二百七
白く降り積もった雪の下から気候の変化を告げるように顔を出す花がこの世界には幾つか存在する。その中でも俯き加減に咲く白い花がきっとあの女の名の由来になっているものなのだと思ったのは多分あの香りのせいだ。
見た目や持ち合わせている雰囲気は似ても似つかない花だけど、香りはほんの少しの甘さのある爽やかなものだった。ラトリッチの別荘に一泊した晩、私の髪にその花の香油を含ませたのはあの女にとっては盛大な嫌がらせだったのだろうが、私は案外その香りが嫌いではなかったのである。
突き抜けた悪事も貫き通せば清々しさすら感じるもので、私はきっとこの先その花を感じる度にあの女を思い出すのだろう。これは確かな予感だった。
「……トロップ」
「待っていたわ、エル」
広い原っぱのような演習場に足を踏み入れると、その中心で輝く紫色がトロップの周囲に漂う魔力の光であることに気付く。女の足元の地面は黒く変色していて至る所に人間の背よりも高い結晶体が生えている。一見美しさすら感じる光景なのによく見れば結晶体の中には何か蠢く影が見えて、それが発する呻き声が不気味さを際立たせていた。
そんな中に腰を下ろしたトロップが私を見つけて目を細めて笑う。その目が怪しく光っているのは今まさにその女が魔術を使っているからだろうか。女は手に握っている小さな杖を真っ直ぐこちらに向けたかと思えば、響き渡る悲鳴さえ掻き消すような不思議と通る声で告げた。
「そこ、危ないわよ?」
「な——」
何を言っているんだと言いかけて、突然横から伸びてきたサフの腕に強引に引っ張られた私はその場から飛び退くことになった。次の瞬間には先程まで居た場所に上空から何かが降ってきて派手な衝突音と共に砕けた地面が宙を舞う。
巻き上がった砂埃の中で薄らと開けた目が捉えたのは巨大なジャイアントグリズリーだ。背後から飛びかかられたかと頭の片隅で冷静に状況を分析していると、ゆらりと立ち上がったその魔物が瞬く間に地面から突き出た黒い結晶に飲み込まれていく。そうして出来上がるのが蠢く影を内包した結晶体だった。
私たちが息を飲んでいるうちにもパキリパキリと音がして、亀裂の入ったそれは徐々に割れ最後には完全に黒く染まったジャイアントグリズリーが顔を出す。
白い落書きのような目と口。響く咆哮。向けられた不気味な視線。咄嗟に動いたネルイルの魔術で体を植物に絡め取られるも、力で簡単に破ったそいつはそのまま術者に襲いかかっていった。すぐさま間に入り込んだシンディがジャイアントグリズリーの巨体を蹴り飛ばして遠ざけ、ネルイルとルトを抱えて下がる。
ほんの数瞬の出来事にいったい何が起きているのかはわからず、けれど安易に近付くことが危険だとは理解した。
私を再び小脇に抱えたサフも同じことを思ったのだろう。一旦その場から離脱する為に踵を返そうとして、突然目の前に現れた剣による突きをすんでのところで回避していた。
「サフ!」
「っ、この……!」
キィン!と甲高い金属音が立て続けに何度か響いた後、邪魔だとばかりに放り投げられた私は空中でシンディに捕まえられて直後にようやく地に足が付く。
「エル!大丈夫ですか!?」
「う、うん。ありがとう……」
その後演習場に吹き抜けた風に土埃は流されすぐに視界は開けたていった。
顔を上げれば剣を打ち合うサフとウィンの姿を目が捉える。ウィンはそこに居るとわかるのに、意識して見ていないと姿も気配も見失ってしまいそうになるのは彼の魔術による影響だろうか。殺気すら感じないところを見るとウィンの行動原理はどこまでもトロップの従者としてのものなのだろう。
殺気は無く、気配が薄い。本来なら敵に回したくない男である。剣士としても実力はかなりのもので、今だってどちらかと言えばサフの方が押されているように見えた。元はと言えば騎士団にいたはずの男だ。そんな奴がどうしてトロップの従者をやっているのかは甚だ疑問ではあるが、これが現実なのだから仕方がない。
「ウィンの方は僕も加勢させてもらうよ」
そう言って宙に術式を描き始めたルトはどこか複雑そうな顔をしていた。ルトは私よりもウィンと共に居た時間が長いだろうから、もしかしたら何か知っているのかもしれない。
「生かして捕えるようにって言われているのはトロップだけだ。でも、僕はウィンにも生きていてほしいから……」
——例えそれを彼自身が望まなくても。
最後の呟きがどんな意味を持つのか今は考えないように、私はウィンから目を逸らしてトロップに目を向ける。ルトがウィンを引き受けてくれるなら私はこちらに集中しよう。そう思えたから。
先程よりも遠くで目が合ったトロップは、相変わらず黒い地面に腰を下ろしたままである。その場から動く気は無いらしい。逃げるという選択肢も持っていないのだと思う。近付く者を黒い結晶で覆ってしまえるのだからそもそも動く必要がないのだろう。だからトロップはただ座って王都が魔物に蹂躙される様を見守っているだけ……。
「シンディ。周囲の魔物の相手は任せていいかな」
「はい。問題ありません!」
「ネルイルは離れたところから援護を。あの結晶に気をつけて」
「それはわかっているけど……エルは本当に大丈夫?」
手に持っていた剣を鞘に戻した私をネルイルが心配そうに覗き込んできた。動き回れる力はあまり残っておらず、ここまでみんなの足を引っ張りまくっていたのだから当然の心配だろう。私も正直自信は無い。それでもやると決めた以上引くわけにはいかなかった。
しばらく二人の精霊にくっついてもらっていたおかげで体の方も少しずつだが回復もしてきている。だから大丈夫、少しくらい全力で魔術を使っても問題ない。
一先ずはあの澄ました顔の女に枷を嵌めることを考えよう。
そうして私たちはすぐさま動き出す。ルトは宙に描き上げた小さなトラゴンを何体も飛ばし、シンディは襲いかかってくる魔物たちの相手を、ネルイルも少し下がって援護に回ってくれている。
私はと言えば、トロップが居座っている場所の更に向こうを眺めていた。
空高く聳える聖樹。今は幾つもの魔法陣が展開され、光の輪に囲われた巨大な木。この場所からは見えないけれどあの巨木の上にはあいつの家がある。きっと精霊たちを通して現状も把握してくれているだろう。頼んだぞ、と内心呟いて私は落とした視線でトロップを真っ直ぐ見据えた。
体に魔力を巡らせればふわりと風となって私の周囲に吹き抜ける。黒い結晶に捕まらずあの女の元へ辿り着くには体の強化だけあれば十分だ。
魔物や従者はみんなに任せて私はただトロップの元へ。ここへ来るまでにみんなと話し合ってそう決めた。
地面を強く蹴る。途端に周囲に生えていた結晶体が割れて中から黒い魔物が現れたけれど、私はそれに目を向けなかった。踏み締めた箇所から新たに現れる結晶体も、移動速度が上回れば影響は無さそうだ。だから真っ直ぐに駆け抜けた私がトロップの目前に迫るのもあっという間で——
「わたくしの予言はね、言葉にしたことが本当になるの」
でも、間近で目が合った女は、両手のひらをピタリと合わせて美しく笑う。
「エル。貴女はわたくしには届かないのよ?」
まるで小さな子供にでも言い聞かせるようなその言葉が耳に入った途端のこと。何故か急激に重くなった体がべちゃりと地面に落ちるのがわかった。そして息吐く間も無く視界を埋め尽くす、黒。
結晶体に囚われたのだと気付いて少しの息苦しさを感じながらも私は小さく呟いた。
「——エラ」
割れる。
叩き割ったガラスのように。弾け飛んだ結晶体が光を浴びてキラキラと散る。その中で初めてトロップのほんの少し驚いた顔を見た。




