第十八話:負けず嫌いになれない少年
九十歩歩十九は、幼い頃から争いごとが極端に苦手な子供だった。
誰かと競い合って白黒をつけることの価値が、どうしても分からなかった。何事にも一歩引いて相手に歩み寄り、ただ静かに和を重んじる。
勉強も運動も決して抜きんでてはいなかったが、そんな事は彼にとってどうでもいい事だった。世間の人間が口にする「負けず嫌い」という言葉の本当の意味を、歩十九は一度として理解できたことがなかった。
高校に入学し、何一つ不満のない平穏な毎日を過ごしていたある日の放課後、彼は他校の輩に絡まれてしまう。だが、そんな出来事も彼にとっては慣れたものだった。いつものように無抵抗で、ただ嵐が過ぎ去るのをやり過ごそうとした。その瞬間、黒髪をポニーテールに結った一人の女の子が、強引にその場に割り込んできた。
中原巴だった。巴は息を呑むほどの規格外の身体能力で、あっという間に三人の男を一人で蹴散らしてしまった。男たちを制圧し終えた巴は、助けてやったぞと言わんばかりに、こちらを振り返って誇らしげに満面の笑みを浮かべた。その、どこかガキ大将のようなあどけなさを残した笑顔を見た瞬間、歩十九は一瞬で心を奪われた。
巴のことを知りたい。その一心で彼女の過去を追いかけるうちに、歩十九は彼女が中学時代に圧倒的な剣道の実力を持っていたことを知る。「防具をつけるなら、他のスポーツに比べて怪我も少ないかもしれない」そんなもっともらしい理由を並べ立てて彼は当時、巷で流行り始めていたサムライ部の扉を叩いた。もちろん本当の理由は巴だった。ただ注意を引くため、彼女の視線の先にいたかったからだ。それからの日々は、歩十九にとって幸福な時間だった。赤点に大苦戦する巴の横に座り、勉強を教える傍らで、放課後はサムライ部で刀を振るう。
しかし、歩十九の根底にある本質は何も変わっていなかった。彼は自分が傷つくことよりも、自分の放った刃で誰かを傷つけることのほうが、何よりも怖かった。だからこそ、自分の心の中に「強くなりたくない自分」が明確に存在していることに気づいていた。本気で強くなって、誰かを叩き伏せるような人間にはなりたくない。
(巴がいれば、それで大丈夫だ)どこかでずっと、そう思っていたのかもしれない。圧倒的に強い彼女がそばにいてくれれば、自分は一歩引いた優しい世界のままでいられると、甘えていた。
しかし、入部して一年が過ぎた頃、それまで平和だった星ヶ丘高校サムライ部に、一つの「異変」が起きる。元プロボクサーである桐生陣がコーチに就任し、部の活動が「プロ基準のオクタゴン」へと急激に舵を切り始めたのだ。その部内の劇的な変化は、弓道部にいる巴の耳にもすぐに届いてしまった。
「ねえ、アユト。サムライ部、最近すごいことになってるんだって?」
放課後の廊下で、トモエに根掘り葉掘り、部活の様子について聞かれた。桐生コーチの地獄メニュー、新入生たちの野生の強さ、そして4億円の夢が動くBUSHIDO FIGHTの世界。それらを熱っぽく問いかけてくる巴の輝く瞳を正面から見据えたとき、歩十九は痛烈に思い知らされた。(……ああ。やっぱり、ともえは強い人間が好きなんだ)巴が憧れ、惹かれるのは、境界線の向こう側で命がけで牙を研ぐ、強き者たちの世界なのだと、その無邪気な好奇心に突きつけられた。
巴の注意を引くために始めた部活で、巴から置いていかれそうになっている。強くなければ、彼女の隣にはいられない。だけど、自分は誰かを傷つけるために剣を握ることはできない。激しい矛盾の中で葛藤する歩十九の前に、BUSHIDOの「10点減点方式」の電子防具システムが提示された。完璧なクッション性とセンサーに守られ、有効打突がダメージポイントとしてデジタルに加算される世界。
(強くなるために、人を傷つける必要のないこの刀なら……少しだけ、信じてみよう)
ここでなら、誰も傷つけることなく、巴の好きな「強さ」を目指せるかもしれない。覚悟を決めた歩十九は、放課後の放課後、意を決して巴の前に立ち、真っ直ぐに指導を頼んだのだった。「ともえ、頼む……。俺に、懐へ潜り込まれた時の『解答』をくれないか」
その少年の弱さと優しさ、そして静かな恋慕の執念が、あの秘密の朝練へと繋がっていた。オクタゴンの上で長刀を構える中堅・九十歩歩十九の刃には、誰よりも泥臭く、誰よりも一途な、巴への誓いが宿っていた。




