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「ふぅ……っ、これで全部ね……」
私は額に滲んだ冷や汗を手の甲で拭いながら、床にへたり込んだ。
私の目の前には、高級ブランドのロゴがデカデカと印刷された、分厚い紙袋が複数。その中には、先ほどまで私の部屋のクローゼットから雪崩を起こしていた、推定億規模の万札の束が、ギッチリと詰め込まれている。
「ラドスラフさん……手伝っていただいて、本当にありがとうございます。私一人だったら、心臓が爆発して死んでたかもしれません……」
「いえ、お気になさらず。アリア様の命とはいえ、未名さんをこれほど驚かせてしまったのですから、これくらいは当然の償いです」
ラドスラフは、乱れた髪一つない完璧な微笑みで、優雅に頭を下げた。
なんてできた執事だろうか。彼がいてくれなかったら、私は今頃、札束の海を泳ぎながら発狂していたに違いない。
「とりあえず、これどうしましょう。こんな怪しいお金。銀行に預けるわけにもいかないし……」
私が紙袋を見つめながら途方に暮れていた、まさにその時だった。
――ピンポーン。
部屋の中に、無機質な玄関チャイムの音が鳴り響いた。
「ヒッ!?」
私の肩が、ビクゥッ! と大きく跳ねた。
休日の昼下がり。普段なら、宅配便か、あるいはしつこいネット回線の勧誘くらいしか来ない時間帯だ。
しかし、今の私の部屋には、出所不明の莫大な現金がある。
「き、来た……!!」
「未名さん?」
「マルサよ! 絶対に国税局査察部よ! 嗅ぎつけられたんだわ、私の部屋から異常な金運のオーラが放たれているのを……!」
「マルサ……とは、この国の税を徴収する騎士団のようなものでしょうか?」
「もっと怖い人たちです! お願い、ラドスラフさん、早くその紙袋を押し入れの奥底に! 見つかったら私、手錠かけられてニュースで報道されちゃうわ!」
私は半狂乱になりながら、ラドスラフに紙袋を押し付けた。
ラドスラフは「よく分かりませんが、承知いたしました」と涼しい顔で頷き、重たい紙袋を軽々と持ち上げると、奥の和室の押し入れへと素早く隠しに向かった。
その間に、私は這うようにしてリビングの壁にあるモニターへと向かう。
震える指で『通話』ボタンではなく『モニター確認』ボタンを押す。
もし、黒いスーツを着た怖い集団が立っていたら、私はこの窓から飛び降りるしかない(ここは四階だから骨折くらいで済むかもしれない)。
覚悟を決めて、小さな液晶画面を覗き込んだ。
「……え?」
画面に映っていたのは、黒服の集団ではなかった。
そこに立っていたのは、見知らぬ金髪の女性だった。
スキニーデニムに、シンプルな白いブラウス。そして、薄手のトレンチコートを羽織った、まるでファッション誌から抜け出してきたような、スタイルの良い外国人風の美女。
さらに驚くべきことに、その美女の隣には、リードに繋がれたクリーム色の長毛の大型犬が、お座りをして待機していたのだ。ゴールデンレトリバーをさらに一回り大きくしたような、モフモフの犬である。
「誰……? ここ、あんな大型のペット禁止のマンションなんだけど……」
勧誘? それとも、隣の住人が挨拶に来たとか?
いや、そもそもこのオートロックのマンションで、エントランスのインターホンを鳴らさずに、いきなり玄関前のチャイムを鳴らせるはずがない。
混乱する私がモニターの前で固まっていると、画面越しの美女が、不機嫌そうに眉をひそめ、カメラに向かって口を開いた。
『――アリアよ。早く開けなさいよ!』
「…………は?」
スピーカーから聞こえてきたのは、間違いなく、昨夜から私の部屋を占拠しているあの高飛車な令嬢、アリアの声だった。
でも、姿が全然違う。あのフリフリの豪華なドレスはどうした? そして、隣にいる巨大なモフモフ犬は一体……?
考えている余裕はなかった。「早く開けなさい」という声には、有無を言わさぬ絶対的な圧があった。
私は慌てて玄関へと走り、チェーンを外して、ガチャリと重い扉を開けた。
「遅いわよ、未名。何をやっていたの?」
ドアを開けるなり、金髪の美女がツカツカと上がり込んでくる。
その後ろから、巨大なモフモフ犬が、のっしのっしと堂々たる足取りでついてきた。
美女は私の前を通り過ぎる際、一瞬だけ立ち止まり、ふうと息を吐いた。
「……それにしても、この国の空気はなんだか息苦しいわね。魔魔力が全く感じられないわ」
そう文句を言いながら、彼女は靴を脱ぎ(ちゃんと揃えていた)、リビングへと入っていく。犬もそれに続いた。
私は呆然と立ち尽くし、開けっ放しになっていた玄関のドアを閉め、鍵とチェーンをしっかりと掛け直した。
そして、ゆっくりとリビングの方へ振り返る。
「えっと……アリア、さん……?」
私が恐る恐る声をかけると、リビングの真ん中に立っていた美女の姿が、ふわりと陽炎のように揺らいだ。
そして次の瞬間、そこには、昨夜と同じ、信じられないほど豪華なドレスを着飾ったアリアが立っていた。
さらに、彼女の隣にいたはずのクリーム色の大型犬の姿も揺らぎ――ガシャンッ! という重い金属音と共に、あの黄金のフルプレートアーマーに身を包んだ、巨大な騎士・メイアスへと姿を変えたのだ。
「ヒッ……!?」
私は声にならない悲鳴を上げ、後ずさった。
「ど、どうなってるんですか……!? さっきの女の人と、犬は……!」
アリアは、元の姿に戻ったことを気にする素振りも見せず、コタツテーブルの前に優雅に腰を下ろした。
「簡単な幻影魔法よ」
彼女は事もなげに言った。
「あのままの姿で外を歩けば、さすがに目立つでしょう? だから、この世界の住人に馴染むような姿を、魔法で作り出していただけよ」
「げ、幻影魔法……」
「それにしても、驚いたわ。この国では、誰一人として魔法耐性がないのね」
アリアは、つまらなそうに肩をすくめた。
「私たちが歩いていても、すれ違う人たちは皆、私が作り出した幻影を『ただの人間と犬』として完全に信じ切っていたわ。魔力による違和感に気づく者なんて、一人もいなかった。……この国、セキュリティ大丈夫なのかしら?」
セキュリティ。
それは、現代日本の警察機構や、防犯カメラ、顔認証システムといった物理的・電子的な防衛網のことだろう。しかし、彼女の言う『セキュリティ』は、魔法的な防壁や結界のことのようだ。
「ええと……一応、警察という組織がありまして、治安は守られているんですけど……」
私がしどろもどろに答えると、アリアの背後に控えていたメイアスが一歩前に出た。
『――アリア様。街を巡回していた、衛兵らしき者たちの装備を確認いたしました』
彼の重低音ボイスが響く。衛兵とは、おそらくお巡りさんたちのことだろう。
『彼らは、短い棍棒の他に、腰に小さな鉄砲を所持していました。金属の筒から火薬の力で鉛の弾を飛ばす、原始的な武器のようです』
「あら、そうなの?」
アリアは興味深そうに首を傾げた。
「魔石は使われていたかしら?」
『いいえ。魔力の気配は一切ありませんでした。純粋な物理兵器です。私が展開可能な障壁なら、賊が持っているような粗末な代物でしたので、何発撃たれようと傷一つ付かないでしょう。それに、あの程度の金属の塊なら、私の念動魔法で簡単に変質させられる代物でした。使い物にならなくするのは容易です』
「そう。だったら、万が一の時は、なんとかなるわね」
アリアは満足そうに微笑み、私の方を向いた。
「聞いたでしょう、未名。何も心配いらないわよ。誰も私たちの事を変だとは思っていないだろうから。少なくとも、あなたが余計な事を言わなければね」




