第1話 幻なのか……
その日もバール帝国の城の地下牢の奥で目覚めたトーマス・ウェスリッドは、まだ自分が夢の中にいるのか、それとも、ついに感覚がおかしくなってしまったのか、しばらく思案していた。というのも、目覚めたと思ってから、ここ何年もずっと嗅いだことのない美味しそうなスープの香りがしていたのだ。
(しかし、そんなはずはない。ついに私もおかしくなったのか。まあ、こんなに美味しい香りが嗅げるのなら、おかしくなったことにも感謝するか)
などと、自虐的なことを考える。とにかく生き延びるために、いつものように足で食事の器を探すと、思ったよりも近くに器の感触がして驚いた。そろそろと地面の器へ鎖が繋がれた両手を伸ばして器に触れると、さっと離してしまう。
(あ、温かい……?)
もう一度触ってみるが、本当に温かく感じる。がっつきたい衝動をなんとか抑えてゆっくり口に含む——。それは、昔、毎日食べていたのと同じスープの味がした。温かな湯気を鼻に感じ、スープが胃に染み渡るのを感じて初めて、トーマスはこれが現実なのだと思えた。
(しかしなぜだろう。今はまだ食事の時間ではないと思ったが?)
時間を示す物は何もない暗闇の中で、それでもなんとなく食事の時間は一定で、その感覚は身についていた為、トーマスは首を傾げる。
その感覚は正しかったようで、しばらくするといつもの牢屋番の足音が響き、無造作に食事が配られる音がし始めた。トーマスは咄嗟に器を自らの後ろへと隠す。直観だが、知られてはいけないような気がしたのだ。
しばらくして、トーマスの独房に食事を置いた係りの男は、少し立ち止まったが、すぐに立ち去って行ったので内心胸をなでおろす。トーマスは慣れてしまったが、独房には異臭が漂っているはずなので、早く立ち去りたいのだろう。地下牢の臭いを嗅がないようにマスクをしたうえ口で呼吸をしているお陰で、トーマスの所にある温かいスープの匂いがバレずに済んだのは幸いだった。
同じことは、トーマス・ウェスリッドの一つ挟んで隣の牢にいる、旧アラキス帝国皇帝のウィズダブラ・アラキスにも起こっていた。ウィズダブラ・アラキスは歳のせいもあり、トーマスよりも早起きだった為、その異変にもっと早くから気付くことができた。
その気配は突然近くに現れたのだ。地下牢のため、人が来る以外では普段、風すら吹かないが、突然、自分の周りに風を感じて驚いた。一瞬「暗殺者でも来たのか」と思ったウィズダブラだったが、そもそも牢が開いた形跡もないのに、それはないと思い直す。
次に感じたのは、ふわっと漂う良い香りだった。「良い香り」など、ここ何年も嗅いでいない為、何なのか思い出すのに時間がかかったが、スープだと気付いた。
近くを探すと器らしきものがあったが、温かいことに驚き手を放した。まだ人の気配がしていたので「誰か、いるのか?」と尋ねようとしたが、しばらく使っていない喉からはすぐに声が出なかった。そうしているうちに、気配は消えてしまった。
一瞬、毒を疑ったウィズダブラだったが、もう今更恐れることは何もないと思い、スープを口に運んだ。
(はぁ……スープとは、こういう物だったな……胃にしみわたる)
普段、冷めて何の香りもしない薄い、まるで水のようなものを飲んでいる為、一杯のスープがこんなにも美味しいものだったと思い出し、一口一口をじっくり味わう。
(しかし、不思議だ。気配は突然現れて、突然消えた。特に何の要求もない……夢なのだろうか?)
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フロイスに協力するようになってから、何度か物資の運搬に協力していたトアだったが、フロイスの兄や前皇帝なども捕らわれていて、フロイスやハシルが案じていることを知り、スープを運ぶことにしたのだった。フロイスから姿絵などをもらい遠視で探したが、かなり時間がかかった。というのも、地下牢の人々は皆、髪も髭も伸びていて、姿絵は役に立たなかったからだ。ただ、フロイスも前皇帝も重要人物のため、地下深くにいるだろうと推測された。週に二度ほど、日光を浴びる時間が設けられているようで、その際に髪や瞳の色を見て、本人たちをやっと特定できた。
「お兄さんも、前皇帝も生きていたよ。ただ……かなりひどい場所だった。臭いとかも……」
トアの報告を魔法学校の自室で聞いたフロイスは、トアの手を握り感謝する。
「トア、どうも有難う……そうか、やはり兄上は生きていたのか……そんな危険な場所に行かせてしまってすまない」
「大丈夫だよ、私は飛べるから問題ないし、私が行くって言ったんだし。でも、あんな所に何年もいるなんて……連れて来ようと思えば、来られるけれど、どうする?」
「……いや、きちんと計画するまで待とうと思う。二人を連れて来るのは、トアなら簡単なことだろうけど、それに気づかれたら、他の者たちや家族に危険が及ぶだろう。捕らえられている前皇帝派の者たちは、沢山いるし、その家族まで考えると……きっとウィズダブラ皇帝や兄上も自分たちだけ助かることは望まない。そういう人たちだから……」
「うん、分かった。確かに大勢助けるとしたら計画が必要だね。じゃあ、とりあえず今は食事のお届けで協力するね」
「ありがとう……」
フロイスはトアの協力に深く感謝し、救出に向けて計画を練るのだった。




