8
アリアは、冷めかけた紅茶を最後の一口まで優雅に飲み干すと、コトリとカップを置いた。
「さあ、色々と話してスッキリしたわ。朝から慣れない街を出歩いて、少し疲れたわね」
彼女は立ち上がり、大きく伸びをした。
「少しシャワーを浴びて、休ませてもらうわ。昨日と同じで、あなたのベッドを借りるわよ、未名」
「あ、はい。どうぞ……って、あの!」
私は慌てて、お風呂へと向かおうとするアリアの背中に声をかけた。
「ずっと、私の部屋にいるおつもりですか……?」
アリアは立ち止まり、肩越しに私を振り返った。
その表情は、いつもの不敵な笑みだった。
「心配いらないわ。必要な物が揃ったら、ちゃんと元の世界に帰るから」
そう言い残し、アリアは洗面所へと消えていった。
その後を追うように、部屋の隅に控えていた黄金騎士メイアスが「ズシン、ズシン」と歩み出て、洗面所と寝室へと続く廊下の前に、再び仁王立ちになって道を塞いだ。絶対防衛線の構築である。
リビングには、私と、執事のラドスラフの二人だけが取り残された。
静寂が降りた部屋の中で、ラドスラフは手際よくティーポットに茶葉を入れた。
芳醇な香りが漂い始める。
彼は、新しいカップに琥珀色の紅茶を注ぐと、ソーサーを添えて、私の前に優しく差し出してくれた。
「どうぞ、未名さん。色々と衝撃的なお話が続いて、お疲れでしょう。温かいものを飲めば、少しは落ち着きますよ」
「あ、ありがとうございます……」
私は両手でカップを受け取り、その温もりにホッと息をついた。
一口飲むと、アールグレイのベルガモットの香りが鼻を抜け、心地よい渋みと甘みが口いっぱいに広がる。本当に、この執事の淹れる紅茶は絶品だ。これだけでもお金が取れるレベルである。
「あの……ラドスラフさん」
私はカップを持ったまま、彼を見上げた。
「アリアさんは『必要な物が揃ったら帰る』と言っていましたけど……それって、どれくらいかかるんでしょうか?」
ラドスラフは困ったような、しかし安心させるような微笑みを浮かべた。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。ですが、数日ほどで、私たちは元の世界へ帰還いたします。未名さんの生活も、すぐに元通りの平穏なものに戻りますので、どうかご安心ください」
「数日……」
本当に、あっという間だ。
「必要な物って、何なんですか?」
「『フォスフォフィライト』という鉱物みたいです」
ラドスラフは、スラスラと舌を噛みそうな名前を口にした。
「この世界の街を探索していたメイアスが、ある宝石店……ええと、博物館でしたか。とにかく、そこに展示されている『フォスフォフィライト』という宝石の中に、私たちの世界の魔力と非常に近い、微量なエネルギーが含まれていることを突き止めたのです。私たちの世界に指輪を持ち帰るためには、指輪を活性化させないといけないようなのです。ですので、メイアスが微小な鉱物を集めるのと同じ要領で、そのフォスフォフィライトから、この世界特有の魔力を少しずつ抽出・回収しているのです。それがある程度の量に達すれば、未名さんの持つ指輪を活性化させ、座標を繋いで、私たちは指輪を持ち帰ることができます」
なるほど。昨夜、粗大ゴミから金やレアメタルを錬成して万札の山を作ったのも、その魔力抽出のテストか、あるいは滞在資金稼ぎのついでだったのだろう。
メイアス、見た目はゴツいのに、やっていることはめちゃくちゃ繊細なエンジニアのようだ。
「未名さん。これで少しは安心していただけましたか?」
ラドスラフが、心配そうに私の顔を覗き込む。
その美しい瞳に見つめられ、私は小さく頷いた。
「はい……。ありがとうございます」
安心した。もちろん、安心したのだ。
数日我慢すれば、マルサに怯えることも、巨漢騎士に圧死させられそうになることもなくなる。
元の、誰にも邪魔されない、平和で、静かで……そして、孤独な社畜生活に戻れる。
でも。
紅茶の温もりを両手で包み込みながら、私の胸の奥には、ぽっかりと小さな穴が空いたような、奇妙な感情が渦巻いていた。
ある意味、毎日が同じことの繰り返しで、家と会社の往復だけで擦り減っていく退屈な日々。
そこに突然現れた、非常識で、ワガママで、でもどこか憎めない異世界人たち。
なんだかんだ言って、この非日常は、夢みたいな話で……少しだけ、楽しかったのだ。
(数日で、帰っちゃうのか……)
私は、少しだけ名残惜しいような、寂しいような気持ちを、紅茶と共にゆっくりと飲み込んだ。
────
その夜。
時計の針は午前二時を回っていた。
私の自宅は、奇妙な住み分けによって静寂に包まれていた。
寝室の、私がローンで買った車並みの値段したマットレスのベッドでは、アリアがふかふかの羽毛布団に包まれて優雅な寝息を立てている。
リビングと寝室を繋ぐ廊下の端では、黄金騎士メイアスが、フルプレートアーマーを着たままあぐらをかき、腕を組んで、文字通り『微動だにせず』待機している。石像か何かかと思うほどの静けさだ。
そして、リビングの隣の狭い和室スペース。
私はラドスラフに、クローゼットから引っ張り出した衣替え用の予備の毛布と枕を貸し出し、フローリングの上に敷いたラグマットの上で寝てもらうことにした。
「私のような使用人は床で十分でございます」と彼が固辞したためだ。いくらなんでも薄っぺらいラグマット一枚は申し訳なかったが、彼は文句一つ言わずに休んでいる。
そして家主である私は、リビングの端にある、二人がけの安いソファの上で、毛布にくるまって丸くなっていた。
「……眠れない」
目を閉じても、今日昨日の、あまりにも濃密すぎる出来事が脳内を駆け巡り、脳が覚醒してしまっている。
母の秘密。ドワーフの装置。世界の成り立ち。そして、数日後には訪れる別れ。
ソファの硬い感触が、余計に寝付きを悪くさせていた。
私はそっと毛布を抜け出し、音を立てないように立ち上がった。
薄暗い部屋の中、唯一わずかな光を放っている場所へと向かう。
玄関のキャビネットの上に置いてある水槽だ。




