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【完結】私の平穏を返せ!  作者: 逆立ちハムスター


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水槽のLEDライトは夜間モードの淡いブルーに設定されており、フィルターのモーターが「ジーーー」と規則正しい微かな音を立てている。

その青い光の中を、グッピーの『アノ』と『ルル』が、寄り添うようにゆっくりと泳いでいた。


「ごめんね、起こしちゃったかな」


私は小声で呟きながら、キャビネットの引き出しから小さな餌のボトルを取り出した。

指先にほんの少しだけフレーク状の餌をつまみ、水面にパラパラと落とす。

アノとルルはすぐに水面に上がってきて、パクパクと口を動かして餌を食べ始めた。


その無心な姿を見つめながら、私はふと、深いため息をついた。


あと、数日。早ければ、明日には彼らは帰ってしまうかもしれない。

あの横暴だけどどこか気高いお姫様も。

優しくて完璧なイケメン執事も。

不器用で巨大な鎧の騎士も。


彼らが消えれば、私の部屋には、まだあの万札の入ったブランド紙袋という爆弾だけが残り、そして、私とこの二匹の魚だけの、孤独な生活に戻る。紙幣は怖いから燃やす方がいいかもしれない。


とても静かで、誰にも邪魔されない、完璧なプライベート空間。

私が望んでいた、元通りの生活。


……私、寂しいのかな。


夜の静まり返った暗い廊下で、私は誰にともなくポツリと心の中でこぼした。

大人になってから、こんな風に誰かと寝食を共にするなんて、いつ以来だろう。煩わしい反面、誰かが同じ空間で息をしているという気配が、冷え切っていた私の心を少しだけ温めてくれていたのは事実だった。


優雅に泳ぎながら餌を巧みに食べるアノとルルを見つめながら、この家に来たときの事を思い出す。


────


「未名! 無事なのか!?」

「どうしたのお父さん、そんなに慌てて。なにかあったの?」

「いまニュースで……」


「テレビをつけて」

「なんだって!?」

「父さん、落ち着いて。ただの音声操作よ」


【ニュース速報】


〇〇駅構内で切りつけ事件──複数人が負傷、男を現行犯逮捕。


『10日夜、都市部の主要駅構内で、男が所持していた刃物で周囲の利用客に次々と切りつける事件がありました。


消防によりますと、この事件で複数人が負傷し、病院に搬送されて手当を受けています。命に別条があるかどうかなど、詳しい被害の程度は調査中ですが、意識のある人物も確認されているということです。


警察は、現場で包丁のような刃物を持っていた男の身柄を確保し、傷害などの容疑で現行犯逮捕しました。男は襲撃時に暴言を吐いていたとの目撃情報もあり、警察は男の身元や動機、事件当時の状況について厳しく取り調べを進めています。


この事件の影響により、当該駅を通る各路線では一時運転を見合わせるなどダイヤが大幅に乱れており、駅構内では警察による現場検証と捜査が続けられています』


翌日。

私が買い物から帰宅すると、隣人の家族? が水槽などを運び出していた。

廊下が荷物で塞がっていて、自宅に入りづらい。

「ああ! すみません。今すぐ退けますので」

「いいえ」

少し待つ事に。

その間、私は運び出される水槽と魚を見ていた。


「嘘だろ!?」

「警察?」

「ああ。母さん。あのニュースの犯人じゃないって。防犯カメラだと、切りつけられた人の一人で、そいつが姉貴を突き飛ばしたんだと」


私は荷物が退かされるまで、聞こえないフリをするしかなかった。


「本当にすみません」

「ああ……いえ、その、急がなくても大丈夫ですよ」私は気まずい雰囲気を避ける為になにか言おうと思ったが、普通の社畜では洗練された言葉など咄嗟に出るはずもなく「魚も処分するんですか?」と尋ねてしまった。

「はい。飼ってくれる人がいれば譲りたいんですけどね」


それが私の、奇妙なアノとルルとの出会いだった。


────


目を開けて、ふーっと息を伯爵。


『――寂しいのか?』


「ヒャッ!?」


突然、背後の極めて近い距離から、あの重低音ボイスが響いた。

心臓が口から飛び出そうになるほど驚いた私は、ビクゥッ! と全身を跳ね上がらせた。


その反動で、右手に持っていた餌のボトルの口が大きく傾き――。


ドバァッ!


「ああっ!!」


指先でつまむ程度の適量だったはずのフレーク状の餌が、ボトルの半分近く、滝のように水槽の中へと雪崩れ込んでしまった。

青い水面が、一瞬にして真っ茶色の餌の絨毯で埋め尽くされる。アノとルルが「えっ、何事!?」とパニックになって水底へ逃げていくのが見えた。


や、やっちゃった……! 水質が悪化しちゃう、早く掬わないと……!

私はパニックになりながら、水槽の横に置いてあった小さな網を手に取り、狂ったように水面の餌を掬い取ろうとした。しかし、細かいフレークは水を含んで沈み始め、網だけでは到底追いつかない。


「驚かせないでよメイアスさん!!」

私は半泣きになりながら、背後に立つ巨大な黄金騎士を振り返って睨みつけた。


メイアスは無言だった。

兜の奥底で何を考えているのかは分からない。ただ、彼はゆっくりと、私の方へ――いや、水槽の方へと、その巨大な黄金の手甲をかざした。


微かに空気が振動するような音がした。

その瞬間。

水槽の中に沈みかけていた大量の餌が、まるで時間が逆戻りしたかのように、フワリと水面に集まり始めたのだ。

それらは見えない手でギュッと一つにまとめられ、ピンポン玉ほどの大きさの茶色い塊となった。


「え……」


メイアスが手首を軽くスナップさせると、その餌の塊は水面からフワリと浮き上がり、空中を移動して、横に置いてあった観葉植物のプランターの受け皿の上に、ポトリと優しく置かれた。

さらに、私が落としそうになっていた餌のボトルも、見えない力でフワリと奪い取られ、元の引き出しの中にスッと収まった。


相変わらず、その巨体と重装備に似合わない、信じられないほど精密で繊細な力のコントロールだった。

水槽の中は、元の綺麗な青い水に戻り、アノとルルが安心したように再び泳ぎ始めている。


「……あ、ありがとう」

私は網を下ろし、少しだけ気まずい思いでメイアスにお礼を言った。


メイアスは、かざしていた手をゆっくりと下ろした。

そして信じられないことを口にした。


『――辛いのなら、お前の記憶を消してやることもできる』


「え……?」

私は自分の耳を疑った。

「記憶を消せるの?」


『――無論。精神操作の術式を応用する』

メイアスは、淡々と事実を述べるように言った。

『魔法に対する耐性が全くないこの国の者であれば、数日間の記憶の特定の領域だけを綺麗に消去し、別の平穏な記憶にすり替えることも容易い。我々が去った後、喪失感に苦しむというのなら、最初から何もなかったことにした方がいい』


何もなかったことに。

アリアさんとの出会いも、ラドスラフさんの淹れてくれた紅茶の味も、クローゼットの万札騒動も、そして、母の指輪の真実も。

すべてを、都合のいい「ただの休日の記憶」に書き換えてくれるというのだ。


メイアスが、再びゆっくりと私の方へと黄金の手をかざした。

その手から、ほんのりと温かい、見えないエネルギーの波が集束しているのが分かった。


忘れてしまえば、明日からの私は、また元の「何も知らない限界社畜」に戻れる。喪失感も、不思議な寂しさも感じることなく、ただ仕事に追われるだけの日々を生きられる。


でも。


「――待って!」


私はメイアスの大きな手に、自分の両手を重ねた。

冷たい金属の感触が伝わってくる。


「消して欲しくない!」

私はハッキリと強い声で言った。

「辛くても、寂しくても……全部、私が経験した大切な思い出だから。母の指輪のことも、あなたたちのことも、絶対に忘れたくない。だから……今のままでいい」


私の言葉を聞いて、メイアスの動きが止まった。

兜の奥の視線が、私をじっと見つめているような気がした。


少しの沈黙の後。


『――そうか』


メイアスは短くそう答えると、私の手から自分の手をゆっくりと引き抜いた。

そして、それ以上は何も言わず、踵を返し、再び「ズシン、ズシン」と静かな足音を立てて、元の廊下の端へと戻っていった。


暗闇の中、再びあぐらをかき、石像のように固まる黄金の騎士。

私はその後ろ姿をしばらく見つめた後、小さく「おやすみなさい」と呟き、自分のソファへと戻った。


胸の奥にあったモヤモヤとした寂しさは、不思議と消えていた。

代わりに、残り少ない彼らとの非日常を、最後までしっかりと目に焼き付けておこうという、小さな決意が灯っていた。

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