二百十六
今回はトロップ視点のお話です。
足下の冷たい石の感触。無機質な鉄格子。安物の素材を使った見窄らしいドレス。手足に嵌められた重い枷。頭の中で術式を巡らせても魔術が発動しないのは枷に魔力が吸収されてしまうせい。日に一度体を拭きに来てくれるのはわたくしの企てから見事逃れて見せたあの踊り子だから素敵よね。
「ねぇ。貴女は今、どんな気分なのかしら」
「……良くないことは確かです」
「変ね、せっかく立場が逆転したというのに。正直に本音を言ってもわたくしは怒らないわ。だから、ね?言ってみなさいな」
——ざまぁみろ、って。
そう言って顔だけで振り向くとシンディは一瞬息を飲んで怯えた表情をしていたけれど。深呼吸をして再び背中を拭いてくれる手付きはしっかりとしたものだった。
「そんなことは本当に思っていません。非難をお求めでしたら耳を澄ませてみたらいかがですか」
「もちろんやっているわ。子守唄にはちょうどいいもの」
この牢にも響いてくる外からの声。魔物の脅威を退けてから六日ほど経って始まったこの罵声は、戦いの中で多くのものを失った王都の人々の声だ。貴族街の防壁も大半が溶けてしまったせいで平民たちが王城の近くまで入ってきているのだろう。
わたくしが捕えられたことも既に広まっているらしく罵声の中に名前が聞こえてくるからとても心地が良い。例えそこにあるのが怒りや憎しみの感情だとしても。いいえ、だからこそと言った方がいいのかしら。楽しい記憶よりも悲しい記憶の方が人間は覚えておく生き物だもの。
「ディが言うのも可笑しな話ですけど、いったいどんな神経しているんですか……」
目を閉じて聞こえてくる罵声に聞き惚れていたら背後から少しだけ困ったような声がした。その反応には少しだけ笑って、そのまま向きも変えずに口を開く。
「本当に可笑しな話よね。芸でダフディラート様を誑かして囚人から次期王太子妃にまで成り上がってしまった貴女はいったいどんな神経をしているのかしら」
それだけには飽き足らず時期王太子妃である彼女はこうして罪人として捕えられた人間の世話を自ら申し出たらしい。同じ空間に他にも看守が二人いるとはいえ、そんな身分の人間が、だ。軽率な行動と言う他ない。こちらの方がよっぽど可笑しいとわたくしは思うのだけど。
と、皮肉のつもりで言ったのに返ってきたのは「わかっています」という肯定で。毒気を抜かたわたくしは思わず小さくため息を吐く。
「最初はただ、自分の価値を示したかっただけなのです。お貴族様方は確かに平民の命になど興味がないのかもしれません。でも、価値ある人間を捨て置く方々ではないことをディは知っています。……と言っても、まさかあのような方が出てきてくださるとは思ってもいませんでしたが」
背後にいる彼女が一人でころころと表情を変えながら話しているのが何となくわかる。裏表の無い性格で明るく前向きで運すらも味方にできてしまう女の子。それを羨ましいと思える時期はとっくに過ぎてしまっている。
それからシンディはダフディラート様との間に何があったのかを話して聞かせてくれた。
囚人が兵士たちを集めて踊りを披露しているという噂が出回ったことが全てのきっかけだった、と。面白がったダフディラート様がシンディを牢から連れ出し賭けを持ちかけてきたこと。それは、踊りで自分を楽しませることができれば何でも願いを叶えてやろうというものだったそう。
シンディは見事その賭けに勝ったのだ。
それどころかダフディラート様は彼女を大層気に入ってしまった。強く美しく可憐な彼女の踊りは、あの世間知らずで自分勝手な王太子に欲を芽生えさせてしまった。その結果が結婚であり、時期国王としての自覚の現れだったというわけだ。
女性のために国王になろうとするなんて。ダフディラート様のお考えはやっぱりわたくしにはよくわからない。
「け、結婚については一先ず保留とさせていただいていたのですが、気が付いたら大々的に発表されていて……!」
「それを受け入れる貴女もどうかと思うけれど」
「そっ、れは、その、あまりにも熱心で……それにダフディラート様って少しエルに似ていると思いませんか?自分で何でも決めてしまうところとか、考えている時に周りが見えなくなってしまうところとか、何だか危なっかしいところとか……」
「一つも褒めていないわよ。でも貴女が世話を焼くのが好きなお人よしなのはわかるわね」
「そう、ですね。ディはお貴族様の護衛としてしばらく働いていましたから」
「……本当に皮肉の通じない人」
体を拭き終え服を正すとようやく正面からシンディの表情を見ることができた。
落ち着いた清潔なドレスに艶のある髪。装飾品とお化粧は控えめだけれどそのおかげで赤紫の綺麗な瞳が一層美しく見える。自然な美しさというやつだ。
かつてエルの実のお母様であるクラヴィア様の姿を見た時と同じ敗北感をこんなところで再び感じるだなんて。本当に、この踊り子はどこまでもわたくしの感情を逆撫でしていくのが上手くて嫌いだわ。
「それで。こんなわたくしにそこまでべらべらと語ってくださるのなら、ついでに他のことも聞いていいかしら」
知りたいのもちろんエルのこと。消えた聖樹と現れた白い塔はわたくしも戦いの最中に直接目にしたものである。あんなことが起こるだなんて今までに一度も予言できなかった。何が起きたのかも、あれが何なのかも今のわたくしにはわからない。
ただ、エルが消える直前に現れた聖樹の精霊やエラの存在が関係しているのではないかとは個人的には思っているけれど。全てを知っていそうな当の本人はまだ戻らぬままと聞く。
「あの塔はいったい何?どなたか調査に赴いたのでしょう?」
そんな問いにシンディは少し考えた後に口を開いた。どうやら隠さず教えてくれるらしい。これは国家機密と言っても良い案件でしょうに。まぁ、わたくしの今後を思えば問題ないと判断されているのかもしれないわね。
「調査にはダフディラート様とルトとラグナの三名が。聖樹ほどの大きさは無く、飛行魔術で上から全体を見渡すことが可能だったそうです。ですが入り口も見当たらず中の様子は確認できなかったと。近付くと白い魔力に弾かれるので触れることもできないと言っていました。……エルの安否は未だに不明です」
「そう、なるほどね。あの白い魔力はわたくしのものにも通ずるところがあるから、もしかしたらって思っているけれど……本当にそうなのかもしれないわね」
「何か知っているのですか?」
「そうね。でも、教えてあげない」
ふふ、と笑って見せれば目の前のシンディは言葉を飲み込んでむっと口を尖らせた。
生憎わたくしは貴女ほどお人よしじゃないの。それに自分の考えを他人に教えてあげるなんて死んでもごめんよ。そうやって手柄を奪っていくのが人間だもの。それに、きっとこれはわたくしが語らずともそのうちわかることだわ。
「それよりも、わたくしの話を聞いてくださる?」
「エルや塔のことはもう良いのですか?ご自分で聞いてきたのに……」
「ええ。わたくしの中では答えが出たもの」
これ以上聞く意味がないわ、と告げればまたもや困ったような顔をする。分かりやすくて揶揄い甲斐がある子。退屈凌ぎにはちょうどいい。
「……わかりました。何のお話かは知りませんが、時間が許す限りお付き合いします」
石の床の上で姿勢を正したシンディがそれ以降は口を噤んでこちらの話を聞いてくれる。お人よしもここまで来ると面白いのね。そんなこと知らなかった。
そうしてわたくしが彼女に聞かせたのは、王子の婚約者になるために産み落とされた一人の公爵令嬢の話。
国を滅ぼし損ねた、一人の悪女の生涯の話——




