二十五、波乱の幕開け
その日の夜は夢を見た。
和室に敷かれた布団に潜り、寝る時くらいはと頼んで魔物の姿に戻ってもらったシロを抱え、久しぶりのふかふかを堪能しながらぐっすりと眠ったはずなのにそれは多分悪夢だった。
暗く冷たい空間に独り。こぽこぽと泡の音がするから水の中だとは気付いたけれど見上げても光は一筋も無い。
あまりにも静かで、何もなくて、寂しくて。だから魔力の感じる自分の内側へと意識を向けるために私は目を閉じた。
誰でもいい。誰でもいいから一緒にいてくれないかと、そんなことを思いながら。
夢から覚めて目を開けると、枕元には亀がいた。
「…………は?」
琥珀色の甲羅、魚のヒレにも似た手足は鱗模様が見事である。大きさはちょうど私の手のひらと同じくらいか。無防備に投げ出された頭はこちらを向いており眠っているのが目は閉じられている。
「え、いつの間に……」
「どうかしたのか」
魔力も気配も感じなかった。今も魔力感知には全く反応がない。戸惑う私に気付いてもぞもぞと布団から出てきた魔物姿のシロが私と同じような反応をしているから幻覚ではないことはわかる。つまり、明らかに異常事態だった。
「シンディ!」
「ん、エル……?」
次の瞬間には飛び起きて、同じ部屋に敷いた布団に寝ていたシンディに声をかけていた。
半分寝たままゆるりと体を起こした彼女は着物から着替えた浴衣という寝巻き姿で、着崩れてだいぶ露出が多くなっていたけど私はそれどころではなかった。
「こ、これ、見える……?」
「んん……亀、ですね。どこかで捕まえてきたのですか? ふふ、エルが楽しそうだとディも嬉しいです……」
「寝ぼけてるね!?」
いや、しかし。シンディが危険を感じていないのなら少なくとも敵ではないのかもしれない。いや、それ以前に私やシロが今の今まで気付かなかったことが大問題なのだけど。
敵ではないがただの亀でもない。今わかるのはそれだけだ。
「——何かあったのか!」
不意にスパンと音を立てて部屋の襖が開かれた瞬間、私はそこに立つダットの顔めがけて瞬時に枕を投げ付けていた。もちろん露出の多い今のシンディや魔物姿のシロを隣の部屋にいる奴らに見せないためである。咄嗟にその判断ができただけ一応私はまだ冷静だった。襖を閉めることも忘れていない。
「騒がしくしてごめん。少し寝ぼけただけだから」
「そ、そうか。こっちこそ声もかけずに戸を開けて悪かった……」
戸の向こうで倒れたダットを心配する声が幾つか聞こえたけれど、それは後で謝ろうと決めて私は自分の布団の上に戻った。
警戒しているのか羽が膨らんで更にふかふかになったシロと、ようやく覚醒したシンディが並んでそれを見下ろしている。二人の視線を浴びた亀は未だに眠ったままで、ピクリとも動かないから生きているのかすら怪しくなってきた。
「こんな綺麗な亀は見たことがありませんからおそらく魔物、ですよね? 全く動きませんが……エルが連れてきたわけではないのですか?」
「多分魔物だと思うけど……起きたらここに居たんだ。私もシロも覚えはないよ」
魔力も気配も感じない。だからこそ私たちは自分の目で直接その姿を捉えるまで気が付かなかったのだ。
私はまだしもシロの感覚を完全に掻い潜る奴がいる。その事実による衝撃はかなり大きい。
しかし、本当にそんな奴がいるとすれば。それはシロと同格の存在か、それとも……。
「それにしても昨日の今日で亀か。まさかこれが双亀の片割れだったりして」
逸話では大亀と知られているが、幻獣を含めた力ある魔物たちは自分の姿すら偽ることが可能だと私は知っている。先程見た夢だって今までに何度か魔力に宿った記憶を見たのと同じ原理だったかもしれない。
だとすればあの夢はこの亀の記憶。あれはどこまでも寂しい記憶だった。
「双亀、ですか?」
「うん。アズミから聞いたお伽話に登場する双子の魔物は、分裂した亀の幻獣かもしれないって。そんな話を昨日シロとしたんだ」
私の言葉に驚くシンディを横目に、全く動きのない亀に焦れてつい指の先で甲羅をつついてみる。硬いけれど石とはまた違ったほんの少し弾力を感じる質感だ。触れるということは確かに実体はある。ならば次は生きているのか否か。
扉をノックするように軽くコツコツと甲羅を叩いてみると、閉じられていた目が突然パチリと開くから思わず驚いて私は手を引っ込めていた。
「ン、ンン……もう朝か……」
「おい、お前」
「あっ、ちょっと、シロ」
子供っぽい声で人間の言葉を喋っている。それも衝撃だったがそれよりも、目を覚ました亀の視界を塞ぐようにシロがズイッと顔を寄せたので私にはその亀が一瞬で硬直したように見えた。
「やはり俺を知っているな?」
「ぴ、」
「何が目的で入り込んできた? 返答によっては——」
「ぴ、ぴええぇぇええええ!!!!」
突然響き渡った笛の音のような泣き声。
あまりの声量に思わず耳を塞いだ私の髪に縮んだシロが飛び込んでくる気配がした。どうやらシロにも苦手なものはあるらしい。
自分で仕掛けたのになと私が苦笑している間に、泣き続けている亀はシンディの手の中に収まっていた。
「大丈夫、大丈夫ですよ。怖いものは何もありません」
「ぴえぇ……」
鱗模様のツルリとした頭を指先で撫でる。そんなシンディの様子はまるで子をあやす母親のようでもあって、けれどあやされているのが小亀というのがなんとも不思議な絵面である。
そうして次第に亀の泣き声は落ち着き部屋の中も静かになったところで、おずおずと再び襖が開けられる気配がした。
「流石に心配になるんだが……」
「そりゃそうだよね」
今度は追い返すことはせずに入ってくるダットを迎え入れる。その後ろから何事かとこちらを覗き込むルトやアズミたちにも隠せるものではないと悟って、亀のことはこの後全員で話し合うことにした。




