十六、思いを馳せる
亜人国家シャクの外側を大きく回り、クラーケンの後も何度か魔物に遭遇しながら予定している航路を半分をほど進んだ三日目のお昼過ぎ。ついにルトが船酔いから復活した。
彼は少しやつれた顔でどんよりとした空気を背負いながら甲板にいた私とシロの元へとやって来たものだから、思わず口から出たのは「寝ていなくて大丈夫なのか?」という驚きと心配混じりの言葉である。
「うん。キュウタにも回復したなら邪魔だから出て行けって追い出されちゃって」
「あの酔っ払い船医、患者がちゃんと見えてないんじゃないか?」
「いやいや、回復したのは本当だよ。今日の昼食は吐かずに食べられたんだ。マニマが温かいスープを作ってくれてさ。ローマグロの身が入っていて、それがまた美味しくて……病み上がりのせいもあってかなんだか感動しちゃったよ」
「それならまぁ、よかった」
なんだか美味しそうなものを食べたらしい。私もマニマに言ったら貰えるかな、なんて思っている間にルトは私とシロが座っている横で船の縁から海を眺め始める。やはりその横顔から読み取れる表情はどこか暗い。
「クラーケンの話も聞いたよ。ごめんね、役に立たなくて……」
「いや、ルトの術式には十分世話になっているよ。おかげで海の中でも活動できるようになった。魔物の相手なら私とシンディで足りているし、辛くなったらいつでも休んで」
「キミたちは本当に頼もしいなぁ」
「……ルト?」
回復したという割には元気がないのが気になった。
なんとなく彼の目線の先に私も目を向けてみると青い海の向こうにはかなり距離は離れているものの薄らと見えている陸地がある。今日中にはその海域も抜けると思われる亜人国家シャクだった。
そういえば詳しく聞いたことは無かったが、ルトはもしかしたらシャクの生まれなのかもしれないとふと思う。
人間の国ローサンティスでエルフはほぼ見かけない。エルフの作った紙や布といった加工品はそれなりに出回っているのに、だ。おそらく彼らの里がそもそもあの国の中には存在せず、品物だけが持ち込まれているのだろう。
しかしルトには海を渡った経験がない。彼が一人で旅をしていた頃はまだ国境も曖昧で国の行き来がし易い時代だったことを考えれば、エルフの里の場所として真っ先に思い浮かぶのはローサンティスと地続きの亜人国家シャクだ。流石に戦闘では役立たずを自負しているルトが北のロア山脈を一人で越えて来たとは考え難いからな。
だとすると今ルトの視線の先にあるのは紛れもない故郷の大地である。少なくとも数十年は帰っていないだろう故郷に彼は何を思うのだろう。
なんと声をかけたらいいのかがわからず私が黙っていると、空気など読まないシロが代わりに口を開いていた。
「エルと旅を続けていればいずれは行くこともあるだろうよ」
「うん、そうなんだよね。エルならきっといつかは行くって言い出すんじゃないかと思ってる。……あ、もちろん悪い意味じゃなくて今回の帝国行きみたいに誰かの護衛とか依頼とか、そういうこともありそうだよねって話だよ?」
「それはシャクに限った話ではないがな」
「あはは、確かに」
まるで子供のわがままを容認する保護者のようだな。少しだけムッとしながらも二人が言う通り護衛や依頼を受ければ私はきっとどこへでも行くのだろうから言い返すこともできやしないのだけど。
でも、それは同時に私がどこへ行こうとも付き合ってくれる気でいるということだ。そのことは単純に嬉しく思う。
「エルがあの国に、かぁ……まだ全然想像も付かないけど、本当に行くことがあれば僕が案内するからね。その時は頼ってもらえるよう頑張るよ」
海風に暴れる髪を手で押さえながらほんの少し目を細めてこちらを見下ろしたルトは、まだ故郷の記憶に浸っているように私には見えた。
彼がエルフの里を旅立ってから少なく見積もっても数十年。もしかしたら百年くらいは経っているのかもしれない。それだけ時間が経てば国や里は変わるものだが、人間とは違って長寿の多い亜人国家は実際のところどうなのだろう。
魔術や人々の暮らしにローサンティスほどの進歩、あるいは衰退はあるのだろうか。もしかしたら独自の文化が根付いているかもしれないし、国境を越えれば生態系だって同じとは言い切れない。
こうして考え出すと実際に行って見てみたい欲が胸の奥から湧いてくるから、なんとなくそう遠くない未来に私はその国の大地を踏みしめている気がする。私は母——クラヴィアみたいに未来を視ることなんてできないのに不思議だ。
ただ、私たちの旅はまだまだ先は長いのだと、そう思うと自然と口元が緩む。
「その時は、よろしく」
「うん!」
広い広い海の上で近くに魔物の気配も無く順調に進み続ける船。このまま行けば明日にはトウコク付近の複雑な海流が入り混じるという場所へと入っていく見込みである。
だから今のうちにこの静かで穏やかな時間を堪能しよう。そう思ってその後しばらく私たちは甲板から遠くに薄らと見える陸地をただ眺めていた。
馳せる思いはいつだって遠く、未来へ。




