エリスの妖精(後編)-10
学園長は非常に純度の高いオーラムで出来た、魔法の杖をトンと地面に突き刺す。すると同時に侵入者及び脱出者を阻む、『招かざる客』を排除する檻のような魔法陣が出現するのであった。その魔法は、学園全体に施された不法侵入者を阻む、非常に強烈な魔法と同じものである。
学園長もまた、魔法の領域が極致に至った指折り有数の使い手。
理事長は半透明のハニカム式のドームが周囲を覆ったのを確認しながら、「いつみても良い手際だ」と素直な感想を出すのである。
「自分は、召喚魔法は不得手だからな。未来の――異世界の住人さえ召喚可能な魔法の極致――実に舌を巻く。この魔法を使って世界中から破壊するものの因子を色濃く受け継いだ個体に入学証たる召喚の招きを送り付けて、百年のまじないをかけていたのか」
百年のまじない。
それは、魔法士がオーバーブロットすることなく人として一生を終えることが可能な、精神安定剤。理事長からみればそれは、根本的解決にならない先延ばしにしかならない処置でしかなかったが、魔法士の根絶を目標に掲げるソレと比べれば随分優しく穏便な方法である。
「我思うが故に汝あり(コギト・エルゴ・スム)」
瞬きの最中、学園長の姿が消えた。
どこに行ったと……首を動かす間もなく猟犬の斜め後ろから瞬間移動の如く再出現した学園長は、オーラムの杖を振るって、理事長にのみ効く即死魔法を放った。正確には驚異的なスピードで移動したのではなく、召喚魔法によって場所を移動したのであるが、時空間を行き来する魔法には膨大な魔力消費が必要とされる。
だがしかし、魔法の極致に至ったものは正気を保ちながらオーバーブロットしたかのような状態であり、魔法を使う際、魔力を一切消費することのないボーナスステージに立っていた。これはたとえブロット化から正気に戻った者であったとしても会得することの出来ない、極みの領域。その条件は自身のユニーク魔法をより深く理解することが、極致に至る条件なのだ。その域まで到達した魔法士の数は非常に少ない。
「四肢簒奪」
黒い猟犬の肉体に不可視の蜘蛛の糸が絡まる。肉体の内部から身体を乗っ取る亡霊の憑依は、肉体の稼働域と力加減を……本人の意思を一切無視した操り糸である。強烈な力で焼き焦げた地を蹴り、そのまま真っ直ぐ壁にぶつかる直前壁を蹴って、闇の鏡の間の一角に着地する。そして大きく息を吸い込んで、相手を焼き殺すどころか骨さえ残らない高温の炎を発するのだ。
鏡の間全体が、再び青色一色に染め上げられる。通常なら隣接する建物に火の手が回るところであるが、学園長が戦闘前に施した魔法障壁のお陰で二次災害は起こることはない。この対策は建物の無事を考えてのことではなく、生徒たちへ一切怪我がないように配慮された思いやりであった。
「火焔でも障壁を焼き切ることは出来ないか。そう云えば、この学園全体には招かざる客を阻む召喚陣を敷いているのに、どうして自分とあの魔剣の存在を許している?」
「あなたはともかく、魔剣は生徒に危害を加えようとするようなものじゃありませんからねえ。危険思想を持つ生徒を裏の世界へ投棄する……その中で見知った関係、ですので」
「へえ、あの剣と知り合いなのか。今では自分が誰なのか忘れてしまっているようだけど……まあ、そこはどうでもいい。それより疑問なのが、どうして自分のことをドブネズミと唾棄しながらこの学園に存在を許すのかな? そこが分からないよ」
「あなたは、生まれつき悪性を持たない人間でしたね。どのような幼子でさえ、細やかな悪意を持つというのに、生まれながらにして狂気の淵に落ちている。人の好意しか理解できない歪で歪んだ人間性。そんなあなたに、私の気持ちは一生理解することは出来ないでしょう……」
「分からないね。だから、こうして聞いているんだ。どうして私は魔法陣に阻まれることなく、滞在することが許されているのかな。思うに、マイディアはとても優しいから」
私、優しいですから。
それは時折、学園長の口から出される言葉だ。
「……優しいから、その甘さと優しさに付け込む形でこの学園に存在することが許されたのだとそう思うのだけど実際のところは、どうなんだい?」
「愛憎相半ば……と云ったところでしょうか。好意しか理解できないあなたは、私の主張を半分しか理解することしか出来ないでしょう。私とあなたの中に確かに、友情の念はあった。だけど、相手が苦しむ辛さたる悪感情を理解せず思いつくままに、善意で拷問を行うあなたに憎悪していたのもまた事実」
「憎しみか。度し難い感情だね。自分はついぞ、死んでもなお理解することのできない人間の持つ悪感情だ。その心を抱いたら、その精神状態はどうなるんだい?」
「あなたの状態は、死んでも治らない病気――馬鹿つける薬がないだけでしょう」
学園長はオーラムの魔法の杖を振りかざす。杖の先端から放出される黒い影の塊は、理事長にのみ効果を発揮する即死の魔法だ。凄まじい速度の魔法。理事長は自己の魂にアマルガム――魔法石を埋め込んでいるがゆえノーモーションで、自身に向かって飛来してくる魔法を蜘蛛の巣で絡めとり、その速度を落とすだけではなく、ボールのように地面に転がす。蜘蛛の巣が全体に絡まった学園長の致死性の魔法は不発に終わった。
「しまった――!」
学園長が魔法を放ち蜘蛛の巣で絡めとられたその瞬間、かつて監督生が見えない糸で地面に縫い付けられてその場から動けなくなった。足を一歩踏み出すどころか指一本動かせないその縛めは、糸でも縄でもなく鉄でできた鎖でコーティングされているかのようであった。
厄介……理事長と戦う上で一番厄介なのは、人海戦術で大量の人を思いのまま操作する魔法でもなく、操られる本人の意識を塗り替える概念の領域に達した魔法の技量でもない。一番厄介なのは、予備動作……モーションを見せず魔法をかけるソレ――操作魔法は不意打ちかつ基本で、術者はその戦法に長けているとしても、常に回避防御すら許されない不可避の攻撃は戦略的に非常に有効なのであった。
相手もまた妖精との百年戦争の生き残り。
老獪な老兵。
今の平和の世の中では考えられない、魔法士同士の戦いであると理事長は認識しながら、召喚魔法を用いて他の場所へ転移、移動しようとした矢先、蜘蛛の糸に操られた黒い猟犬が突進する。口から青い息吹を出して、学園長を組み敷き四つ足で覆いかぶさり、獰猛な牙で食らいつくすのであった。
猟犬が狙うのは、喉笛。その咬合性は、数値で表すならどれほどの値を叩き出すか。
一噛みされただけで咽喉を掻き切られたかのように流血沙汰になることを一早く察知した学園長は、手にしていた杖を防御代わりにして猛攻を防ぐ。杖を両手で横に持ちながら牙を防ぐ中、ブツリと何かが切れたような感触を覚える。明確に自分を縛り付けていた糸が焼ききれる音を耳にしたわけではないが、黒い猟犬が背中、そして四つ足から放つ青い炎が自身に圧し掛かることで伝播し、蜘蛛の糸を焼き切ったことを認知した学園長は、召喚の魔法を使って、自分自身を空中に召喚した。
わずかな滞空時間から地面に落ちる最中、黒い猟犬の脳天にかかと落としを決めて、脳震盪を引き起こさせる。そして息をつく間もなく、一呼吸の猶予もいれずに猟犬の心臓に向けて即死魔法を数度放った。一発目は以前と同じように蜘蛛の巣に絡めとられて地面に転がるが、乱発した残りの魔法の弾を避けることは出来なかった。
殺害の再演、理事長にのみ効果を有する特攻魔法。猟犬にダメージを入れることは敵わないが、犬の体内からくぐもった声が響く。確かな手ごたえとダメージの蓄積を確認した学園長はニヤリと笑った。
即死魔法の猛攻は数度放った魔法だけに収まらない。脳震盪による意識の揺らぎが収まりかけた黒い猟犬を、顎の下から渾身の力である杖で打撃する。再びスタン状態になる犬は身体全体を揺らして俄かにフラフラと覚束ない足取りを見せた。理事長が驚異的な魔物に憑依し巣食っているとは云え、その乗り物が動かなければ、意味がない。ただ、乗り物に騎乗しているだけだ。
そう証拠づける痕跡は、最初の一撃にあった。監督生の身体の自由を奪うにせよ、学園長の肉体の可動域を制限するにしても、意識を塗り替える洗脳の魔法を放つことはなかった。自分の認識を学園長の味方であるように塗り替えれば……意識を操作すれば、そもそもこの戦いは発生することはなかっただろうに、その手法を取らなかったのである。
そして学園長は好機を見出すと同時に、確信した。理事長が少し前、この学園全土に引いた魔法陣から招かざる客として弾くことなく、なぜ存在することを許しているのかと問い、その答えは学園長が持つ、優しさと甘さが原因ではないかと述べていた。
それと同じように、理事長もまた甘さがある。
生まれながら、人間の悪性を全く理解できずに善性しか理解できない異常な精神性……善意で悪行を行うことができる。理事長にとって責め苦は善意の塊、拷問は誠心誠意の質問で、殺害は善良を発揮した安らかな処置として捉えている。
……恐らく洗脳の操作魔法を使用しなかったのは、相手の善意を心の底から信じているから。自分の主義主張を訴えれば、信じてくれるものだと思っているから。性善を信じる。言葉の響きとその意味は良いが、あえて悪く表現するならば相手を侮った楽観性でしかないのだ。理事長の取ったその侮りは、例えば……表現するならば、苛烈極まる戦場において聖書を開きながら人を説き伏せているような場違いなものと同じようなものである。殺し合いに、人間の美徳を宣ったところで何の意味があろうか。
悪意を知らず、善性しか信じられない。
未知のものに対する理解を放棄して、既知の認識に依存している。
それは頭の凝り固まった老人よりも、対処難する固定観念だ。
「理事長……私のことを甘いと指摘するが、あなたもまた同じですね」
……でも、しかし……似た者同士だとは云わない。
何せ相手には、優しさと云う心持ちがないから。悪意を不理解のまま一生を過ごした、馬鹿につける薬はない愚か者。理事長には、学園長が持つような暖かな心が一切ないのである。
善しか知らぬ冷徹な心よ。
「では、死んでください」
学園長は余裕を見せる態度でゆったりと立ち上がり、俄かに外套を揺らす。高威力にして渾身の魔法を放つため魔力を昂り募らせながら、弾ではなく波、点ではなく面の即死魔法を放つ。蜘蛛で絡めとられることに対処した波状の即死魔法は、津波のように黒い猟犬に向けてぶつかる。理事長が魂に埋め込んだアマルガムが苦しみを表現するかのように胸の中で点滅する中、学園長は黒い魔法で塗り潰すのだ。
輝きを穢すように……灯の灯りを許さないように……光を失った死んだ目になるように、一直線に猟犬の心臓に向けて即死魔法を放つと、犬は一歩、二歩、三歩後退し、えづくかのような動きを見せた。胃の中に残った、嚙み砕いたブロット石の破片がポロポロと零れ出たかと思うと、一つの塊……獅子身中の虫が出て来る。銀色に輝くその蟲は――蜘蛛が黒い猟犬の体内から出ると同時に、学園長はまた容赦なく黒い即死魔法を放って、蹴り飛ばした。
蜘蛛は蹴り飛ばされた力の動きに従って、真横に吹き飛ぶ。学園長が構築した魔法障壁を突き破って、闇の鏡の間であった焦げ跡地から外に放り出されるのだが、胸のすく思いだった。これほど爽快な気分はなかった。
圧倒的な大勝利……学園長が肩を震わせ、大声で嬉し涙を流しながら笑っていると、火焔で崩れた天井から降り注ぐものがある。それは一見、雪のように見えたが、よくよく見るとビラのような紙……否、ポロライドカメラで撮影された写真であることを知る。
そのカメラの撮影者は監督生によるもので、撮影器具はゴーストカメラだ。記憶の断片、メモリーの一枚一枚は、これまで理事長により行われた七〇年ほどの歳月の塊だ。恐らくタイムリミットを迎えた。これまで完成しなかった一年は……不完全な一年の輪は完全な円環となり、まん丸な朔望となった。
奪われていた七〇年の歳月が写真となって降り注ぐ中、学園長はゲラゲラゲラゲラと笑いながらも、少しだけ不満を抱いていた。アレの魂を足蹴にするだけでは物足りぬ。やはり、怨敵の肉体そのものをバラバラにしたかった。物語のエンドが間近に迫るにつれ、唯一の心残りがあるとするならば、これだけに限るだろう。
雪のように降り注ぐこの紙片が、忌々しい理事長の血飛沫であればいいのにと思いながら、写真を一枚手に取る。その紙に映された風景は、監督生と学園長のツーショット。
そう云えば、こんなこともありましたねえ……と感慨深く戻って来た過去を思い出しながら、なおもまた笑い続ける。今にも小躍りしそうな嬉々の中には、親しい友を横暴に振る舞い蹴り飛ばした悔恨は一切ない。彼の心にあるのは、どこまでも澄み渡る青空のような清涼な気持ちだったのである。
黒い猟犬の姿が徐々に縮小し猫のような姿になる中、七〇年間、長い歳月に渡り撮影された写真は本来の時間を取り戻すように、学園の全敷地内に降り積もった。
突如空からビラのように降って来た写真に触れた、リドル、トレイ、ケイト、エース、デュース……レオナ、ラギー、ジャック……アズール、ジェイド、フロイド……カリム、ジャミル……ヴィル、ルーク、エペル……イデア、オルト……マレウス、リリア、セベク、シルバーの皆は、皆は七〇年間過ごした歳月、監督生と過ごした日々を思い出したと同時に、諸悪の根源に純然たる怒りをぶつける為に駆け出したのであった。
星に願いを。
ハッピービーンズデー。
ゴースト・マリッジ。
フェアリーガラ。
マスターシェフ。
学園内で開催された七〇年分の催事、祭り事。
記念撮影を行う、ゴーストカメラ。
その持ち主は、監督生。
他者との強い結びつけるその絆の名は、友情。
それ以外に適切な言葉はない。




