二百十八
トロップの過去、後編です。
この日はいつもと同じように両親と共に朝食を取った。二人はわたくしの前でお仕事の話をしないから話題に上がるのはいつだって世間話ばかりである。笑顔でそれを聞き流し、さっさと食事を終えたわたくしは足早に部屋に戻る。そこでふと自分が犯してしまった罪に気付いたのだ。
「……ああ、いけない。どこに落としてしまったのかしら」
「きゃああぁぁああああ!!!!」
突如お屋敷内に響き渡った悲鳴は使用人のもの。特に慌てることもなく部屋から出ると廊下の先に黒い何かが蠢いているのが見えた。煙のようにもわもわとしたそれはよく見れば胴体に手足や頭が付いた人の形を持っている。
「何事だ!!」
「だ、旦那様っ……あ、ああ……奥様、が……!!」
「なん、だこれは……レイス……?いや、しかし……」
「お、奥様が、何かをひ、拾われたのです!そうしたら突然、こんなお姿に……!」
悲鳴を聞きつけてやってきたお父様に腰を抜かして倒れた若いメイドの震えた声。その切迫した雰囲気に思わず小さくため息をひとつ。
困ったわ。わたくしが落としたものをあろうことかお母様が拾ってしまったのね。いつか人間で試してみたいと思ってはいたけれど、まさか初めてがお母様になってしまうだなんて。ああ、どうしましょう。
考えながら騒がしい現場に近寄ると煙のようなその塊の下にはお母様だったものがばらばらに崩れて落ちていた。あちこちに飛び散った血がまるで真っ赤な花のようで、ついついうっとりと見入ってしまう。この光景を綺麗だと心から思えるわたくしはきっとお父様たちとは感覚が違うのでしょうね。
周囲を見れば他の使用人も騒ぎを聞き受けて集まり始めていた。皆一様に困惑や恐怖をその顔に浮かべて佇んでいる。誰も状況を正しく理解できなくて、どうしたら良いのかもわからない様子で、動かず低い呻き声を発している黒い塊をただ見上げているだけ。この人たちはいったい何をしているのかしら。
「お父様。申し訳ありません。今、片付けますので」
「——は、」
返答を聞く前に結晶を生成する。血溜まりの中にいた黒い塊がそれに貫かれて悲鳴のような声を上げ、最後には四散して消えてしまった。後に残ったのは震えながら耳を塞ぐ使用人たちと、信じられないような目でわたくしを見下ろすお父様。それから何食わぬ顔で血溜まりを見つめる、少女。
「あれだとこんなに周りが汚れてしまうのね。もっと改良しないといけないわ」
わたくしにとってはちょっとした事件。けれどその場にいた他の者たちにとっては決定的な出来事で——この日以降、ラトリッチ公爵家は内側から静かに崩壊していくことになる。
お母様は突如お屋敷に現れた魔物に殺されてしまった。そういうことになったらしい。葬儀は密やかに執り行われたが周知されたわけではなく、お母様の死は貴族の間では噂程度に留まった。
あの場に居合わせた使用人はお父様により皆解雇され、その者たちがその後どうなったのかはわたくしは何も聞かされていない。ただ、あの事件の後に一度だけ二人きりで話をした時お父様はどこか壊れた機械のようだと感じたのは確かだった。
あの日、落としてしまった道具については酷く怒られてしまったわ。二度とあんなものを作ってはいけないとも言われたの。
でも、それをわたくしが聞き入れることはない。お父様があの事件以降わたくしと関わるのを避けていると感じてからはより一層自由にやっている。
自分の為に予言の魔術を使うことを覚えたのはこの頃ね。ラトリッチの工房へ近付くことを禁じられたせいで鉱物を手に入れる機会がなくなってしまったのがきっかけだった。仕方なく自力で調達する為に頼ったのが自分の魔術だったというわけだ。
「神殿の聖女様がエルと戦って和解……またこの名前……でも神殿の地下都市はあの鉱物の原産地と言っても良い場所だわ。なんとか取引きできないかしら」
自室のドレッサーの前に座り、鏡に映った自分に語りかけるように言葉を声に乗せる。魔術を使っている間は無意識に瞳が明るく光るからこうして一人でいる時にしか使わないようにしていた。
希少な力は使ってこそ価値がある。けれどその恩恵を受けられるのは価値を正しく理解できる者だけでいいとわたくしは思う。だから、この魔術は無闇に人に教えるべきではない。
神殿の地下都市にはこの国で居場所を失くした人間たちが集っている。そこで生涯を過ごす者もいれば、出てくる者もいるらしい。たまに聞く聖女の噂はそういった者たちが流しているようだ。神殿の情報を集めるならばまず出てきた者たちに話を聞くべきである。
そこからわたくしは度々夜にお屋敷を抜け出し、王都の南で平民たちの話を聞くようになった。もちろん貴族とわからないように変装はしていたわ。
神殿の関係者を見つけるのはそんなに難しいことではなかった。思っていた以上に多かったから。そして、そんな人々は口々に言うの。聖女ミカエル様は素晴らしいお方だと。
「復活と再生……まるで夢物語ね」
王族に伝わる幻獣フェニックスの伝承と同じ。系統が同じ魔力を持っているのかしら。或いは聖女は人間ではなく、長命種の亜人か魔物の類なのかもしれない。
何はともあれもっと情報が欲しい。書庫の本は一通り目を通したけれど詳しいことはわからなかった。ならばお父様の書斎はどうだろう。あの部屋の本まだ調べていない。
そうして夜に忍び込んだお父様の書斎でわたくしは鍵を見つけたのだ。
図書館の地下書庫にはわたくしが知りたい情報がこれでもかと言うほど保管されていた。ラトリッチ家のご先祖様と伝わる最初の魔術師ロキル・アンティが残したあらゆる資料がそこにはあったのだ。こんなにも多くの情報をお父様一人が独占していたと思うと嫉妬してしまうほどに、たくさん。
お父様に気付かれてしまわないように毎晩通ったわ。そのせいでしばらくは寝不足が続いたけれど、関わりの少ないお父様がわたくしの変化に気付くわけもない。
得た知識を使ってまずやったのは神殿の関係者に聖女様への伝言を託すこと。我は聖女様の秘密を知るロキル・アンティの子孫である、と。たったそれだけのことで、後日わたくしの前に大神官を名乗る者は現れた。そうして度重なる交渉ののち、神殿とわたくし個人の取引きが始まるの。
たくさん仕入れられるようになった魔吸鉱物で遊ぶのが日課になった頃、わたくしの元に一通の手紙が届いた。差出人は忘れるはずがない、昨年のパーティーで見かけた桃色の髪のあの人だ。未来視の魔術を扱えるという辺境伯の夫人クラヴィア・シファン様。とても綺麗な字でとても辛辣な言葉がつらつらと書かれていたから可笑しくて笑ってしまったのを覚えている。
「直接お話したこともないのに。わたくしの未来を見てしまったのね。わざわざ忠告してくださるなんてとっても真面目で心配性で、お優しい方だわ」
でも残念。もう遅いのよ。
度々予言に出てきたエルという人物が、今辺境伯家で隠されて育つ少女の成れの果てだとこの頃のわたくしは既に知っていた。神殿の関係者を探す過程でできた人脈はそれ以降も役に立ってくれているのだから。
わたくしよりも三年後に生まれた女の子、アリシエル。クラヴィア様と同じ桃色の髪と金の瞳を持つ彼女はいずれ資格を得て聖樹を登る。どこかでエルと名を変えて。そうしてわたくしの前に敵として立ちはだかるの。
こんなにわくわくすることなんて他に無い。わたくしは彼女に相応しい敵になれるかしら。ああ、でも、今までもこれからも積み上げた悪事を暴かれてしまったらどうしましょう。
いいえ、全てが明るみに出たのなら、きっとそんな悪い女を人々が忘れるはずがない。それはとても、とても喜ばしい——わたくしが望んでやまないこと。
「ふふ。待っているわ、エル。たくさん準備しておくから……どうか死なないでちょうだいね」
クラヴィア様の手紙に、願いを込めて口付けを贈った。
翌年。わたくしが十歳になり、ペールバルク様が十二歳を迎えた頃婚約者として正式に二人の関係が公表された。お父様はラトリッチの当主としてとてもお喜びになったけれど、父親として祝ってくださることは一度もなかったのである。
それからウィンと出会うまでの二年間は変わり映えのない生活だったと思う。神殿との取引きも変わらず続き、最近は手を回して親を殺させたとある暗殺者の少女が無事に辺境伯家へ潜入したという。
アースフォードのご子息も二歳になった頃ね。レイランはクラヴィア様を嫌っていて、代わりに辺境伯に想いを寄せているみたいだったからとても扱いやすかった。恋の力って凄いわよね。
そして迎えた十二歳。クランデアの祭りで怪我をした。それ自体はお父様への当て付けも大きかったけれど、他にもたくさんのものを得ることができた。一番大きかったのは別荘かしら。次にウィンね。わたくしはお父様の目を気にする必要もなくなって、ついに自由を手に入れたのよ。
「平民相手の教師をウィンと一緒に始めたのは十五歳だったかしら。彼はよく働いてくれるから他にも動いてもらうことは多かったわね。別荘の地下に作った工房に神殿の関係者を集めてもらったり、わたくしの道具を裏市場に流してもらったり、国中に散らばるロキル様の遺物を調査してもらったり——」
「……あ、あの。幾つか良いでしょうか」
「なにかしら?」
牢の中で向かい合ってわたくしの話を聞いてくれていたシンディがついにおずおずと片手をあげて口を開いた。
「壮絶……と言いますか、ディには少し理解できないところがあるお話なのですが、その前に……貴女とディは同い年だったのですね……」
「……そこ?」
「い、いえ、その!貴女はもっと年上かと思っていたもので……!」
「老けているって言いたいのかしら。失礼ね」
「あ、ああっ、ち、違うのです……!」
わたわたとし始めたシンディは相変わらず単純で分かりやすい。別に今更何を言われたってわたくしは構わないのに。そう思うのに目の前のシンディは何度も何度も謝るから少しだけ笑えてくる。
ここまでいろいろと話したせいかいつの間にか当初のピリピリとした雰囲気が消え去っているから不思議である。傍から見たら友人同士のように見えるのかもしれないとなんとなく思った。
「でも、よかったのですか。ディに話してしまって」
「どうして?」
「ディは今聞いたことを、ダフディラート様やエルに伝えるかもしれませんよ」
「もちろん、話してもらわないと嫌よ」
「え、ええ……!?」
わたくしの話だもの。たくさん人に知ってもらって、記憶に焼き付けてもらうの。未来永劫。そのために今こうして話しているのだから。貴女の責任は重大だわ。
そう言って聞かせれば、変な声をあげて狼狽え始めるから少しだけ気分が良かった。このお人よしはきっとこう言えば必ずやり遂げてくれるでしょうから、ね。
それと、わたくし、同い年の子とこんなに長く話したのって実は初めてなのよ。社交界でも他所のご令嬢とお話する機会なんて全く作ってこなかったから。最後に普通の女の子としての時間が与えられたみたいで変な気分。でも、楽しい、わね。これは口に出しては言わないけれど。
「ほら、まだまだ話は続きますわよ。貴女にはわたくしの全てを叩き込んであげる」
「ひ、ひえぇ……!」
何も隠すことなく全てを語れるというのはこれが初めてのことだった。だから時間が許す限り、わたくしはシンディに本当に全てを語ったの。
でも、この話の結末を彼女が既に知っているのは少しつまらないわよね。たくさん悪事を働いた悪女が最後にどうなるのか。
そう、これはわたくしの話。
トロップ・ラトリッチの生涯の話。
「——こうして稀代の悪女は明日、多くの人々が見守る中で無事に処刑されるのでした」
めでたしめでたし、ってね。




