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【完結】私の平穏を返せ!  作者: 逆立ちハムスター


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ふわり、と。

甘く、どこか懐かしいような、極上の紅茶と微かな石鹸の香りが鼻腔をくすぐった。


「未名さん……」


ベルベットのように滑らかで、耳元で囁かれるだけで腰から崩れ落ちそうになるほど甘い声。

薄く目を開けると、そこには綺麗な髪を揺らし、美しい瞳で私を熱く見つめるラドスラフの姿があった。


私は今、彼の強くてしなやかな両腕の中にすっぽりと収まっている。いわゆる『お姫様抱っこ』というやつだ。


「ラドスラフさん……」


漆黒の燕尾服越しに伝わってくる彼の体温は心地よく、私は夢見心地のまま、彼の首に腕を回した。

彼はフワリと極上の微笑みを浮かべると、ゆっくりと顔を近づけてくる。

端正な顔立ちが、私の視界いっぱいに広がる。長いまつ毛。スッと通った鼻筋。そして、形の良い薄い唇が、私の唇へと――。


触れるだけの、羽根のように軽いキス。

たったそれだけで、私の全身に高圧電流が走ったかのように、心臓がトクトクと跳ね上がった。


「あ……」

「未名さん。あなたは本当に、愛らしい人だ」


ラドスラフは、さらに熱を帯びた瞳で私を見つめ、再び顔を近づけてくる。

今度は、さっきみたいな軽い触れるだけのキスじゃない。もっと、深く、熱い……。

ダメ、私、こんな免疫ない。心臓が爆発しちゃう。いや、でも嬉しい。限界社畜の枯れ果てた人生に、こんな奇跡みたいなご褒美があっていいの? いいよね?


でも、彼の顔が数センチの距離まで迫った時、私の中の『真面目な社畜のストッパー』が、無意識に作動してしまった。


「ラドスラフ、ダメ……ッ!」


私は、キュッと強く目を閉じ、身をよじって彼のキスを躱そうとした。

その瞬間。


無言の圧。

さっきまでの甘い空気とは打って変わって、まるで冷凍庫の中に放り込まれたかのような、絶対零度の空気が肌を刺した。

そして、鼻を突くのは、極上の紅茶の香りではなく……ローズマリーのような匂い。


私は恐る恐る、ゆっくりと目を開けた。


そこには、キスをしようと迫る美しい執事の顔などなかった。

代わりに私の視界を埋め尽くしていたのは。


「――夢は楽しかったかしら、未名」


真上から私を覗き込む、氷のように冷たい視線を向けた、金髪の御令嬢・アリア。

そして。


その隣で、兜の奥の暗闇からジッと私を見下ろす、黄金の巨大フルプレート騎士・メイアス。

二人揃って、私の寝顔(しかも熱烈なキスの夢を見ている最中の、おそらく非常にだらしない顔)を、至近距離から観察していたのである。


「――っっっっっ!? ひゃあぁぁぁぁぁぁぁっ!?」


私はバネ仕掛けのおもちゃのように、ソファから跳ね起きた。

頭から被っていた毛布を勢いよく蹴り飛ばし、部屋の隅の壁際まで、フローリングの上をズザザザザーッ!と後ずさる。


「な、なななな、何!? なんで二人が私の顔を覗き込んでるんですか!?」


顔面から火が出るほど熱い。きっと今、私の顔は茹でダコのように真っ赤になっているはずだ。

パニックになる私をよそに、アリアは「ふふっ」と優雅に笑うと、スタスタと歩いてコタツテーブルの上座――定位置へと戻っていった。


メイアスもまた、何事もなかったかのように「ズシン、ズシン」と足音を立てて、部屋の端の定位置へと戻り、どっかとあぐらをかいて腕を組んだ。


「別に。あなたが珍しくうなされているようだったから、メイアスと一緒に様子を見てあげていたのよ」

アリアは、すでにテーブルの上に用意されていたティーカップを手に取り、優雅に口をつけた。

「それにしても……『ラドスラフ、ダメ!』とはね」


「~~~~~~ッ!!!」

私は、近くにあった柴犬クッションを顔に押し当て、その場でしゃがみ込んだ。

聞かれていた。完全に聞かれていた。しかも名前入りで。

いい歳したOLが、家に居候している若いイケメン執事とのロマンスの夢を見て、寝言で名前を呼んで悶絶している。


死にたい。今すぐ消滅したい。母の残したあの指輪の魔力で、ブラックホールか何かに吸い込まれたい。


「あなたの朝食の用意で、ラドスラフがキッチンにいて、聞いていなくて本当に良かったわね」

アリアは、クスクスと笑いながら追い打ちをかけてくる。

「もし彼があなたのあの寝言を聞いていたら、真面目な彼のことだから、恥ずかしさと申し訳なさで倒れていたはずよ。……ねえ、メイアス?」


『――はい』


無言であぐらをかきながらも、明らかに私をからかっている。こいつら、絶対に面白がっている。


平常心の二人の態度を見て、私はさらに気恥ずかしくなり、クッションに顔を埋めたまま「うぅぅ……」と呻き声を上げることしかできなかった。


「未名さん、お目覚めですか?」


その時、リビングのスライドドアが開き、エプロン姿のラドスラフが、朝食を乗せた大きなお盆を持って現れた。

いつ見ても非の打ち所のない、完璧な美貌。さっき夢の中で私にキスをしようとしていたあの顔だ。

彼を見た瞬間、私の心臓が再び別の意味で跳ね上がった。


「どうされたんですか? 顔が真っ赤ですが、熱でも?」

ラドスラフは、私が部屋の隅でクッションを抱えてうずくまっているのを見て、心配そうに駆け寄ろうとする。


「実は、未名がね……」

アリアが、意地悪な笑みを浮かべて口を開きかけた。


言われる! 言われたら終わる! 私の尊厳が、塵一つ残らず消え去る!


「わー!! わー!! わぁー!!」

私はクッションを放り投げ、大声を出しながら立ち上がった。

「朝食! 朝食を作ってくれたのねラドスラフさん!! ありがとう!! めちゃくちゃお腹空いてたの! いただきまーす!!」


私は、ラドスラフの持つお盆を半ばひったくるように受け取ると、コタツテーブルの上にガチャン!と乱暴に置き、ものすごい勢いで自分の席(座布団の上での正座)についた。


「えっ……あ、いえ、どういたしまして……」

突然の私のテンションの乱高下に、ラドスラフは目をパチクリとさせていたが、すぐに「お口に合うとよろしいのですが」と柔らかく微笑んだ。


アリアは、そんな私の必死の隠蔽工作を見て「クスッ」と上品に笑い、再び紅茶を口にした。


今日の朝食も、私の乏しい語彙力では表現できないほど絶品だった。

フワフワのオムレツには、何か複雑なスパイスとチーズが練り込まれており、付け合わせのサラダにかかっているドレッシングは、市販のものとは次元が違う爽やかさだった。

私は羞恥心を誤魔化すように、無我夢中で料理を胃に流し込んだ。


「……ふぅ。ごちそうさまでした」


食後のコーヒー(これもラドスラフが豆から挽いてくれた)を飲みながら、ようやく私は落ち着きを取り戻した。

窓の外を見ると、よく晴れた青空が広がっている。今日も慌ただしい休み(日曜)になりそうだ。


そんな私の平穏な空気を破るように、アリアがコトリとティーカップを置いた。


「実はね、未名」

アリアの表情から、先ほどまでのからかうような色が消え、真剣なものに変わっていた。


「もう、私たちは、元の世界に帰る目処が立ったのよ」


「……え?」

私は、コーヒーカップを持ったまま、呆然と彼女の顔を見つめた。


「だから、お別れはきちんと言っておこうと思ってね」


「えっ……嘘、昨日の今日で!?」

あまりにも突然の宣告だった。

「数日」と聞いていた。でも、まさか一夜明けた今日のお昼に帰るだなんて、全く心の準備ができていなかった。


「そうなんです」

ラドスラフが、私の驚きをフォローするように優しく口を開いた。

「昨夜、メイアスが夜通し街を回り、博物館以外にも、様々な場所から効率よく『フォスフォフィライト』の魔力を回収してくれまして。やはり、メイアスは有能ですからね」


褒められたメイアスは、部屋の端であぐらをかいたまま無言だった。

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