目覚める社畜と有能執事
「んん……いたたた……」
朝?
いや、窓から差し込む日差しの角度と、遮光カーテンの隙間から漏れる光の強さからして、もう昼に近い時間帯だろう。
私は、フローリングの上に敷いた無駄に毛立ちが良くて、洗うのに一苦労のラグマットの上で目を覚ました。ベッドまで辿り着く気力すらなく、ここで力尽きてしまったらしい。
全身の関節がバキバキと悲鳴を上げている。特に腰から背中にかけての痛みが深刻で、まるで一晩中、誰かに背中を踏みつけられていたかのような鈍痛が走った。
「あー……やってしまった」
重い体をなんとか起こし、壁掛け時計を見上げる。
時刻は、午前十一時三十五分。
絶望的な時間だが、ふとカレンダーを見て安堵の溜息を漏らした。そうだ、今日は土曜日。待ちに待った休日だ。
クライアントからの容赦ない催促メールも、上司からの理不尽なチャットも、今日は(多分)来ない。
「よかったぁ……休みだ……」
ラグマットの上でゴロゴロと転がりながら、私は昨夜の出来事をぼんやりと思い返していた。
深夜に帰宅した私の部屋に、豪華なドレスを着た令嬢と、完璧な容姿の執事。そして、SF映画みたいな金ピカの巨大なフルプレート騎士がいたこと。
彼らが異世界から来たとか、魔法を使って私のスマホを宙に浮かせたとか、そんなトンデモない光景。
「……ああ、変な夢を見てしまった」
私は足を交差させ、仰向けで腕を組んでウンウンと一人で頷き、自己完結した。
間違いない。連日の残業と睡眠不足、そして寝る前に飲んだ栄養ドリンクの過剰摂取が引き起こした、極めて解像度の高い明晰夢だったに違いない。
そうでなければ、私の部屋に、異世界ファンタジーの住人がホームステイしているなんていう、フィクション顔負けの状況になるはずがないのだ。
「本当に疲れてるんだな、私……。今日はもう、とことんダラダラしてやるわ」
もう一度目を閉じて、二度寝の至福を味わおうとした。
しかし、どうせならシャワーを浴びてスッキリしてから、出前でちょっと高いご飯でも頼んで、お風呂上がりに冷たい炭酸水を飲みながら、溜まりに溜まったサブスクの海外ドラマの続きを見よう。
うん、それがいい。完璧な休日の過ごし方だ。
そう決意して、ラグマットから立ち上がろうとした、その時だった。
トントントントン……。
ジュワァァァァ……。
「……ん?」
静まり返っているはずの部屋に、微かな音が響いた。
それは、明らかに私の部屋のキッチンから聞こえてくる音だった。
規則正しく包丁がまな板を叩く音。そして、何かを油で炒めている、食欲をそそる心地よい音。
さらには、私の胃袋を直接掴んで揺さぶるような、とてつもなく良い匂いが、廊下の向こうから漂ってきたのだ。
まさか。
私の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
今度こそ、空き巣? 泥棒? いや、どこの世界に、侵入した家で勝手に料理を始める泥棒がいるんだ。ビニール袋の音かもしれない。
だとしたら。
昨夜の光景は、夢ではなかった……? いやいや、待て私。
私は息を殺し、フローリングに這いつくばった。
見事な匍匐前進でリビングへと続くドアへと向かう。
そっと、本当にそっと、ドアを少しだけスライドさせ、キッチンの様子を覗き込んだ。
そこには。
「うそ……」
私のシステムキッチンで、見慣れない人物がフライパンを振るっていた。
漆黒の燕尾服に身を包み、銀色の髪に、信じられないほど見目麗しい男性。
夢だと思い込もうとしていた、あの執事――ラドスラフが、私の家のキッチンで、エプロン(どこから出したのか、フリル付きの可愛らしいやつ)をつけて、優雅に調理をしていたのだ。
あまりにも絵になる光景だった。
朝の光に照らされた彼の横顔は、彫刻のように美しく、手際よく調理を進める身のこなしは、一流ホテルのシェフも顔負けの洗練さだ。
私の鼻腔を、バターとニンニク、そして何かハーブのような芳醇な香りがくすぐった。
昨日から水と栄養ゼリーしか口にしていない私の胃袋が、その暴力的なまでに暴力的な匂いに反応し、「キュルルルゥゥゥゥ」と、この部屋中に響き渡るような盛大な音を鳴らしてしまった。
ピタッ、と。
ラドスラフの動きが止まった。
彼はゆっくりと振り返り、ドアの隙間から這いつくばって覗き込んでいる私と、バッチリ目が合った。
「あ……(やば)」
「ああ、おはようございます、未名さん。よくお休みになられていましたね」
彼は、フライパンを下ろすと、極上の微笑みを浮かべて私に会釈した。
その眩しすぎる笑顔と、見られてしまった恥ずかしさで、私は反射的に匍匐前進の姿勢から跳ね起き、その場で正座をした。
「お、おはようございます……」
「お部屋をお借りしているお礼に、朝食――いえ、時間的に昼食ですね。お食事を作らせていただきました。勝手にキッチンを使ってしまい、申し訳ありません。ですが、昨夜の未名さんのお顔色があまりにも優れなかったので、少しでも滋養のあるものをと……」
「あ、ああ……いえいえ、そんな。お気遣いどうも……」
なんていい人なんだ。社畜の顔色が死んでいることを見抜き、料理まで作ってくれるなんて。
いや、勝手にキッチンを使われている時点で不法侵入なのだが、この美貌と甘い声で言われると、全てを許してしまいそうになる。
「あの……」
私は周囲を見回した。
リビングには、彼の姿しかない。
「あの御令嬢と……大きな騎士の方は?」
「アリア様なら、メイアスを連れて少し街を見に行くとおっしゃって、朝早くお出かけになりました」
「……えっ?」
街を見に行く?
あの、フリフリの超豪華ドレスを着た令嬢と、怖い声で喋る、身長二メートル超えの金ピカフルプレート騎士が?
休日の、この平和な日本の街に!?
「だ、大丈夫なんですか、それ……」
「ご心配なく。メイアスには『絶対に目立たないように』と厳命してありますので。彼は優秀な騎士ですから、抜かりはないでしょう」
いや、あの巨体と金ピカの鎧でどうやって目立たないようにするんだ。透明化する魔法でも使えるのだろうか。
不安は尽きないが、今の私には彼らを止める術もないし、正直、考える気力もなかった。
「あ、あの……私は先にお風呂に入ってきてもいいですか?」
「ええ、もちろんです。料理が冷めないように、未名さんが上がられる時間に合わせて火入れを調整いたしますので。どうかゆっくりと、疲れを取ってきてください」
「あ、ありがとうございます……」
完璧だ。本物の執事だ。しかも超絶かっこいい。
ここは高級ホテルか何かだろうか。私は夢見心地のまま立ち上がり、洗面所へと向かった。
しかし、洗面所に入り、バスルームの扉を開けた瞬間、私の夢心地は一瞬で現実に引き戻された。
「……えっ?」
浴室の棚に並べてあった、私のバスアイテムたち。
頑張った自分へのご褒美として、ボーナスをはたいて買った、高級百貨店ブランドのオーガニックボディソープ。そして、美容院専売のトリートメント。
それらのボトルが、あからさまに軽くなっていたのだ。
というか、ボディソープに至っては、半分以上減っている。
「み、みんな使ったの!?」
声にならない絶望の叫びが浴室にこだました。
そりゃそうだ。三人もいれば使うだろう。特にあの巨大な騎士、表面積が私の三倍くらいあるじゃないか。全身を洗うのにどれだけポンプをプッシュしたんだ。ていうか、鎧の下はどうなってるんだ、あいつ。
「……まあ、いい。命があるだけマシだ」
私は自分に言い聞かせ、涙を堪えながら、わずかに残った高級ボディソープの泡で体を洗い、シャワーを浴びた。
お風呂上がり。
普段の休日なら、髪はボサボサ、スッピンにヨレヨレのTシャツとジャージで過ごすところだが、今はリビングにあのイケメン執事がいる。
いくら図太い限界社畜とはいえ、あの美貌の前にスッピンを晒すのは、女として、いや、人間としての尊厳に関わる気がした。
私は急いで洗面台の前に立ち、化粧水と乳液を叩き込み、BBクリームとパウダーで顔色を偽装し、眉毛だけはしっかりと描いた。唇には薄く色付きのリップを塗る。
髪は乾かす時間が惜しかったので、タオルをターバンのように頭に巻きつけたまま、洗面所を出た。
「お待たせしま――」
リビングのドアを開けた私の目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。




