、山下は知っていた。ここで自分たちが倒れれば、ルソンに残された数万の将兵と、彼らを信じる国民の希望が完全に潰えることを。
「死ぬのは容易い。だが、我々の任務は死ぬことではなく、生き恥を晒してでも敵をここに留めることだ」
山下大将の低い声が、湿った地下壕の壁に反響した。それは、絶望の淵に立たされた男の、咆哮にも似た決意でした。
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4月下旬。アメリカ軍とフィリピンゲリラによる包囲網は、ついに司令部のあるバギオ市街へと達した。
凄まじい市街戦の末、街は瓦礫の山と化しました。山下はバギオを放棄し、さらに険しい北方の山岳地帯へと司令部を移す決断を下す。
兵士たちは、動かなくなった戦友の遺髪を懐に入れ、霧に包まれた「死の谷」を越えていく。
「……必ず、いつか報われる日が来る」
山下大将は、遠ざかるバギオの街を一瞥し、杖を突きながら険しい山道を一歩一歩踏みしめた。
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ルソン島北部、山下奉文大将は、湿気と死臭が漂う洞窟陣地の中で、参謀長・武藤章中将と共に、地図を見つめていた。
「……武藤、第10師団の状況は?」
「壊滅的です。岡部中将の部隊も、尾崎の第19、西山の第23も、もはや定数を維持しておりません。兵は泥を啜り、草を噛んで命を繋いでおります」
岩元重雄中将率いる戦車第2師団の鋼鉄の巨躯も、今や燃料を失い、埋没した不動の砲台と化していた。島本、佐藤の両師団長、そして松井、白石の両旅団長が率いる将兵たちも、熱病と飢えに蝕まれながらも、「山下将軍がいる限り」という一点のみで、その魂を繋ぎ止めていた。
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分断される軍団:振武と建武
マニラの北東、廃墟となった市街を見下ろす山岳地帯では、横山静雄中将の振武集団が、執拗なアメリカ軍の砲撃に耐えていた。
一方、北西の建武集団。塚田理喜智中将率いる挺進集団の生き残りたちは、翼を失った航空隊員と共に、マニラの塵を浴びながら「一死報国」の機会を虎視眈々と狙っていました。彼らにとって、マニラ湾の水平線は、絶望の象徴だ。
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南方の断末魔
ミンダナオ島、そして中南部の諸島。第35軍の状況はさらに凄惨を極めていた。レイテの激戦を生き延びた片岡中将の第1師団、両角中将の第30師団。そして原田、福栄の両師団長が率いる部隊は、島ごとに孤立し、通信も途絶。兵士たちは幽霊のように森を彷徨い、アメリカ軍の掃討作戦に晒され続けていた。
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翼を失った軍:第4航空軍の幻影
かつてフィリピンの空を制していた第4航空軍。
しかし、1月に本国の防衛力強化という理由で、司令部は台湾へと撤退をしていた。
主を失った地上要員や整備兵たちは、ルソンの山中に取り残された。彼らは空を見上げ、自分たちが守るべきはずだった、あるいは自分たちを救ってくれるはずだった「日の丸の翼」が、一機も飛んでこないという現実に直面していた。
「……司令部は台湾へ行った。我々は、見捨てられたのか」
整備兵の一人が、銃を握りしめ、雨に打たれながら呟きました。彼らの心には、深い霧のような絶望が立ち込めていました。
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この時、彼らもとに「新・連合艦隊」が到着するは、まだ数ヶ月先のこと。
しかし、このルソンで、そして、ミンダナオ島での絶望的な持久戦を耐え抜く力あったからこそ、後の「奇跡の逆転劇」へと繋がる精鋭たちが、その魂を繋ぎ止めることができた。




