坊ノ岬沖海戦、古村啓蔵大佐
昭和二十年四月七日、坊ノ岬沖。
その海は、もはや青ではなかった。幾重にも重なる重油の黒、火薬の煙の灰色、そして無数の水柱が立ち上がる、死の色彩に染まっていた。
軽巡洋艦「矢矧」の艦橋で、第二水雷戦隊司令官・古村啓蔵は、迫りくる米艦載機の群れを凝視していた。空を埋め尽くす敵機は、まるで飢えた猛禽の如く、傷ついた「矢矧」に襲いかかる。
坊ノ岬沖海戦
「撃て! 撃ち続けろ!」
古村啓蔵大佐の怒号が響く。だが、多勢に無勢。雷撃、爆撃、機銃掃射。「矢矧」の甲板はすでに血と硝煙にまみれ、美しい船体は見る影もなく引き裂かれていた。直撃弾が機関部を破壊し、かつて俊足を誇った巡洋艦は、波間に立ち往生した。
「司令官、もう限界です……」
艦長である原為一大佐が、煤けた顔で古村に告げた。その瞳には、最期まで戦い抜いた武人の、静かな諦念が宿っていた。
「……総員退艦。乗員たちを、一人でも多く海へ逃がせ」
古村は短く命じた。部下たちが次々と海へ飛び込んでいく中、古村と原は、傾斜を増す艦橋に留まった。沈みゆく「矢矧」と運命を共にする。それが彼らの覚悟だった。
しかし、運命は過酷だった。巨大な爆発とともに、艦橋は激しく揺さぶられ、古村の身体は抗う術もなく空へと投げ出された。
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冷たい海。重油の臭いが鼻を突き、波に翻弄される。古村が意識を取り戻したとき、そこには地獄のような光景が広がっていた。
漂流する古村の視線の先。少し離れた海域で、日本の誇り、戦艦「大和」が悶絶していた。
無数の敵機が群がり、爆撃された護衛艦隊の僚艦から噴煙が天を突く。そして、その瞬間が訪れた。
「あれは……」
轟音。
そして、《帰還艦隊》の出現。次元の間から現れた謎の救援艦隊航空隊の活躍で、第二艦隊を攻撃していたアメリカ海軍航空隊は薙ぎ払われていく。
大和は噴煙の中、堂々とした巨艦の姿で波を切って進んでいる。
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どれほどの時間が過ぎただろうか。感覚の失われた手足を、重油の膜が重く締め付ける。
遠くで、波を切る音が聞こえた。
「生存者、発見! 救助を急げ!」
現れたのは、駆逐艦「初霜」だった。
甲板から降ろされた縄梯子に、古村は震える手でしがみついた。引き揚げられた甲板の上、彼は自らの足で立つことができず、そのまま崩れ落ちた。
「司令官! ご無事でしたか!」
駆け寄る乗員たちの声が、遠くの潮騒のように聞こえる。
古村は、重油で真っ黒になった顔を上げ、今は何もなくなった坊ノ岬の海を見つめた。
空は、何事もなかったかのように薄暮に染まり始めている。
古村啓蔵の戦争は、この日、一つの終わりを告げた。だが、彼がその目で見た「光景」は、生涯消えることのない烈火となって、その胸に刻まれ続けることになる。
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坊ノ岬沖の騒乱が嘘のように、海は穏やかだった。
命からがら救助された1,600名は「大和」と「雪風」と「初霜」に分散して乗船した。将兵を飲み込んだ戦艦『大和』の艦内には、重苦しい沈滞が満ちている。駆逐艦『初霜』から大和に乗艦した古村啓蔵大佐は、第二艦隊司令長官・伊藤整一中将とともに、手元の報告書を見つめて言葉を失っていた。
壊滅的な艦艇の損失。失った船の中の弾薬、食料、そして医薬品、1600名を養うことは出来ない。
「……今の我々に、沖縄を救う力はない」
誰が口にするまでもなく、幕僚たちの意見は絶望という一点で一致していた。
その沈黙を破ったのは、電信室からの至急電だった。
『我ら帰還艦隊司令官より。これよりの行動指針について、戦艦「陸奥」にて意見交換を乞う』
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大和の舷側から下ろされた内火艇は、穏やかな海面を滑り、沖合に佇むその「陸奥」へと向かった。
伊藤中将、古村大佐、そして幕僚たちの視線の先には、かつての長門型二番艦としての面影を残しつつも、全く別の戦艦へと変貌した『陸奥』の姿があった。
「あれが……陸奥だというのか」
古村は息を呑んだ。船体中央部にあるはずの後部マストと第三砲塔は跡形もなく、そこには見慣れぬ複雑な構造物が鎮座している。艦橋に精緻な電探のアンテナが整然と並ぶ。そして主砲の砲塔は2連装砲が3連装砲になっている。1945年の技術体系を遥かに超越した「気配」を放っていた。
伊藤司令官と幕僚達はそれぞれの胸の中で望んでいた、沖縄救援が実現できることを。
我らの危機を救ってくれたこの艦隊の協力があれば。
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乗船すると、案内役の士官が待っていた。その制服は、見慣れた濃紺ではなく、洗練されたグレーの立襟だ。階級章には、錨を囲むように「旭日」と「桜葉」が配置され、腰には重々しい軍刀ではなく、儀礼用の短剣が揺れている。
「こちらへどうぞ。長官がお待ちです」
士官に導かれ、一同は司令部施設へと足を踏み入れた。
司令部施設は中央の構造体の中にあり、隣の大型のスペースには集中電算室、階下には発電施設、蓄電施設などの、見知らぬ表示があり、広い空間が重要な目的に使用されているように感じた。
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会議室の重厚な扉が開かれ、伊藤長官たちが足を踏み入れた瞬間。
椅子から立ち上がる帰還艦隊司令長官と幕僚。
《帰還艦隊》司令長官は真っ直ぐに彼らの目を見つめて発した最初の言葉は、軍令上の形式を超えた、深い敬意と労いに満ちたものでした。
「ようこそ、《帰還艦隊》戦艦『陸奥』へ。そして……本当によくぞ、これほどの苦難な戦いを耐え抜いてくださいました、伊藤長官。第ニ艦隊の諸官。心より、歓迎いたします」
伊藤長官は、潮風と硝煙に汚れた軍帽をゆっくりと脱ぎ、テーブルの上に置いた。その手は、坊ノ岬沖の冷たい海と敗北の重圧でわずかに震えていましたが、帰還艦隊司令長官を見つめる瞳には、第二艦隊を預かる指揮官として感謝と穏やかな光が宿っていた。
「……かたじけない。第二艦隊司令長官、伊藤整一です。本来であれば、我ら十隻は沖縄の海を墓標とするはずの身。それを、このような形で救い上げられ、さらには温かなもてなしまで頂戴するとは……救出されたのすべての将兵に代わり、深謝いたします」
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会議室は、落ち着いた装いの良い部屋だった。しかし、会議に必要な機材は機能的に配置されている。
正面の壁には巨大な漆黒のスクリーンが嵌め込まれ、天井には映写機らしき未知の機械が吊るされている。座り心地の良い椅子に腰を下ろした伊藤たちの前に、従兵の手で白い磁器のカップとチョコレートビスケットが置かれた。
立ち上るのは、芳醇なコーヒーの香り。
「さあ、皆さん。まずはこの一杯を楽しみましょう」
伊藤長官が震える指でカップを手に取り、一口含んだ瞬間、張り詰めていた緊張がわずかに解けました。
「……生きて、またこの味を知ることになるとは思いませんでした」
隣に座る古村大佐も、その芳醇な香りに目を閉じます。死を覚悟した武人たちにとって、それは単なる飲料ではなく、失いかけた「《人間》としての時間」を取り戻すための、再生の儀式でした。
帰還艦隊司令長官は年齢は40前後。165cmほどの小柄な体躯だが、無駄な肉はなく、その挙動はしなやかな野生動物を思わせる自然体だ。
幕僚も年代は30代から50代で溌剌とした英気を感じる。
彼らは至福の一杯を味わい、この部屋に訪れた一時の静寂と、平和を感じた。そして、帰還艦隊司令長官は伊藤たちを真っ直ぐに見て、静かに語り始めた。
「伊藤司令官。信じがたいことでしょうが、我々もまた、自分たちがなぜここにいるのか、その物理的な理由は分かっていないのです。我々は、いくつもの異なる『可能性の次元』から呼び戻された者たちの集まりなのですから」
その言葉を引き継ぐように、傍らの潜水艦隊司令官が続けた。
「ある者は、海に沈む瞬間に。ある者は、戦後に。我々は異なる時空で一度は果てた魂、あるいは失われた記憶なのです。しかし、気づいた時にはこの鋼鉄の船とジェラルミンの翼、そして最新鋭の武器と共に、この1945年の海に浮上していました」
会議室に、深い沈黙が流れる。
「なぜ、今なのか。その答えは我々の中にはありません。しかし……」
帰還艦隊司令長官の瞳に、宿命の炎が宿った。
「我々全員の胸には、磁石の針のように揺るぎない一つの使命だけが刻まれています。『日本を救い、世界を救い、そして人間の尊厳を守る』こと。それが、我々をこの戦場へ呼び戻した唯一の理由なのです」
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伊藤司令官は、目の前のコーヒーカップを両手で包む。その温もりは、夢ではない現実を伝えていた。
「……我々の危機を救ってくれた貴殿らに、すべてを託そう。我らもまた、死に場所を求める戦いではなく、生きるための戦いにこの身を投じる」
二人の指揮官は、固い握手を交わした。
それからの時間は、驚愕の連続だった。正面のスクリーンには、帰還艦隊のレーダーが捉えた沖縄周辺の米艦隊の正確な布陣が鮮明さで映し出された。
情報の同期。行動指針の策定。行動に移すための実務レベルの実施方法を決めた。
1,600名の救助兵は大和と帰還艦隊の空母、駆逐艦へと分散して収容され、彼らはそこで、自分たちの知るものより進歩した技術と、それを操る「同胞」たちの熱気に触れた。
古村大佐は、陸奥のデッキから大和の巨体を見上げた。
絶望に染まった坊ノ岬の海は遠のき、今、彼らの心には「希望」という名の勇気が再燃していた。それは、この艦隊が紡ぎ出す日本人の、そして人類の未来を信じるための力。
「行くぞ。目的地は沖縄だ」
アメリカの手によって地獄と化したあの島へ。
新・連合艦隊が、今、反撃の航跡を描き始めた。




