10
ふわり、と。
甘く、どこか懐かしいような、極上の紅茶と微かな石鹸の香りが鼻腔をくすぐった。
「未名さん……」
ベルベットのように滑らかで、耳元で囁かれるだけで腰から崩れ落ちそうになるほど甘い声。
薄く目を開けると、そこには綺麗な髪を揺らし、美しい瞳で私を熱く見つめるラドスラフの姿があった。
私は今、彼の強くてしなやかな両腕の中にすっぽりと収まっている。いわゆる『お姫様抱っこ』というやつだ。
「ラドスラフさん……」
漆黒の燕尾服越しに伝わってくる彼の体温は心地よく、私は夢見心地のまま、彼の首に腕を回した。
彼はフワリと極上の微笑みを浮かべると、ゆっくりと顔を近づけてくる。
端正な顔立ちが、私の視界いっぱいに広がる。長いまつ毛。スッと通った鼻筋。そして、形の良い薄い唇が、私の唇へと――。
触れるだけの、羽根のように軽いキス。
たったそれだけで、私の全身に高圧電流が走ったかのように、心臓がトクトクと跳ね上がった。
「あ……」
「未名さん。あなたは本当に、愛らしい人だ」
ラドスラフは、さらに熱を帯びた瞳で私を見つめ、再び顔を近づけてくる。
今度は、さっきみたいな軽い触れるだけのキスじゃない。もっと、深く、熱い……。
ダメ、私、こんな免疫ない。心臓が爆発しちゃう。いや、でも嬉しい。限界社畜の枯れ果てた人生に、こんな奇跡みたいなご褒美があっていいの? いいよね?
でも、彼の顔が数センチの距離まで迫った時、私の中の『真面目な社畜のストッパー』が、無意識に作動してしまった。
「ラドスラフ、ダメ……ッ!」
私は、キュッと強く目を閉じ、身をよじって彼のキスを躱そうとした。
その瞬間。
無言の圧。
さっきまでの甘い空気とは打って変わって、まるで冷凍庫の中に放り込まれたかのような、絶対零度の空気が肌を刺した。
そして、鼻を突くのは、極上の紅茶の香りではなく……ローズマリーのような匂い。
私は恐る恐る、ゆっくりと目を開けた。
そこには、キスをしようと迫る美しい執事の顔などなかった。
代わりに私の視界を埋め尽くしていたのは。
「――夢は楽しかったかしら、未名」
真上から私を覗き込む、氷のように冷たい視線を向けた、金髪の御令嬢・アリア。
そして。
その隣で、兜の奥の暗闇からジッと私を見下ろす、黄金の巨大フルプレート騎士・メイアス。
二人揃って、私の寝顔(しかも熱烈なキスの夢を見ている最中の、おそらく非常にだらしない顔)を、至近距離から観察していたのである。
「――っっっっっ!? ひゃあぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
私はバネ仕掛けのおもちゃのように、ソファから跳ね起きた。
頭から被っていた毛布を勢いよく蹴り飛ばし、部屋の隅の壁際まで、フローリングの上をズザザザザーッ!と後ずさる。
「な、なななな、何!? なんで二人が私の顔を覗き込んでるんですか!?」
顔面から火が出るほど熱い。きっと今、私の顔は茹でダコのように真っ赤になっているはずだ。
パニックになる私をよそに、アリアは「ふふっ」と優雅に笑うと、スタスタと歩いてコタツテーブルの上座――定位置へと戻っていった。
メイアスもまた、何事もなかったかのように「ズシン、ズシン」と足音を立てて、部屋の端の定位置へと戻り、どっかとあぐらをかいて腕を組んだ。
「別に。あなたが珍しくうなされているようだったから、メイアスと一緒に様子を見てあげていたのよ」
アリアは、すでにテーブルの上に用意されていたティーカップを手に取り、優雅に口をつけた。
「それにしても……『ラドスラフ、ダメ!』とはね」
「~~~~~~ッ!!!」
私は、近くにあった柴犬クッションを顔に押し当て、その場でしゃがみ込んだ。
聞かれていた。完全に聞かれていた。しかも名前入りで。
いい歳したOLが、家に居候している若いイケメン執事とのロマンスの夢を見て、寝言で名前を呼んで悶絶している。
死にたい。今すぐ消滅したい。母の残したあの指輪の魔力で、ブラックホールか何かに吸い込まれたい。
「あなたの朝食の用意で、ラドスラフがキッチンにいて、聞いていなくて本当に良かったわね」
アリアは、クスクスと笑いながら追い打ちをかけてくる。
「もし彼があなたのあの寝言を聞いていたら、真面目な彼のことだから、恥ずかしさと申し訳なさで倒れていたはずよ。……ねえ、メイアス?」
『――はい』
無言であぐらをかきながらも、明らかに私をからかっている。こいつら、絶対に面白がっている。
平常心の二人の態度を見て、私はさらに気恥ずかしくなり、クッションに顔を埋めたまま「うぅぅ……」と呻き声を上げることしかできなかった。
「未名さん、お目覚めですか?」
その時、リビングのスライドドアが開き、エプロン姿のラドスラフが、朝食を乗せた大きなお盆を持って現れた。
いつ見ても非の打ち所のない、完璧な美貌。さっき夢の中で私にキスをしようとしていたあの顔だ。
彼を見た瞬間、私の心臓が再び別の意味で跳ね上がった。
「どうされたんですか? 顔が真っ赤ですが、熱でも?」
ラドスラフは、私が部屋の隅でクッションを抱えてうずくまっているのを見て、心配そうに駆け寄ろうとする。
「実は、未名がね……」
アリアが、意地悪な笑みを浮かべて口を開きかけた。
言われる! 言われたら終わる! 私の尊厳が、塵一つ残らず消え去る!
「わー!! わー!! わぁー!!」
私はクッションを放り投げ、大声を出しながら立ち上がった。
「朝食! 朝食を作ってくれたのねラドスラフさん!! ありがとう!! めちゃくちゃお腹空いてたの! いただきまーす!!」
私は、ラドスラフの持つお盆を半ばひったくるように受け取ると、コタツテーブルの上にガチャン!と乱暴に置き、ものすごい勢いで自分の席(座布団の上での正座)についた。
「えっ……あ、いえ、どういたしまして……」
突然の私のテンションの乱高下に、ラドスラフは目をパチクリとさせていたが、すぐに「お口に合うとよろしいのですが」と柔らかく微笑んだ。
アリアは、そんな私の必死の隠蔽工作を見て「クスッ」と上品に笑い、再び紅茶を口にした。
今日の朝食も、私の乏しい語彙力では表現できないほど絶品だった。
フワフワのオムレツには、何か複雑なスパイスとチーズが練り込まれており、付け合わせのサラダにかかっているドレッシングは、市販のものとは次元が違う爽やかさだった。
私は羞恥心を誤魔化すように、無我夢中で料理を胃に流し込んだ。
「……ふぅ。ごちそうさまでした」
食後のコーヒー(これもラドスラフが豆から挽いてくれた)を飲みながら、ようやく私は落ち着きを取り戻した。
窓の外を見ると、よく晴れた青空が広がっている。今日も慌ただしい休み(日曜)になりそうだ。
そんな私の平穏な空気を破るように、アリアがコトリとティーカップを置いた。
「実はね、未名」
アリアの表情から、先ほどまでのからかうような色が消え、真剣なものに変わっていた。
「もう、私たちは、元の世界に帰る目処が立ったのよ」
「……え?」
私は、コーヒーカップを持ったまま、呆然と彼女の顔を見つめた。
「だから、お別れはきちんと言っておこうと思ってね」
「えっ……嘘、昨日の今日で!?」
あまりにも突然の宣告だった。
「数日」と聞いていた。でも、まさか一夜明けた今日のお昼に帰るだなんて、全く心の準備ができていなかった。
「そうなんです」
ラドスラフが、私の驚きをフォローするように優しく口を開いた。
「昨夜、メイアスが夜通し街を回り、博物館以外にも、様々な場所から効率よく『フォスフォフィライト』の魔力を回収してくれまして。やはり、メイアスは有能ですからね」
褒められたメイアスは、部屋の端であぐらをかいたまま無言だった。




