二百十三
トロップの腕に枷が嵌められたその直後のことだ。
途端に空気が重くなった気がして思わず辺りを見渡すと、シンディたちが相手にしている黒い魔物が一斉に吠え出したところだった。この演習場のあちこちから、崩れてしまった学院の建物の方から、おそらく街や聖樹の周辺にいた魔物も。
まるで脳を直接殴られているような爆音に耳を強く押さえながらふとトロップを見下ろせば、その口元には笑みが浮かんでいる。ああ、くそ、これもこいつの思い通りってわけか!
何かを仕掛けていたようには見えなかった。考えられるとすれば私たちが王城から持ち出した魔術封じの枷だが、それは魔力を吸収し魔術を使えなくする対魔術師用の道具であってこんな状況を引き起こすきっかけにはならないと思うのだけど。いったいこの女は今何を考えているのだろう。
私が頭を悩ませている間にも魔物たちの咆哮は止み、けれどそこから状況は一変した。
「まずい!魔物が暴走しているぞ!」
足を引き摺りながらも飛び掛かってくる魔物を剣で弾いたサフが私たちの元へとやってくる。そのままトロップやウィンを護るように背を向けて立った私たちは既に大量の魔物に囲まれていた。
トロップに枷を嵌めた程度で騒動が収まるとは思っていなかったけれど、まさか悪化するなんて。いったい何が起きたんだと改めて考えながら見下ろした先でトロップは呑気に嵌められた枷に口付けをしている。それで気が付いた。
「なるほど、枷で魔術を封じたことで魔物たちがこいつの制御下から外れたんだ」
「えっ……ごめん、僕……!」
「ルトのせいじゃない。事前に気付かなかった私が悪い」
だからエラは魔力の持ち主を消せばいいと言ったのだろう。封じるだけでは収まらないとわかっていたんだ。ならばやはりトロップをこの場で始末するしかないかと考えていると、ブーツに触れられた感覚があって足元で地に伏しているウィンの存在を思い出す。
「っ、わかった。もう少し考えてみるよ」
「あり、がとう……」
ああ、もう。なんて献身的な従者だ。こいつももっと普通の主人を選べばよかったのに。トロップにウィンはもったいないとさえ思えてくるんだが。今更遅いことはわかっていてもそう思ってしまうのだから仕方がない。
そうこうしているうちに襲いかかってきた魔物を抜いた剣で片っ端から斬っていく。
巨大化したキラーラビットにジャイアントグリズリー、ポイズンスパイダーやキラーマンティス。大型のもので言えばブラックサーペント。他にもどこからか転移してきたと思われる魔物が更に黒く染まった状態で数多く集まってくる。
白い魔力で針を生成し近場の魔物を一気に倒せば多少の時間は稼げたものの、私の体力が保たずに一度で足元の魔法陣は消えてしまった。ぐらりと視界が揺れて思わず地面に膝を付く。もうとっくに体は限界は超えているのだ。正直私はこれ以上役に立ちそうにない。
サフも似たような状態なのでこの場で動けそうなのはルト一人である。流石にまずいかと思ったところで魔物の波を飛び越えてシンディがネルイルを抱えてやってきてくれた。
「エル!貴女、顔色悪いわよ!無茶し過ぎ!」
「ネルイル、回復は後回しでいい。今は魔物に集中してくれるか」
「で、でも……」
「大丈夫だから」
顔を覗き込んで酷く心配そうな表情を浮かべるネルイルに、私は今相当具合が悪そうに見えるのだなと思わず苦笑してしまう。それでもこの状況では彼女も貴重な戦力であることに違いはない。もう一度「頼む」と声をかけるとネルイル言葉を飲み込んで小さく頷いてくれた。
前衛にシンディ。後衛にルトとネルイル。ベールを使いながら駆け回るシンディと、ルトの生み出した複数の青白いドラゴンにネルイルの植物を使った魔術。先程よりもずっと状況は良くなったものの、魔物の数は一向に減る気配がない。それどころかやはりどこかでロキルの魔法陣が起動しているのか増えている気さえする。
このままではこちらが消耗するだけだ。せめてもう少し戦力を集められたら——と思ったところで見覚えのある白い光の線が視界の隅に走るのを見た。あれは。
「シルク……!?」
「ボクらもいるぞ!」
声のした方を見ればラグナと相棒のシルク、その後ろからは大きな斧を振り回すダーガンが倒れた魔物を乗り越えてこちらに来るところだった。辺りにはキラキラと舞う粉のようなものが見えてそれを浴びた魔物が次々と倒れていく。おそらくシルクの鱗粉の効果によるものだ。
別の場所では突然一体のブラックサーペントが血を吹いて倒れたかと思えばそこからコルクが飛び出してくる。地面が勢いよく迫り上がってあちこちで鋭い岩を形成しているのはアスハイルの魔術だろう。
他にも魔物の呻き声に混ざって人間の声も聞こえてくるので、幻獣と戦っていた勇者パーティを始めとした一団が合流してきているらしいと気付く。
「エル!この辺の魔物はボクらが引き受けるよ!」
「だからお前はあれをどうにかしてくれぇ!!」
ラグナに続いて声を上げたのはコルクだ。コルクたちが投げ出さざるを得ない相手をどうしろと言うんだと一瞬思ったけれど、次の瞬間カッと空に見えた赤い光に納得した。シロである。
騒動が起こってから相当な戦力が投入され、かなりの時間も経っているにも関わらず空を飛ぶ黒い幻獣は未だにその勢力が衰えた気配は微塵もない。苦しそうな鳴き声が聞こえて私は無意識に胸の辺りの服をギュッと握り込んでいた。
「でも、どうしたら……!」
シロを正気に戻す手は何かないものかと考えている間にも空中で体勢を崩した巨体が広い演習場に落ちてくる。地面を揺らす程の衝撃と視界を覆う土埃。少しして顔を上げて辺りを見渡すと魔物にも人間側にも被害は甚大だった。それでも戦い続けているコルクたちの姿に焦る気持ちが大きくなってくる。
トロップの黒い魔力は私が得たばかりの聖樹の魔力で相殺が可能だ。ならば同じようにシロに魔力をぶつけたらどうか。しかしあの魔法をもう一度発動するには私の体力が保ちそうにない。
そもそも聖樹の魔力はそのままシロのものだ。そのシロが自力で相殺できていないところを見るとこの方法では戻せない可能性もある。私が意識を保てなくなったら元も子もないので無闇に試すわけにもいかない。ならば他の方法を。
焦りもあるのか考えても考えてもなかなか良い案は思い付かなくて、下を向きかけていたところに歩み寄ってくる気配があった。
「お兄ちゃん!」
「アスハイル……?」
短い赤髪に赤目の男。教会の魔術師でネルイルの十歳年上の兄、アスハイルだ。彼は怒るでもなく急かすでもなく、膝を付いたままの私の横に同じようにしゃがんだかと思えばそのまま頭に手を乗せてくしゃくしゃに掻き回してきた。あまりにも場違いな行動に唖然とするも気持ちが落ち着いてくるから不思議だ。
「少し見ないうちに更に小さくなったか?」
「む。変わってないよ」
再会早々何を言い出すんだこいつは。ジトっとした目を向けるとおかしそうに笑って返された。けれどすぐに表情が変わって真剣な目をある一点に向ける。その先にいるのは甲高い鳴き声を上げながら地面で暴れているシロだ。
アスハイルは元からシロの存在を良く思っていなかった節があるから横顔から感じるのは嫌悪感である。でも、そのシロを私がどれだけ大切に思っているのかもわかってくれている。だからもう一度こちらを見た時の彼から嫌な感情は感じなかった。
「あいつは完全に飲まれているわけじゃねぇと俺は思う。エル、あれを呼べるか」
「呼ぶ……?」
「名前でもなんでもいい。あの幻獣が振り向きそうな感じで頼むぜ」
「振り向きそうな感じで……」
大雑把な話だが言いたいことはなんとなくわかった。要はシロの自我を強めて自力で打ち破ってもらおうということだ。
確かにシロはあんな状態でも完全に黒い魔力に飲まれているわけではなく、私のことも認識できていたようだから声が届くのなら引き戻すことは可能かもしれない。当然確実性は無いが、呼びかけるだけなら幾らでもできる。
「動けねぇなら俺が抱えて走ってやる。やれるか」
「や、やれる!頼む!」
「よしきた!」
最早剣も振れず魔術も魔法も使えない私には他にできることもない。少しでも可能性があるのならやるべきだと大きく頷けばすぐさま腹に腕が回って小脇に抱えられた。こいつに抱えられるのは二度目だな。
「ルト!その二人を頼んだ!」
「う、うん!エルも気を付けて!」
トロップとウィンのことはルトに任せておけば大丈夫だ。だから私はアスハイルの手を借りてシロを引き戻すことだけ考えよう。
ようやくシロだけに集中できる状況になったことでごちゃごちゃとしていた頭の中も落ち着いてきた。それもこれもここまで力を貸してくれたみんなのおかげに違いない。
私は良い縁に恵まれている。でも、全てはシロと出会ったからこそ得られたものだ。そこにシロがいないと意味がない。
行こう、と強く声をかけるとアスハイルは頷いて走り出した。苦しそうに暴れ続けるシロの元へ。
どうか私のこの声が無事に届いてくれますように。




