第10話 皇帝の書物
(今日は朝から、ザット先輩がいつになく張り切っている……)
本当は良いことなのだろうが、ミラスは新人として働き始めてから、怠惰で文句しか言わないザットが張り切っていることを怪しく思っていた。そして、それが何故だったのか、昼前になり分かる。
「全員、整列! これより皇帝陛下がお越しになられる。そのままで待機!」
所長は短くそれだけ言うと、自身は出迎えに向かった。
(ザット先輩は知っていたのか……)
ミラスが「やはりそんなことか」と思っていると、職員用の門の方が慌ただしくなり、間もなく皇帝の一団と思われる集団が見えた。
「皇帝陛下、このような場によくお越しいただきました。一同、礼!」
所長の声と共に、全員胸に手を当て礼をする。
「今日は所用があって来た。国のあぶれ者たちの世話、誠にご苦労!」
軍人上がりの皇帝らしく、それだけを言うと皇帝は所長を連れて去って行く。しかし、すぐに所長が何かを皇帝に言い振り向いた。
「ザット、詳しい案内を頼む」
ここでの勤務年数が長く、媚びを売ることには長けているザットは、指名を受けて得意げな表情をして走って行く。
「皇帝陛下、このザットは長年ここで働いている者ですので、ご案内の役に立つかと思います」
「そうか」
そう言うと、一同は最下層までやってきた。そこで、所長とザットはその場で待機を命じられる。皇帝ダルーガと付き人のドルク・ジーカのみが奥の牢へと進んでいった。
ここのところ、前皇帝ウィズダブラ・アラキスは、トアが運んで来た寝具に寝転がることを至福の喜びとしていた。皇帝だった頃は、執務室で仕事をしたり客人と会ったり、時間があると民の様子を見に視察を行ったりと、常に忙しくしていた。
(あの頃もこのように上等な寝具が用意されていたというのに、当たり前に使い、他のことに夢中で気にも留めなかった。衣食住ということの大切さが身に染みて分かる……)
寝具の有難みを噛みしめながら横になっていると、珍しく複数の足音が近づいてくるのが聞こえ、起き上がる。その足音はウィズダブラの牢の前で止まった。
「おい、ウィズダブラ・アラキス」
「その声は忘れもしない」と言えたら良かったのだが、もう十年ほども閉じ込められているウィズダブラは、誰の声か分からなかった。
「何でしょうか?」
「ふん、白々しい! 俺がお前の代わりに帝国を強くしてやったぞ」
「……ああ、ダルーガか」
「まだ、しぶとく生きているとはな。とはいえ、今回は聞くことが出来たから、ただ飯を食わせていた甲斐もあったか。ははは!」
「……」
「お前に聞きたいことは、この本のことだ。これは何だ?」
「よく見えぬ」
「こっちに来て見てみろ」
「悪いが、足腰が弱っておってな」
「チッ! ほら、これで見られるだろう!」
そう言うと、ダルーガは本を牢の隙間から放って寄越した。
それを見たウィズダブラは、予想はしていたが「やはりこの本だったか」と思う。
「さて、見たような気がするが、なにせ十年もここにいると記憶もあやふやだ」
「ふん、耄碌じじいが! 明日までに思い出せ。でないとお前の娘を殺してやる」
そう吐き捨てるように言うと、ダルーガは去って行った。
牢の中でウィズダブラは焦っていた。
(フローリアは生きているのだな、良かった……しかし、この本について語れば、逆にフローリアをも危険に晒すやもしれぬ。しかし、話さなくても危険が……どうしたら……)
皺の多い手で目元を多い、ウィズダブラは悩んでいた。その時——。
「どうしたの? 頭痛い?」
突然、背後の暗がりから声がして、ウィズダブラは心臓がドクンと跳ねるほど驚いた。そして、それがいつもの子供だと思うと「ふー」と息を吐き出す。他に誰もいないのを確認してウィズダブラは口を開いた。
「いや、頭は大丈夫だ。この本なんだが……」
そう言って本を背後に渡しながらふと思う。
(いっそのことこの不思議な子に託してしまおうか……ははは、儂も随分追い詰められておるようだ)
いやいやと考え直しながら、その本を渡す。
「へぇ、こんな本があったんだね。暗くてよく見えないから気が付かなかった……」
「そうなのだ。だが、これは誰も……」
「あっ、これももしかして賢者の本?? 前に、ルルドの王様に見せてもらったメモ書きに書き方が似てる!」
「え……」
「ほら、この魔法陣とか……あれ、この本は日記? 自伝? みたいだね。もしかして賢者自身のことが書いてあるのかな」
「読めるのか??!!」
突然、振り向いた老人に肩を掴まれ、トアは驚く。
「えっ? あ、うん、字は読めるよ? おじいさん、読めないの?」
「いや、実はな、その本は普通、白紙にしか見えないのだ」
「え……普通に色々書いてあるよ……」
「そなた、名前は?」
「トア」
「ちょっと、こちらに来て、姿を見せてくれぬか?」
「うん、いいよ」
そう言うと、トアは奥の暗がりから出て、牢の格子近くのわずかだが人が認識できる明るさのある場所に立つ。すると——。
「おお、おお、なんということだ……フローリア……フローリアが……」
そう言うと、老人は泣き崩れてしまった。
トアはびっくりして急いで駆け寄る。
「ごめんね、おじいさん、何かびっくりさせた??」
「違う……違うのだ……」
自分の娘フローリアの幼い頃にそっくりなトアの顔を見たウィズダブラは、トアがこの本を読めることからも、ある考えに至っていた。しかし、何事も思慮深いウィズダブラは、憶測で語ることは止めたのだった。
涙を湛えたウィズダブラの眼差しは、静かに深い愛情を宿しトアを見ていた。




