第二十ニ話:王者の間合い
弓道場で巴の桁外れの野心に触れ、スマホに届いた後輩たちの戦況を睨みながら、手永は自分自身の大きな間違いに気がついていた。これまで自分は、ただ恐怖を克服しようと、自分に合わない無理な接近戦の特訓ばかりを繰り返していた。しかし、巴のように「自分の強み」を突き詰めることこそが武道の理合ではないのか。画面を見つめる手永の脳裏に、初日に泥臭い奇策でチームを救った今井先輩の執念が蘇る。そして今、まさに午前十時半を回ったグループチャットに、さらなる激震が走っていた。
「……ゴダイ先輩も、本当にやったんだな」
データオタクの帆南からの速報――キャプテン五代が、個人戦の一回戦(初戦)を劇的に突破したという一報だった。
(先輩たちも、一年生も、みんな前を向いて戦ってる。……俺だけが、自分の武器から逃げていたんだ)
痛烈な悔しさと共に、手永はその日のうちに、伯父が働く地元の解体工事会社の事務所へと向かっていた。
二十代で日本バンタム級王座を獲得した伯父は、世界戦の資金難や怪我を理由に引退。その後、現役時代から練習時間を配慮してくれていたこの会社に正社員として入社した。それから約十年、現場の叩き上げとして実務経験を積み重ねた伯父は、現在は複数の現場を統括する「職長(現場責任者)」として活躍している。かつての軽量級の面影はなく、過酷な肉体労働によって磨き上げられた身体は、完全に逞しい筋肉質の職人のそれへと変化していた。周囲の若い作業員たちに元王者であることを誇示することは一切ない。だが、現役時代に培った礼儀、減量に耐え抜いた忍耐力、指示を誤れば命に関わる現場での高い集中力が評価され、今では社長の右腕として若手の指導や安全管理を担う、中心戦力となっていた。
「……なるほどな。接近戦が怖くて、長刀の長さを活かせずに懐に入られて瞬殺された、か」
事務所のパイプ椅子に腰掛けた伯父は、手永の吐露した情けない苦悩を、静かに受け止めた。作業着の袖から覗く太い腕が、お茶のペットボトルを傾ける。接近戦の恐怖からボクシングを挫折した手永に対し、元日本王者は責めるような口調を一切使わず、ただ現役時代に自身が長いリーチを活かして戦い抜いた「四つの戦法」を、静かに伝授し始めた。
「紺、お前が持っている『長さ』は恐怖を隠すための盾じゃない。相手を支配するための最強の武器だ。いいか、ボクシングもBUSHIDOも、間合いの理合は同じだ。まず一つ目は『刺し口』としてのジャブだ。遠距離から執拗にジャブを突き刺し、相手を絶対に近づけさせるな。出鼻をくじき続ければ、試合全体のテンポはすべてお前がコントロールできる」伯父は立ち上がり、軽くステップを踏みながら空を切った。その鋭い拳の軌道に、手永の目が引き込まれる。手永はスマホのメモアプリを起動し、その言葉を猛烈な勢いで画面に打ち込んでいく。
「二つ目は『アウトボクシング』。フットワークを駆使して、常にステップバックや円運動で相手の突進をかわし続けろ。自分の攻撃がヒットした瞬間にバックステップを踏み、相手の反撃が空を切る安全圏まで瞬時に後退するんだ。ヒット&アウェイを徹底しろ」画面に刻まれる「安全圏からの攻撃」の文字。
「三つ目は『カウンター』だ。近づけずに焦った相手が、強引に飛び込んできた瞬間こそが最大の好機だ。ガードを下げて無理に前進してきたところに、その長いリーチを活かしたストレートやアッパーを正確に合わせ、一撃で迎撃する」そこまで一気に語ると、伯父は手永の目の前でピタリと動きを止め、その大きな両手を開いて見せた。
「そして最後、四つ目は『クリンチによるリセット』だ。どれだけ警戒していても、万が一懐に入り込まれることはある。その時は恐怖で下がるな。長い腕を相手の身体に巻きつけ、インファイトを力づくで拒否しろ。システムによるブレイクを誘い、再び自分に有利な遠い距離から試合を再開させればいい」接近戦が怖いなら、近づけさせなければいい。万が一近づかれたら、一度すべてをリセットすればいい。伯父の現役時代の魂が宿るその言葉は、自己嫌悪で冷え切っていた手永の脳内に、これまでにない明確な戦術の光を灯していった。
「ありがと、伯父さん……!」託された四つの秘訣が画面に並ぶスマホをポケットに押し込み、手永は事務所を飛び出した。アリーナのオクタゴンへ戻る前に、いま自分にできることをやる。初夏の強い日差しが降り注ぐ中、手永は一人、静かな場所を見つけて木刀を強く握り直した。ジャブの代わりとなる、遠距離からの執拗な牽制の突き。ヒット&アウェイを可能にする軽快なフットワーク。仲間たちが明日も戦い続ける過酷なスケジュールを頭の片隅に意識しながら、手永は生まれ変わるための泥臭い自主練を、いま熱く開始するのだった。




