九、尺図
シンディとカルディスには積もる話もありそうなので応接室での集まりは一旦お開きとなった。
ならばと他のみんなをその場に残し、私はアズミと共に別室へと移ることに。先程言っていた航路の相談とやらだ。
既に勝手知ったる様子で屋敷内を歩くアズミに連れられて辿り着いたのは、物が詰め込まれた木箱が壁際に所狭しと置かれている部屋だった。中央にはアズミの腰の高さ程に木箱が積まれていて、これは上にも何か物が乗せられているから台として使われているらしい。他に家具は無さそうだ。おそらく元から倉庫として使われている場所なのだろう。
アズミは護衛のカルディスも連れずにここまでやって来たので少なくとも私のことは自分に害をなす存在ではないと認識しているのだと思う。
「そういえばランドルの妻を見かけないな。こっちには連れてきていないのか?」
「いえ、奥方もこの屋敷にいらっしゃるようですよ。ですがどうやら娘さんを亡くされてから心を病んでしまっているようで今は寝室で療養されているのだとか」
「……そっか」
壁際から持ってきた小さな木箱を私の足元に置いたアズミを目で追いながらここまで来るのに気になったことを聞いてみたらこれだ。
氷の魔術師フィアリア。サフは何も言わなかったけれど、ストック家の者たちにとって彼女の存在は私が想像するよりもずっと大きなものだったのかもしれない。
サフやランドルには世話になっているので力になれることがあるのなら恩を返したいとは思うけれど。心の問題はシロの再生魔法でも治すことはできない。神という名の信仰対象を用意しても改善されないのであれば私にできることはもう何もないのである。
他人が立ち入っていいものではない。だからこの話はここまでとして、私は頭を切り替え大人しく足元の木箱に乗った。おかげで目線が高くなり台の上が見えるようになる。そうして真っ先に目に入ったのは所々色褪せたこの世界の尺図だった。
「凄いな。これが海図か」
「はい。一般的に出回っている地図は陸地の情報が載っているのに対しこちらは海の情報が載っています。主に水深や灯台の位置、危険物や魔力濃度、各海域ごとに出没する可能性のある魔物の情報などですね」
世界地図は見たことがある。けれど目の前に広げられている海図は記憶の中にあるそれとは確かに異なっていた。
海岸や海に集中して書き込まれた記号や文字。水深を示す線に、幾つかの段階に分けて色付けされた赤はおそらく魔力濃度を表しているのだろう。濃い場所ほど魔物も多く、予測の通用しない危険地帯になっていると見た。
「魔物の生息域は日々変化していますから完全に予測することは不可能です。ですが今回は戦力が十分に確保できている前提で航路を考えて良いと事前に連絡を受けていますので可能な限り最短の航路を考えています」
そう言ってアズミは海図の上に指を滑らせる。
私たちが今いるのは二つの独立国家と巨大な帝国で構成された世界最大の大陸だ。人間の国ローサンティス、北の山脈の向こうにあるダリアロアの帝国、それから辺境伯領の先に広がる南東の亜人国家シャク。
アズミの指を目で追うと、ローサンティスの南西にあるスイストンの港からシャクの外側を回ってトウコクのある世界最小の大陸へと行き着いた。順調に行けば五日ほどで到着すると彼は言う。
「まずはスイストンの沖ですが、魔力濃度はそこまで高くはないものの小魚を追って中型の魔物が頻繁に入ってきています。ここは普段は漁師の方々が漁をしている海域ですね。誰でも魔術が発動可能な不思議な船をお持ちのようで驚きました」
にこりと笑顔が向けられて思わず苦笑する。アズミが言っているのは当然ルトが術式を刻んだ船のことだろう。港があれだけ栄えているところを見れば今もあの魔道具はしっかりと管理され上手く使われているのだとわかる。
誰かに聞いたのかどうかはわからないが、あれに私が関わっていることをアズミは確信しているらしかった。
「当然私たちの乗る船にそのような機能はありませんので戦闘は避けられないと思ってください」
「海上戦か」
「ええ。カルディスは慣れていますから何かあれば彼の指示に従っていただければと」
「そうだな、わかった」
私たちの中に船での旅を経験している者はいない。知識としてはある程度頭に叩き込んではいるけれど、慣れた者がいるのなら当然従うべきだろう。船上では身分や立場など関係ない。安全が第一だ。
「シャクの周辺は比較的穏やかな海域ですが他国の船が陸地に近付くことを彼らは良く思っていません。刺激しないためにも距離を取って魔力濃度の高い場所をほんの少しだけ通ります。ごく稀にクラーケンが出ると報告がありますのでその際は船を護ることを第一に考えて行動してください」
「クラーケンか、それは大物だな。船を護るってのは倒さないってことなのか?」
「倒せるのならそうしたいところですがあれは神出鬼没な怪物でして。しかも海中に本体がありますから今のところは船を護るのが精一杯なのですよ」
「なるほどね」
それは確かに厄介だ。腕に自信がある冒険者でも慣れない海上で本体の見えない巨大な敵を相手にすることなど早々無い。あの勇者パーティならばどうにか工夫を凝らして突破しそうなところだが生憎ここにあいつらはいない。
私は私のやり方でと考えると魔法で倒し切ってしまうのが一番手っ取り早いのだろうな。それとも海中を自在に動ける方法でも考えようか。今あるものを駆使すればできないことはないと思うのだけど。
何はともあれ今言えることはひとつ。
「もしクラーケンが出たら私に任せてくれ」
「討伐するおつもりですか?」
「そうだけど、ダメだったかな」
「……いえ、まだ貴女の実力を拝見していないもので少し驚いてしまいました。人間とはいえラグーン様と同じ神の肩書きを持つ方には失礼な物言いでしたね。申し訳ありません」
「いや、それは別にいいんだけど……」
それよりも今ラグーンが神の肩書きを持っていると言ったか。実の娘であるラグナからはそんなこと聞かされていないんだが。世界には複数の神なる者が今も存在しているというしトウコクにそんな奴がいること自体に驚きはないのだけど、それがまさかラグーンだとは。
考えてみれば確かに二千年以上前から存在する力ある精霊を神格化するのはなんら不思議なことじゃない。ならばトウコクに住まう者たちにとってラグーンは特別で、余所者が無闇に触れていいものではない可能性すらあるのではないか。今知れてよかったのかもしれない。後でこのことはみんなにも共有しておこう。
「ではシャクの海域ではそのように。更に進んでトウコク周辺。この辺りは魔物の出没自体は少ないのですが、地形の影響で複雑な海流が入り混じっております。ここは私の腕の見せ所ですね」
「地形の影響? この大陸はそんなに複雑な形なのか?」
海図を見たところトウコクのある大陸付近の水深はかなり深い。情報だけ見るとまるで海に浮かんでいるようでもある。けれど他の大陸と比べたら複雑そうには見えないのだけど……と考えながら海図を眺めていると、アズミは海図の下から別の紙を引き出して台の上に置き直した。
書かれていたのはトウコクのある大陸を横から見たような尺図である。私は初めて目にするものだ。そしてここでようやくこの大陸は下に長く複雑な形をしていることがわかる。大雑把に言えば何層にも分かれた逆三角形が海底に突き刺さっているかのようだ。
「まさかとは思うが……」
「そう、この大陸は深いのです」
そういえばラグナが母親について深いところが好きだとかなんとか言っていた気がするな。あの時はダンジョンのことを言っているのだろうと思ったがここに来て違う可能性が出てきてしまった。
アズミの言葉から察するにおそらくこの大陸のトウコクとは地図上で見えている部分だけを指すものではなくて、尺図を見る限り深い深い海底までがそうなのだ。この形のせいで周辺の海流は複雑になっている、と。なるほど、そういうことか。
「……ちなみに帝国への航路って知ってるか?」
トウコクのある大陸から北西へ。海図に改めて目を向けると、他とは比べようもないほどにその辺りの情報が少なく見える。この中を船で進むのは危険だと私でもわかるくらいに。
私の問いにアズミはどこか困ったような顔をする。
「実は一部の貿易船以外は北への侵入は禁止されているのです。確かに帝国との貿易は少なからず行われていますが、航路については私も存じ上げておりません。おそらく国で厳重に管理されているのかと」
「ということは……」
トウコクの王、もしくはラグーンと友好的な関係を結ばなければその先の道は開かれないのでは?
なんだか厄介な話になってきたなと私は一人頭を悩ませていた。




