奇妙な談義
「メイアス、降ろしなさい」
凛とした、しかし絶対的な権威を帯びた令嬢の声が響いた。
その一声で、巨大騎士――メイアスの動きがピタリと止まる。
「……はい」
メイアスは、乱暴に投げ捨てるようなことはせず、意外なほどゆっくりと、私をフローリングの上に降ろしてくれた。
足が床についた瞬間、私の膝は完全に笑っており、立っていることができなかった。
私は四つん這いになり、猫のような素早さで部屋の隅へと滑りながら這って逃げた。壁に背中を預け、ようやく少しだけ息を吹き返す。
「な、何なのよ、あなた達!!」
部屋の隅から、私は悲鳴のような声で叫んだ。
「け、警察を呼ぶわよ! 不法侵入! 銃刀法違反! あと、とにかく警察よ!!」
震える手で、コートのポケットからスマートフォンを引っ張り出す。
パスコードを打つ指が震えて何度もミスをしながらも、なんとか緊急通報画面を開く。
発信ボタンを押そうとした、まさにその瞬間だった。
巨大騎士メイアスが、私に向けて黄金の手甲をかざした。
すると、私の手の中にあったスマートフォンが、まるで目に見えない糸で引っ張られるように、フワリと宙に浮き上がったのだ。
「え……!?」
私の手から離れたスマホは、空中でスーッと移動し、メイアスの巨大な手のひらの中にスッポリと収まった。
「……………………」
私は、自分の手が空を切ったままの姿勢で、完全に固まった。
あんな離れた場所から、物理的な接触なしに物を奪うなんて。
それはもう、ファンタジーでしか見たことがない魔法だ。
「あ、ああ、あ……」
私の常識の壁が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
仕事のストレスだ。きっとそうだ。連日の徹夜とエナジードリンクの過剰摂取が、ついに私の脳にクリティカルヒットを与えたのだ。
私は壁際にしゃがみ込み、両膝をしっかりと抱え込んだ。
そして、前後にゆらゆらと舟を漕ぐように身体を揺らしながら、虚ろな目でブツブツと呟き始めた。
「これは夢だ。悪夢だ。寝れば治る。そうだ、これはプレゼン前のプレッシャーが見せている幻覚。私は今、会社のデスクで突っ伏して寝ているんだ。起きろ、名無川未名。起きて資料を作れ……納期が、納期が迫っている……」
現実逃避の極みである。私は完全に心を閉ざし、自己防衛本能の赴くままに狂った社畜の念仏を唱え続けていた。
「あの……驚かせてしまって、本当に申し訳ありません」
ふと、私の頭上から、極上のベルベットのように滑らかで、耳に心地よい男性の声が降ってきた。
ビクッとして顔を上げると、そこには、先ほどの銀髪の執事がしゃがみ込み、私の目線に合わせてくれていた。
彼は革の手袋を外した素手で、私の震える肩にそっと触れた。
「……っ」
その手は、驚くほど温かかった。
幻覚じゃない。確かな体温と、そこはかとなく漂う、高級な紅茶のような、あるいは日向に干した清潔なシーツのような、良い香りがした。
「どうか、落ち着いてください。私たちは、あなたに危害を加えるつもりは決してありません。我が主君も、護衛も、決して悪人ではありませんから」
真摯な瞳。長いまつ毛。整いすぎた顔立ち。
まるで宝石のように美しい薄紫色の瞳が、怯える私を優しく覗き込んでいる。
「だ、だって……」
「突然の無礼、平に容赦を。ですが、どうか私たちの話を、まずは聞いていただけませんか?」
ふわり、と彼が微笑んだ瞬間。
限界まで張り詰めていた私の心の糸が、別の意味でピンッと弾けた。
(……やだ。なにこの人、めちゃくちゃ顔がいい。ていうか、声もいい。優しすぎる。好きになりそう……)
何年もまともな恋愛から遠ざかり、上司の怒声とクライアントの嫌味しか聞いてこなかった枯れ果てたOLの心臓に、この超絶イケメンの至近距離での優しい微笑みは、破壊力が高すぎたのだ。
恐怖よりも、動悸方が勝ってしまったのだ。
「あ、あ、はい……」
すっかり毒気を抜かれた私は、コクコクと頷くことしかできなかった。
執事の彼がスッと立ち上がり、「さあ、こちらへ」と私に手を差し伸べてくれる。
私は、まるで王子様にエスコートされるシンデレラのような気分で彼の手を取り、フラフラと立ち上がった。
促されるままに、私は自分の部屋のコタツテーブルへと歩み寄り座った。
いや、座ったというか、気がつけば見事なまでの『正座』で着席していた。
テーブルを挟んで、優雅に微笑む美しい令嬢。左に控えるイケメン執事。そして部屋の隅で仁王立ちする金ピカの巨大騎士。
カオス極まりない状況だが、執事っぽい人に優しくされたことで、私の理性はなんとか再起動を果たした。
令嬢が、カップをコトリと置き、背筋をスッと目を開けた。
その仕草だけで、周囲の空気がピンと張り詰めるような、圧倒的な気品が漂う。
「突然押しかけてしまってごめんなさいね。改めて、自己紹介をさせてちょうだい」
彼女は、胸に手を当てて美しく、そして誇り高く名乗った。
「私の名前はアリア。アリア・フォン・ビスターク。ビスターク公爵家の長女よ」
公爵家。
もう完全に、そっち系の世界の住人確定である。
続いて、私の隣に立っていた執事も、胸に手を当て、美しい一礼をした。
「僕はラドスラフと申します。アリアお嬢様にお仕えする執事でございます」
「ああ、これは、ご丁寧に……」
二人のあまりにもしっかりとした、そして礼儀正しい自己紹介を受け、私の体に染み付いた『悲しき社畜の習性』が、無意識に発動してしまった。
私は正座のまま、背筋をピシッと伸ばし、両手を太ももの上に揃えて頭を下げた。
「わたくし、都内のITシステム開発会社で進行管理をしております、名無川、名無川 未名と申します。本日は遠路はるばるお越しいただき、誠にありがとうございます。本来であればこちらからご挨拶に伺うべきところを……ん?」
ペラペラと、口をついて出るビジネス定型文。
(なんで私、自分の部屋で、異世界人相手にガチガチにかしこまって名刺交換みたいな挨拶してんだろ……)
心の中で猛烈に自分をツッコミ、泣きそうになりながらも、私の口は止まらない。
「い、以後、お見知り置きを……」
深々と頭を下げた私を見て、アリアは「ふふっ」と上品に笑った。
「面白い方ね、ミナ。よろしく頼むわ」
「は、はい……恐縮です」
私は顔を上げ、まだ自己紹介をしていない最後の一人――部屋の隅に立つ、黄金のフルプレート騎士に視線を向けた。
アリアが、私の視線に気づいて彼を紹介する。
「さっきも言ったけれど、あっちが私の護衛のメイアスよ。少し不器用だけれど、悪気はないの」
護衛のメイアス。
名前を呼ばれた黄金の巨漢は、一歩前に出た。床が抜けるんじゃないだろうかと心配になる。
『――先ほどの非礼、詫びよう』
その声を聞いた瞬間、私は再び度肝を抜かれた。
兜の奥から響いてきたその声は、普通の肉声ではなかった。
機械的に加工されたような重低音。
普通に怖い。
私の平凡な限界社畜ライフは、今夜、意味も分からず、完全に終わりを告げたらしい。
私はコタツテーブルの上を向き、そっと天を仰いだ。




