十七、龍の餌場
四日目の朝にそれは突然やってきた。
ガコンと船が何かにぶつかったような軽い衝撃を体に感じたのだ。その時は近くに魔物の気配も無く完全に気を抜いていた私は体がほんの少し傾いて、けれど倒れることはなく元の体勢に戻る。
本当にそれだけだったので私は気にも止めなかったのだけど彼らにとっては違ったらしい。すぐに船内からバタバタと駆けてくる足音が複数聞こえてきたから正直少し驚いてしまった。どうやら見逃してはいけないものだったようだ。
見れば出てきたのは操帆手の五人である。サイ、シダ、ゴゴツの屈強な方の三人はアズミの指示を待つことなく付与魔術を駆使して帆をたたみ始め、宴でシンディと飲み比べをしていた残りの二人は私たちもいる舵輪の側までやってきた。
気弱そうな細身の青年ミロクと、長い黒髪で顔が覆われた年齢不詳の男ナオナキ。こちらの二人はクラーケンが出た時に重力軽減を付与して船を軽くしていた者たちである。
ミロクとナオナキが揃えば前置きも無くアズミが状況を話し始めるから、近くにいた私とシロも自然と話を聞くことになった。
「予定通り本船はこのまま龍の餌場に入る。本日の回りは東の大渦だ。そのためミロクは船首へ、ナオナキは船尾へ。配置に付き次第各自作業に入るように」
「は、はい! 了解です……!」
「うっす」
緊張感を漂わせるミロクと、どこか緩い雰囲気のナオナキはそれぞれ返事をしてから言われた通りに船の前後に別れて駆けていく。舵輪を握るアズミの顔も更に影が落ち今まで以上に集中し始めたことが見るからに伝わってきて、声をかけていいか悩む私の側にやって来たのは護衛のカルディスだ。
「ここからはかなり船が揺れる。海に投げ出されたくなけりゃ船内に入るか何かに捕まっていた方がいいぞ」
「そんなにか。というか龍の餌場って? 東の大渦とも言っていたな?」
「ああ、トウコク周辺の特殊な海流のことを船乗りは龍の餌場と呼んでいるんだ。日や時間帯によっても流れは大きく変わるそうだが今は東回りで突発的な大渦が各所で発生する状態。アズミが言っていたのはそれだな」
先程感じた軽い衝撃は海流が変わった証拠だとカルディスは言う。なるほどそれで操帆手たちが一斉に甲板に出て来たのだな。
ここからは風には頼れない。だから帆は全てたたんで魔術の力だけで海流に乗り海を進む。航海士の腕の見せ所だ。
そんな龍の餌場には魔物も生息していないため、護衛の必要もなくカルディスは自分の出番はないからとこちらへやって来たらしい。船の縁に腕をかけて海を眺める男はどこか楽しげだった。
「ほら、見てみろよ」
言われて立ち上がった私も縁に捕まって海を見た。
すると穏やかだった海の様子はいつに間にか様変わりしていて、掻き混ぜられて細かく泡立った白い波が複雑な海流を目にも見える形で浮かび上がらせているのがわかる。場所によって方向の違う長くうねった海流だ。
それはまるで果てしなく長い何かの生き物のようにも見えて、ふと脳裏を過ったのはダンジョンで戦った青く美しいドラゴンの姿。正確に言えばドラゴンと龍は同じ系統の別の魔物なのだけど。私はまだ本物の龍を見たことがないので真っ先に思い浮かべるのがそれだっただけだ。
「餌場、か」
「ああ。この海域はその都度正しい海流を選んで船への負担を減らしながら進むんだ。それができなきゃ船が砕けて海流に飲まれるだけ。まさに餌場ってわけだ」
そんな複雑な海流を読むのが航海士の仕事である。
海から舵輪の方へと視線を戻すと顔に深い影を落としたアズミが怖いくらいに目をギラつかせながら真っ直ぐに前だけを睨みつけていた。彼の手元の舵輪は細かく操作され、時折勢いよく回されて、その度に船にガクンと衝撃が走る。
足元の青い床は常に薄らと光っていた。魔力感知で見てみるとそこからアズミの魔力が船の内部に行き渡っているのがわかる。おそらく私が剣を強化し巨大な大剣を作り上げるのと同じ要領だ。私はシロの魔力があって初めて一瞬だけできたことなのに、アズミは自前の魔力で長時間それをやってのけている。それもこの大型の木造船を丸ごと。本当に凄い奴だ。
それからアズミが舵輪を操作する動きは次第に早くなっていった。
船の前後に散ったミロクとナオナキ、それからそれぞれのマストの根本で留まっている屈強な三人組も船に触れて幾つかの付与魔術を使っている。こちらは重力軽減はもちろんだが木材を保護する役割が特に強そうだ。
船を操る要はもちろんアズミで間違いはないのだけど、それでも一人で全てを完結させているわけではなくて。船員同士の信頼と連携があるからこそ船は動くのだと今日までに学んだ気がするよ。
「お、っと」
ぐらり。急激に舵が切られて船がガクンと揺れる。
捕まっていても不安定な足場に確かにこれは揺れるな、なんて呑気に考えていた時だ。
ぐわんと船が傾く勢いで大きく揺れた瞬間、体に感じた浮遊感。
「……へ?」
気付けば視界いっぱいに澄んだ青空が広がっていて思わず変な声が出た。子供の軽い体は大きな揺れで簡単に投げ出されるのだなとこの時になってようやく気付く。
海に落ちたところで死にはしない私だけど、これだけの海流の中に飛び込めばこの船に戻って来られるかは正直怪しかった。
カルディスに注意されたばかりなのにと自分の迂闊さに呆れていると、突然両手を掴まれる感覚があってそのまま船の側面に背中を軽く打ちつけて止まる。痛いのは背中ではなく向けられる視線で、恐る恐る見上げると呆れた顔のシロが私の腕を掴んでいた。
「これだからお前は。そもそも飛べるだろう」
「…………確かに」
気を抜きすぎだと軽い説教を浴びながらも反論できずに大人しく引き上げられる。甲板に足が付くと横にいた男がサッと目を逸らして肩を揺らしているのが見えた。笑うなこのやろう。
そのまま引っ張られてまた甲板に座ると掴まれた手の片方は離される気配が無くて、結局その後はずっとシロに手を繋がれて過ごすことになったのだ。
「エルの方が面倒を見ているんだと思っていたが、実はそっちが保護者だったか」
「……それは否定しないけど。あまり言いふらしてくれるなよ」
ムッとして見上げた先でカルディスはやっぱり肩を揺らして笑っていた。神だなんだと言われていても意外と抜けたとことがあるんだな、なんて言葉が途切れ途切れに聞こえてくる。それも否定はしないけど。
反省しながら膝を抱えていじけていた私は、他にも甲板にいた奴らに目撃されていることなど気付きもしなかったのである。




