二百十一
引き続き公爵令嬢の従者ウィン視点のお話です。
騎士団を退団した俺はそれからの六年間、従者として彼女を側で見続けた。その六年という時間が長かったのか短かったのかは自分でも判断が付きそうにない。
わかったことと言えばトロップ・ラトリッチという少女は凡人には到底理解できないような破滅願望の持ち主だったということか。いつからそうなのかと不思議に思っていた俺に彼女は笑って初めて悪意を持った時だと教えてくれた。それがいつなのかを詳しくは話してくれなかったのだけど。
そんなトロップ様の元で俺が働き始めた頃には既に彼女の手は国の各地に伸びていた。
俺からすれば未知の領域である神殿との取引き、神殿から出てきた者たちへの支援、周辺の小さな村への干渉、離れた辺境の地への根回し。更には資料すら残っていないロキル・アンティの遺物を見つけ出し、婚約者である第二王子が権力に執着するよう誘導もしていた。
俺が側に置かれてからは別荘の地下に専用の工房を作り、平民相手に教師をしたり、彼女の作成する黒い道具を裏の流通に乗せたりと加速する悪事にはこちらも目を回したものである。
トロップ様は魔術で未来の予言をすることができる方だ。だからか突拍子もない発言や行動も多く、今日までの俺の戸惑いも決して少なくはなかったと思う。
「トロップ様、お怪我はありませんか」
「ええ。あの子は無抵抗の人間を傷付けようとはしないのね。甘い子だわ」
エルとその仲間が一旦引いた演習場の中央で二人きり。押し倒されていたままの体勢でいたトロップ様をそっと抱き起こすと、伸びてきた手が俺の顔の血を拭う。汚れますよと言った俺に彼女は構わないと笑った。血の付いた指先は躊躇うことなくペロリと舐めるものだから、俺は自分の心臓が跳ね上がるのを感じていた。
吊り上がる口元、細められた光る紫色の瞳。どうやら俺のお嬢様はこんな状況にも関わらずたった一人の従者で遊んでいるらしい。本当にたちの悪い人だ。
「流石の貴方も今回ばかりは勝てそうにないかしらね」
「……そうですね。明らからに戦力不足です」
話している間にも俺たちを囲むように結晶が高い壁を作った。それを横目に懐に忍ばせていたポーションのガラス瓶を煽る。これで軽い傷は即座に塞がるがポーションも万能ではない。深い傷は完全には治らないし、体力の回復においても大した効果は得られない。それが現代のポーションだ。
幻獣フェニックスのような奇跡を起こせるものがこちらにあったら良かったのだけど、生憎あの鳥は今トロップ様の魔力を持ってしても制御できずに暴れている。期待はできないだろう。
そもそもこちらは二人、相手は五人だ。周囲に厄介な魔物がいるとしても向こうの戦力が大きすぎる。おまけにトロップ様は黒い魔力の使用中はその場から動くことができないので、実際に相手を迎え打つのは俺だけということになる。引き離されたら、もしくは俺だけを狙って来られたら終わりだ。
彼女の側にもっと戦える人間がいたらこんなことにはなっていなかったかもしれないが、それを望まなかったのは他ならぬ俺である。例えどんな状況であれ、トロップ様を護る役目は俺だけのものであればいいと思うから。
目の前に跪いて、取った手の甲に口付けを。
「俺が、護ります」
「ふふ、ありがとう」
彼女が笑う。いつものように美しく。俺の言葉に笑ってくれる。俺の努力を見守っていてくれる。
トロップ様自身が望んだ結果を得られることが俺も嬉しい。後ろ暗いことしか無いくせにそれを悟らせずに美しく笑う彼女にどうしようもなく惹かれてしまう。その為ならなんだってやってもいいとすら思えるほどに。
けれど、俺にはどうしても一つだけ受け入れ難い予言があった。彼女に惹かれていると自覚すればするほど容認できないその予言の中心にはいつだってエルという子供がいる。
トロップ様はその予言に抗うと言いながらも、エルが目の前に現れることをずっとずっと待っていた。トロップ・ラトリッチという悪女を終わらせてくれる存在なのだと愛おしそうにいつも言って。
死をも利用しようとしている。歴史に名を刻もうとしている。彼女はロキル・アンティの子孫でもなく、ラトリッチ公爵家のお嬢様でもなく、トロップという一人の人間として人々の記憶に深く刻まれることを望んでいる。
俺もそれを一緒に望めたら良かったのだけど。
やっぱり、好きな人には生きていてほしい。
そう思ってしまう俺はきっと本当の意味で彼女を理解することなんてできないのだろう。
「トロップ様。どうか魔術を解かないでくださいね」
「ええ、わかっているわ。貴方の頼みだものね」
予言の魔術。俺の知っている限り今のこの世界ではトロップ様にしか扱えない特殊な魔術だ。過去にはラトリッチの家系に数人扱える者がいたと聞くが、それも最後に確認されたのは二百年前の話だという。
そんな予言の魔術は面倒なことに制約が多く、特に厄介なのが日に一度にしか効果がないというところだ。けれど魔術の影響を受けた彼女の言葉には強い強制力が発生する。覆すことも可能だが、それには彼女の持つものより多くの魔力の介入が必須であるらしい。トロップ様自身の魔力だけならまだしも過去の魔王の魔力まで継いでいる彼女の保有量は桁外れ。実質人間には不可能だ。
予言の魔術を発動している間、術者であるトロップ様は無意識下で未来の可能性を探っている状態になる。強制力が発生するのはそんな無意識下で探り当てた最も可能性の高い未来だけ。
扱い辛く厄介で、無慈悲で、だからこそ信用ができる、そんな魔術だった。
俺は彼女が生きる未来の予言が欲しい。俺には予言を覆せるだけの魔力は無いけれど。それでも戦って、戦って、戦ってあの子供の戦力を少しでも削ぐことができればもしかしたら違った未来の予言が聞けるんじゃないかって。そんな希望に縋ってしまう。
トロップ様はエルに終わらせられることを望んでいる。でも、覆った未来もきっと仕方ないと笑って受け入れる方だ。どちらに転んでも良いと言うのなら、俺に最後まで足掻かせてほしい。
稀代の悪女のたった一人の従者として。
トロップ・ラトリッチという女性に想いを寄せる一人の男として。
「戦うことを許してくれて、ありがとうございます」
——奇跡が起きればいいのに。
「行ってまいります」
——奇跡を起こせればいいのに。
両手で包み込んだ彼女の冷たい手に縋るように頭を垂れて静かに願う。
きっと俺の勝利を心からは望んでくれない人。俺と同じ気持ちを返してはくれない人。そのくせ全幅の信頼を寄せてくれる人。俺だけを側に置いてくれる人。自分ですら気付かない感情の変化に気付いてくれる人。……ああ、好きだ。
ガラスが割れるような音が響く。
顔を上げれば俺たちを囲っていた結晶の壁が全て粉々に砕け散っていた。こんなことができるのはこの場にただ一人。
「——エル」
トロップ様の手を離す。立ち上がって振り向けば、俺の好きな黒とは真逆の白い魔力に包まれた子供がいた。側には男が二人、奥では女たちが魔物とやり合っている。布陣は先程から変わっていないようだ。
俺が再び剣を握ると同じように剣を抜いたのは青い髪の騎士である。見覚えはあるが名前は知らない。トロップ様の予言には一度も登場したことのない人間だ。ならば俺にも勝機はある。
「ウィン」
「はい」
名前を呼ばれるだけでこんなにも幸福な気持ちになるのは彼女だけ。いったいどんな顔をしているのだろう。今は振り返ることができないのが残念だ。
「貴方を信じるわ」
「——はい」
背中を押してくれるでもなく、俺が欲しい予言をくれるわけでもない。相変わらずどちらに転んでも良いと思っていることもわかる。
でも、向けられる信頼は本物だ。俺の気持ちが続く限り彼女は約束を違えない人だから。
それだけあれば十分だ。それで俺は戦える。
地面を強く蹴って踏み出せば、同時に動き出した青い髪の騎士が見えた。近くには術式の天才とも言えるルトの姿もある。エルはトロップ様の魔術を打ち消すのに精一杯だろうから俺のやることは決まっている。まずはこの男たちを倒す。
倒す、から。
少しでいい。
どうか彼女の未来が、俺の望む方向に変わってくれますように。




