表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
待たせたな!  作者: 僧籍
第四部 北方防衛開放戦線

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
104/114

ソヴィエト軍の越境 満州国首都・新京1-6

挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)





1945年8月。かつて「大陸の理想」を掲げ、アジア随一の近代都市として光り輝いた満州国首都・新京(長春) 。その華やかな表通りから一歩入った路地裏には、いまや泥にまみれ、希望を断たれた日本人難民が溢れかえっていた。


数ヶ月前まで、パリ仕立てのスーツで大通りを闊歩し、大和ヤマトホテルのティーラウンジで優雅な時を過ごしていたエリートやその家族たち。彼らは今、ボロ布を纏い、飢えと恐怖で虚ろになった目を地面に這わせる「棄民」へと転落していた。


静まり返った街に、石畳を叩く重い軍靴の音と、野太い怒声が響き渡る。


「ダワイ! ダワイ(出せ)!」


ソ連兵の男たちが、民家の堅牢な扉を銃床で無慈悲に打ち破る。彼らが求めているのは、勝利の証としての戦利品――時計、指輪、そして「女」であった。


腕に幾つもの腕時計をはめた兵士たちは、略奪を当然の権利として誇り、抵抗する者の頭を躊躇なく撃ち抜いた。そこには軍隊としての規律など微塵もなく、あるのは勝者による剥き出しの欲望と、敗者への底なしの侮蔑だけだった。


「やめて! お願い、それだけは……!」


悲鳴が薄い壁を突き抜け、夕暮れの空に消えていく。かつての支配者たちは、自分たちを守るはずだった軍隊が去った後、ただの「獲物」として路地裏に放置されていた。


地獄はソ連兵だけではなかった。

秩序が崩壊した新京の闇に紛れ、昨日まで日本人に頭を下げていた隠れたコミュニストや、混乱に乗じて牙を剥いた現地のごろつき集団や匪賊が、獲物を求めて蠢き始めていた。


小日本シャオリベン! 報いだ、今までの分を返せ!」


彼らにとって、逃走する日本人はもはや人間ではなく、略奪可能な「荷物」に過ぎなかった。

衣類を剥ぎ取られ、裸のまま夏の夜の闇に放り出される者。家族を守ろうとして農具でなぶり殺しにされる者。数年にわたる統治の「代償」は、最末端の民間人たちの血によって、あまりに過酷な利子をつけて支払わされていた。


もちろん、その傍らで密かに日本人を匿い、涙を流す満州人の隣人もいた。しかし、それ以上に「ごろつき」たちの上げる歓喜の叫びが、都の夜を支配していた。


---


「……静かに、声を出すな。殺されるよ」


半地下の倉庫に身を潜めた節子は、震える娘の口を必死に塞いでいた。

通りの向こうでは、連行される日本兵の空虚な足音と、略奪を祝う暴徒たちの下卑た笑い声が混じり合っている。


暴行、略奪、殺人。かつての「秩序」という虚飾が剥がれ落ちた満州は、暴力だけが唯一の共通言語と化していた。


「お母ちゃん、私たち、おうちに帰れるの?」


娘の掠れた問いに、節子は答えることができなかった。

故郷の土を踏むためには、この地獄を、この憎悪の嵐を生き延びねばならない。節子は暗闇の中で、わずかに残った気力で娘を抱きしめた。


八月の湿った風が吹き抜け、力尽きた者たちの骸を、夜の闇が静かに覆い隠していく。


満州の落日は、血よりも赤く、すべてを拒絶するように沈んでいった。あとに残るのは、不気味な静寂と、音にならない呻き声だけだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ