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待たせたな!  作者: 僧籍
第四部 北方防衛開放戦線

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ウラジオストク上陸戦 3-10 佐伯中佐

尋問の報告を聞き終えた北方防衛開放軍北方軍 参謀長高瀬少将は、静かに長く息を吐いた。手元の満州全図には、佐伯がもたらしたソヴィエト軍の軍団配置、兵站線、そして燃料集積所の座標が次々と書き込まれていく。それは、ソヴィエト軍という巨大な怪物を解体し、心臓を射抜くための「精密な解剖図」そのものであった。


---


佐伯の微笑と凍りついた心


「……佐伯中佐」

高瀬が顔を上げた。その眼には、参謀長としての意志と、部下に「地獄」を強いた一人の人間としての痛ましさが混在していた。


「貴官達にこのような役割を押し付けた」


佐伯弦一郎中佐は微かに微笑んだ。しかし、その笑みは頬の筋肉が機械的に動いたに過ぎない、感情の動きの振幅が凍りついていた。


「滅相もございません。私は、あの地獄で死んだ同胞に代わって、敵の喉元を締め上げたに過ぎません。……これで、戦えますか」


佐伯の声には、復讐を果たした満足感すらなく、ただ職務を全うしたという無機質な響きだけがあった。


高瀬は椅子から立ち上がり、佐伯の肩に重々しく手を置いた。


「この情報は絶対に役立てる」


高瀬の言葉には、熱量ではなく、岩のような質量があった。


「貴官たちが地獄から持ち帰ったこの血塗られた真実が、数万の同胞を救う盾となる。必ずだ。我々はこれより、図面通りに赤軍を葬る」


高瀬の言葉が、防空壕のコンクリート壁に反響する。


「必ずだ。我々はこれより、図面通りに赤軍を葬る」


「図面通りに」——その言葉を聞いた瞬間、佐伯の脳裏に、かつて自らがその手で引き裂き、踏みにじってきた満洲の泥濘と血の匂いが、鮮烈に蘇った。


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最後の砦 ―― 通化要塞


1945年9月。ソ連軍の侵攻開始から一ヶ月が経過した今もなお、満州の地で血みどろの抵抗を継続していた。しかし、大勢は苛烈を極めていた。満州全土が赤軍の赤き奔流に呑み込まれる中、唯一の、そして最後の孤立地帯として残されたのが「通化つうか」であった。


佐伯中佐は、もともと精鋭と謳われた関東軍の極めて優秀な将校だった。


1945年8月8日、ソヴィエト軍が日ソ中立条約を無残に破り、濁流のごとく満洲国境を越えて侵攻してきたあの日、彼は最前線で泥を啜りながら戦っていた。だが、日本の誇る防衛線は、赤軍の圧倒的な物量と、地響きを立てて迫るT-34戦車の蹂躙の前に、一瞬にして崩壊した。


「南部へ撤退し、通化で最終防衛線を構築せよ」


総司令部から下されたその絶対命令は、最前線の兵士たちにとって「背後にいる無数の同胞(民間人)をすべて見捨てて逃げろ」という冷酷な宣告に等しかった。


撤退路は、まさに現世に現れた地獄そのものだった。


ゆく先々で佐伯が目にしたのは、すでにソヴィエト軍の機甲部隊に追いつかれ、蹂躙し尽くされた町や村の残骸だった。黒煙を上げる民家、引き裂かれた衣服、赤ん坊を抱いたまま泥人形のように固まって息絶えた母親たち。


かろうじて生き残った避難民たちは泥まみれになりながら、撤退する佐伯たちの軍用トラックに群がり、狂ったように窓を叩いて泣き叫んだ。


「乗せてくれ!」「お願いだ、子供だけでも連れて行ってくれ!」


だが、佐伯に彼らを救う権限も、トラックの荷台に彼らを乗せる余白もなかった。


「民間人を乗せる隙間はない。振り払え!」


非情に徹して命じた自分の裂けたような声が、今でも耳の奥で、呪いのように鼓膜を震わせている。守るべき人々を置き去りにして、容赦なく泥を撥ね上げ加速するトラック。バックミラーに映る彼らの絶望と怨嗟に満ちた眼差しを、佐伯はただ、自らの感情を殺して見つめ続けるしかなかった。



孤立無援の要塞・通化


命からがら通化に到着したとき、そこは撤退してきた敗残兵と、逃げ惑う十数万の避難民で埋め尽くされた混沌の極みであった。すでに通化以外の地域はすべてソ連軍の手によって陥落しており、街は完全に四方を包囲されていた。しかし、ここに集った将兵も民間人も、ただ死を待つだけの羊ではなかった。


「敵はすぐそこまで迫っている! 掘れ! 掘り進めて敵を食い止めるのだ!」


通化は、凄まじい執念のもとで「最終防衛線の要塞化」が進められていた。兵士のみならず、シャベルを持った避難民の男たち、さらには婦人までもが動員され、街の周囲には幾重にも張り巡らされた網の目のような、塹壕網が掘削された。さらに、赤軍の重戦車を足止めするため、街の至る所にコンクリートを流し込んだ即席の特火点トーチカが築かれ、急造の対戦車壕や丸太を組み合わせた障害物が設置された。弾薬が底を突きかける中、兵士たちは手榴弾を束ねた対戦車爆薬を胸に抱き、塹壕の底で敵の無限軌道を自らの肉体ごと爆砕する準備を整えていた。


それは、生還を期さない「絶対防衛線」だった。


この極限状態の中、連絡将校に指名された佐伯には、ある「極秘任務」が課せられていた。

激しい戦闘の最中、執念で掴み取ったソヴィエト軍の情報を本国へ持ち帰り、北方軍・南方軍による大反撃の糸口を掴むこと。この情報こそが、日本を救う唯一の鍵だった。


通化の臨時滑走路は、我先にと脱出を試みる暴徒と化した避難民たちで埋め尽くされていた。


「下がれ! 下がらんか!」


怒号が飛び交い、警備兵たちが空へ向けて激しい威嚇射撃を繰り返す。その銃声の合間を縫うようにして、佐伯は滑走路へ滑り込んできた最後の九七式司令部偵察機(連絡機仕様)の狭い座席へと押し込まれた。


「中佐、必ず本国へ! 我々の命を、無駄にしないでください!」


整備員がそう叫んで風防を閉じた瞬間、エンジンが悲鳴のような金属音を上げて回転を始め、機体は避難民を置き去りにして、急角度で灰色の空へと舞い上がった。


窓から見下ろした通化の街は、迫り来るソヴィエト軍の包囲網の中で、無数の塹壕が大地を引き裂き、まるで巨大な生贄の祭壇のように白煙を上げていた。


佐伯は、懐の図嚢ずのうを強く握りしめた。

あの泥濘の退路で、そしてこの通化の地で置き去りにしてきた同胞たちの命を背負い、彼は日本の空へと、ただ一心に機首を向けるのだった。


自らが生きて日本に辿り着くために、何万の同胞を、どのような地獄に置き去りにしてきたか。


---


佐伯の魂は通化で一度、完全に死んでいた。

彼の持ち帰った「血塗られた精密な解剖図」は、彼が置き去りにしてきた同胞たちの血と、自らの魂だったのである。


「……高瀬閣下」


佐伯は、表情を一切変えずに、静かに言った。


「あの地獄の泥の中に、まだ彼らが這いずっています。赤軍を葬るためなら、私はこの身が塵になろうとも、喜んで次の地獄へ赴きましょう」


高瀬少将は何も言わず、ただ、佐伯の肩に置いた手にいっそう力を込めた。彼らの視線の先にある満州全図には、ソヴィエト軍の巨大な陣形が描き出されていた。


視線の先 通遼


二人の視線は、地図上の一点に吸い寄せられた。


通遼ツウリョウ

そこは、武田大佐の計算と、掛井大将の戦略、そして佐伯の剥ぎ取った情報が合流する場所。

大陸を覆う「赤い波」を堰き止め、ソヴィエト極東軍という存在そのものを圧殺するための最終的な出口の無い『処理場』である。


旅順・大連、ウラジオストク、そしてハルビン。各拠点を結ぶ「はさみ」の刃は、いまや完全に研ぎ澄まされた。高瀬は受話器を取り、北方軍全航空部隊への作戦発動を命じた。夜明けの空を、やがて日本軍の重爆撃機隊が埋め尽くそうとしていた。北方軍と南方軍、そして関東軍。三軍が連動し、通遼の「巨大な罠」を閉じるための一大攻勢が開始される。

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