第七話:遠すぎる背中
手永紺の部屋の壁には、一枚のポスターが貼られている。
バンタム級日本チャンピオンの伯父が、ライトを浴びて真っ赤なグローブを掲げ、獣のように吠えている写真だ。
「いつでもお前のヒーローでいてやる」
幼い頃に交わしたその約束が、紺の心をずっと支配していた。
伯父のようになりたくて、紺は小学生の時にボクシングジムの門を叩いた。しかし、現実は残酷だった。紺には、超高速の拳を見切るための圧倒的な動体視力も、一撃で相手を沈める天性の拳の硬さもなかった。どれだけ泥にまみれて練習しても、日本チャンピオンである伯父のいるリングのライトは遠く、自分の影ばかりが足元に色濃くなった。格闘技の才能という容赦のない壁が、紺と伯父の間に、途方もない距離を生み出していた。
「もう一度、あの背中に手を伸ばしたい」
諦めきれなかった紺は、中学生になると同時に剣道部を選んだ。自分の拳が届かないのなら、竹刀という武器を持ってその距離を補えばいい。それが彼の、静かな逆襲の始まりだった。だが、ボクシングでの挫折は、紺の闘い方に奇妙な癖を植え付けていた。
紺は、徹底的に「接近戦」を避けた。相手の吐息が聞こえるほどの至近距離(鍔競り合い)になると、かつて薄暗いジムのリングで浴びた、顔面を破壊する容赦のない拳の恐怖がフラッシュバックするのだ。だからこそ、紺は「遠い間合い」に全てを賭けた。相手の竹刀が絶対に届かない位置から、ギリギリの一歩で踏み込む。それは、すぐそばにいるはずなのに、決して手が届かない伯父との距離そのものだった。
「弱虫の剣道だ」と周囲に揶揄されても、紺は一歩退いた場所から、ただひたすらに前を睨み続けた。中学最後の県大会。紺は、圧倒的な突進力を持つインファイターの選手と対峙していた。試合開始の合図とともに、猛烈な勢いで間合いを詰めてくる相手。いつものように恐怖から距離を取ろうとする紺だったが、会場の歓声の中に、聞き覚えのある野太い声が混ざっていることに気づいた。客席の最前列で、かつて日本チャンピオンだった伯父が腕を組み、紺をじっと見つめていた。
(自分はいつまで、傷つくのを恐れて遠くから眺めているつもりだ。才能がないからと、安全な距離から竹刀を振っているだけで、あの背中に追いつけるはずがない)
恐怖で足がすくみそうになる。相手の荒い呼吸が、面金の隙間から肌に伝わるほどの超接近戦。相手が勝利を確信して竹刀を振り下ろした。ガツン、と鈍い音が響く。紺はあえて逃げず、肉薄する恐怖の真ん中へ、泥臭く身体を滑り込ませていた。一本を告げる審判の旗が上がる。紺は、激しい息を吐きながら、面の中で不格好に笑った。結局、自分にはボクシングの才能も、誰もが震えるような剣道の天賦の才もなかった。これからも泥にまみれ、傷つきながら、遠い背中を追いかけ続けるのだろう。試合後、防具を外した紺は、客席の伯父に向かって、小さく右手を掲げた。いつか必ず追いついてみせるという誓いを込めて。
それから高校へ進学した紺が出会ったのが、新世代格闘武道『BUSHIDO FIGHT』だった。従来の剣道とは異なり、道具の長さやファイトスタイルが完全解禁された世界。紺は迷わず、規定内ギリギリの長さを持つ『長刀(リーチ型)』を選択した。BUSHIDOの公式ルールにおいて、長刀は通常の木刀よりも遙かに長い間合いを支配できる。これなら、あの接近戦の恐怖を味わわずに、安全な境界線の外側から相手を一方的に仕留められるはず。そう考えたからだった。しかし、オクタゴンの現実は、そんな紺の甘えを容認しなかった。長刀型は間合いが長い分、武器としての重量バランスが最悪で、先端をミリ単位で制御してAIが求める「完璧な刃筋」を灯すのは至難の業だった。さらに、BUSHIDOでは3秒間のクリンチ(掴み)や、軸足を刈り取る激しい「足払い」が解禁されている。一度でも懐に潜り込まれれば、長い武器はただの重りへと変わり、インファイターの格好の餌食になるのだ。
高山高校との練習試合では、二刀流の宇津志に一瞬で懐へ潜り込まれて瞬殺され、名門・浜南大学付属高との練習試合でも、洗練されたステップの前に何もできずに敗北した。部室のタブレットに表示された無残なスタッツが、それを冷徹に証明している。
「……クソ。また、遠くなる」
部室の片隅で、紺は自分の長いカーボン木刀を握り締め、唇を強く噛み締めた。どれだけ武器を長くしても、自分が接近戦の恐怖を克服し、その境界線を越えて前に踏出さない限り、あの伯父の背中にも、プロのオクタゴンのライトの下にも、絶対に辿り着けない。
その紺の隣で、同じく長刀を選択している2年生の九十歩が、静かに自分の武器を見つめていた。星ヶ丘高校サムライ部の2年生コンビ。彼らもまた、自分だけの理由でこの長い刃を選んだ、牙を隠した原石の1人だった。




