深夜の社畜部屋
時計の針が深夜の二時を回った頃、私はようやく自分の城とも呼べるマンションの敷地へと足を踏み入れた。
春の夜風は心地よいはずなのに、今の私にとっては単に体温を奪うだけの鬱陶しい障害物でしかない。足取りは鉛のように重く、ヒールの音も本来の「カツン、カツン」という軽快なものではなく、「ズリッ、ズリッ」とアスファルトを引きずるような情けない音に変わっていた。
「あー……死ぬ。マジで、死ぬ……」
乾いた唇から漏れ出たのは、この一週間で何百回と吐き出したであろう呪詛の言葉だ。
私の名前は、名無川 未名。年齢は……まあ、社会の理不尽さ、辛さ、そして「頑張れば報われる」という言葉が大人へのファンタジーに過ぎないという真実を、骨の髄まで理解している程度のお年頃である。
いわゆる、限界社畜OLというやつだ。
今日の退社時間も、日付が変わった後だった。クライアントの無茶振り、上司の責任逃れ、後輩のフォロー。全てが私の両肩に重くのしかかり、心身共にボロボロの雑巾のように絞り尽くされていた。今の私には、もはや一滴の気力も残っていない。ただひたすらに、あの柔らかいベッドにダイブして、泥のように眠りたい。それだけが、私の生きるモチベーションだった。
重い足を引きずりながら、エントランスへと向かう。
私が住んでいるこのマンションは、給料の大部分を家賃として持っていかれる代わりに、セキュリティだけは無駄に、いや、過剰なほどに高い。一人暮らしの女にとって、安全はお金で買うしかないのだ。
入り口のドアを抜け、エントランスの自動回転ドアを、亡霊のようにふらふらと通り抜ける。
続いて、オートロックの顔認証システムを備えたガラスドアの前へ。
端末のカメラを見つめると、ピッと無機質な電子音が鳴り、ウィーンと静かにドアが開いた。
「……よかった、今日の死んだ魚みたいな顔でも、ちゃんと私だって認識してくれた」
疲労のあまり、すっぴん以上に生気のない顔面になっていたため、最悪エラーで弾かれるのではないかと危惧していたが、どうやらこのマンションの最新鋭システムは優秀らしい。
エレベーターに乗り込み、自分の階で降りる。
ふかふかの絨毯が敷かれた内廊下を進み、ようやく自分の部屋の前に辿り着いた。
重いレザートートバッグの中で、スマートキーがカチッと小さな音を立てる。バッグに手を入れる気力すら惜しい今の私にとって、近づくだけで解錠されるこのシステムは本当に神だ。
ガチャリ、と重厚なドアのロックが外れる音が響く。
ドアノブを引き、重い扉を開けて、ようやく自分のサンクチュアリへと足を踏み入れた。
「……ん?」
靴を脱ごうとした瞬間、私は強烈な違和感に襲われた。
帰宅してドアを開けたなら、まず真っ暗な玄関が私を迎えるはずだ。そして、人感センサーが反応して、パッと玄関の明かりが点く。それがいつものルーティンである。
しかし、今は違った。
玄関の明かりは、すでに点いていた。
いや、玄関だけではない。廊下の奥、リビングへと続くすりガラスのドアの向こう側から、煌々と明かりが漏れ出ているのだ。
「え……? 私、電気つけっぱなしで仕事行ったっけ……?」
いや、あり得ない。今朝は確かに、すべての電源を落としてから家を出たはずだ。スマート家電のアプリでも、外出時には全てオフになるように設定している。
一気に眠気が吹き飛び、代わりに冷たい汗が背筋を伝い落ちた。
空き巣? 泥棒?
いやいや、ここは顔認証とオートロックを備えた超高セキュリティマンションだ。部外者がそう簡単に侵入できるはずがない。
じゃあ、なに? 幽霊? それとも、ついに私の脳が過労でイカれて、存在しないはずの光の幻覚を見せている?
心臓がバクバクと嫌な音を立てて早鐘を打つ。
私は、震える手でゆっくりと靴を脱ぎながら、玄関に備え付けられているシューズキャビネットに手をついた。
そこには、私が帰宅の癒やしとして設置している、小さな水槽がある。
水草の間を、グッピーのアノとルルが泳いでいる。
アノ、ルル。今日も仲良しね。
水槽の光に照らされて、二匹はいつも通り優雅に泳いでいた。
彼らの平和な姿を見る限り、部屋の中でポルターガイスト現象が起きているわけでも、空き巣が暴れ回ったわけでもなさそうだ。
私は靴を完全に脱ぎ終えると、音を立てないようにフローリングの上に足を下ろした。
そして、バッグの中から催涙スプレー。
物騒な世の中だ。万が一のためにと、強力なやつを買っておいたのだ。まさか、自分の部屋の中で使う日が来るとは夢にも思わなかったが。
スプレーの安全ピンをたぶん外し、いつでも噴射できるように構えながら、私は抜き足差し足で廊下を進んだ。
一歩、また一歩。
リビングに近づくにつれて、信じられないことに、微かな『話し声』が聞こえてきた。
泥棒がわざわざ電気をつけて、リビングでくつろぎながら談笑するだろうか? いや、なにがあってもおかしくない世の中だ。
しかし、ますます状況が読めない。
そっと、リビングのドアに張り付き、聞き耳を立てる。
声は、二人。女性の声と、男性の声だ。
どちらも、非常に落ち着いていて、どこか上品な響きがあった。
『――ですから、お嬢様。王太子殿下のお言葉など、気になさる必要はありません』
『ええ、分かっているわ。婚約破棄を突きつけられた時は驚いたけれど……むしろ、あのような狭い世界から解放されて、清々しているくらいよ』
……はい?
王太子?
婚約破棄?
お嬢様?
私の脳みそが、完全にフリーズした。
えっと、なんだろう。誰かが私の部屋に侵入して、勝手にテレビをつけて、最近流行りの異世界悪役令嬢モノでも見ているのだろうか?
いや、違う。テレビのスピーカーから発せられる音じゃない。明らかに、肉声だ。すぐドアの向こう側で、生身の人間が会話している声だ。
「まさか……ね……」
混乱と恐怖、そして「私の睡眠時間を奪うな」という限界社畜特有の怒りが混ざり合い、私の理性は限界を突破した。
確認してやる。そこにいるのが泥棒だろうが不法侵入者だろうが、私のオアシスを邪魔する奴は、この催涙スプレーの餌食にしてやるんだから!
少しドアを開く。
「嘘でしょ!?」
私は驚きのあまり勢いよく、バンッ! とリビングのドアを開け放ってしまった。
私の目に飛び込んできたのは、あまりにも予想外すぎる、というか、私の常識を一瞬でクラッシュさせるような光景だった。
「あ……」
声が、喉の奥でひゅっと詰まる。
そこにいたのは、覆面を被った泥棒ではなかった。
私の部屋のど真ん中。
今の季節は春なので、こたつ布団はとっくに片付けられ、単なる低いローテーブルとして使われている私の愛用のコタツテーブル。
その質素なテーブルを挟んで、二人の人物が向かい合って座っていたのだ。
一人は女性。
乙女ゲームや西洋の恋愛小説の挿絵からそのまま抜け出してきたかのような、信じられないほど豪華で美しいドレスを着飾った、金髪の令嬢。フリルとレースがふんだんに使われたそのドレスは、私の部屋の白い、黒猫シルエットラグマットの上にはあまりにも不釣り合いだった。
もう一人は男性。
漆黒の燕尾服を身に纏い、白い手袋をはめた、絵に描いたような見目麗しい若い執事。銀色の髪をきちんと撫でつけ、姿勢良く正座……ではなく、優雅に膝を折って座っている。
「…………へ?」
催涙スプレーを構えたまま、私は完全に石化した。
過労が見せる幻覚としては、あまりにも解像度が高すぎる。ドレスの布地の質感も、執事の服の皺ひとつない仕立ても、本物にしか見えない。
私の闖入に対し、二人はパニックになるどころか、驚く素振りすら見せなかった。
ドレスの令嬢は、私の来客用のティーカップを優雅に両手で持ち、紅茶を一口すすると、ゆっくりとこちらを向いた。
「あら、おかえりなさい。お部屋、借りていますわ」
まるで「ちょっとそこの椅子借りたわよ」くらいの、あまりにも堂々とした、そして上品なトーンでの宣言。
それに続くように、執事の男性も、穏やかな微笑みを浮かべて深く頭を下げた。
「ああ、おかえりなさいませ。夜遅くまでのお仕事、お疲れ様でございます」
「…………はい?」
おかえりなさい? お部屋借りてますわ?
なんだこの状況。ここは私の部屋だ。なんで異世界ファンタジーの住人みたいなコスプレ集団に「おかえり」と言われているんだ。
「な、ななな……」
私が言葉にならない声を漏らした、その時だった。
ズォン、と。
部屋の隅、観葉植物の陰になっていたスペースから、巨大な影が迫った。
「へ……?」
見上げると、そこには、全身を眩いばかりの『黄金のフルプレートアーマー』に身を包んだ、規格外の巨漢が立っていたのだ。
背丈は優に二メートルを超え、横幅は力士並み。いや、巨大な業務冷蔵庫に手足が生えたと言った方が正確かもしれない。金属の装甲が擦れ合う、ガシャン、ガシャンという重々しい音が、私の部屋に響き渡る。
「ヒッ……!?」
黄金の騎士は、驚異的なスピードで私との距離を詰めると、両手で私の脇を掴んだ。
まるでUFOキャッチャーのぬいぐるみでも持ち上げるかのように、私の身体が軽々と宙に浮く。
「お、おた、お助け……」
首が締まるわけではないが、足が完全に床から離れ、私は恐怖で抵抗する力すら湧いてこなかった。手から催涙スプレーがポロリと床に落ちて転がる。
空中でジタバタと手足を動かしながら、私は情けなく命乞いをした。
ああ、死ぬ。私、今日、自分の部屋で、謎の金ピカ巨大騎士に骨を握り潰されて死ぬんだ。せめて労災降りるかな、いや、通勤中じゃないから無理か……などと、走馬灯のようにどうでもいい社畜的思考が脳裏を駆け巡る。




