二百
相変わらずネルイルは魔術を使わずとも十分強い。門のところで倒した二人の男は若そうに見えても一応騎士団の人間だったはずなのだけど。奇襲とはいえ魔術師である彼女はその内の一人を杖一本で沈めて見せたから。教会の魔術師は相変わらず凄いな、と改めて話をしながら私たちは貴族街を進んでいた。
しかし、すぐに目に入ってきたのは、ここは別世界かと思うくらいの悲惨な光景だったのだ。
「なんだ、これ……」
魔力の酸性雨にやられたなんてものではない。崩れた塀にひしゃげた門、荒らされた庭に崩れた屋敷。火が上がっている建物も一軒や二軒だけではない。貴族街とそれ以外を分ける防壁の外側からは気付けなかった異変がここでは数えきれないほど起きている。
道端に点々と落ちている赤。何かを引き摺ったような跡。その先にある黒い塊はバラバラに引き裂かれている。漂う腐敗臭は血の匂いとはまた別物で、思わず鼻と口を手で覆ってしまう。他にも明らかに何か人外の者に荒らされたとしか思えない貴族街は今、不気味なくらいシンと静まり返っていた。
「聖樹の結界が消えて魔物の襲撃でもあったのか?だけど貴族街だけってのは……」
言いながら貴族街を囲む防壁を見上げてみる。魔術師たちが空へ打ち上げる光に照らされた防壁は特に壊された様子も無い。だとすると貴族を標的とした襲撃だろうか。そんな意志を持った魔物がいるだろうか。思い付く奴らがいないわけではないけれど……と、周囲を見渡しながら少し歩いたところで人の足音のようなものが耳に入ってきた。次いで何かを叫ぶ声も。騎士団連中に見つかったのかと足を止めて腰の剣に手をかけて待っていると、強い衝撃音がした後に私たちの前に転がってくるものがあった。
短い金髪の男だ。身に纏っているのは所々破れて血が滲んだ見覚えのある騎士団の服。腰には鞘に収められたままの剣。幸い意識はあるらしく地面を血で汚しながらもなんとか起きあがろうとしている男は、突如自分を覆った影にハッと顔だけを上げた。
あれは、人、だろうか。
形は人そのものだが体の大半が黒い煙のようなものに覆われている。顔と思われる場所には白く塗りつぶしたような目が二つ、その下には開いたままのギザギザの口。私は咄嗟に子供の描いた絵みたいだと思ったけれど、動きはそんな可愛らしいものでは無い。
転がっている男の頭上に突然現れた黒いそいつは尖った爪を一纏めにして素早い突きを繰り出した。男は避けることも反撃することもできそうになくて、次の瞬間には額を貫かれて無残に殺されるかと思われたその時。地面から伸びた大量の植物によってその攻撃は阻止される。私の横にいたネルイルの魔術である。
「今のうちに早くこっちに!」
高く伸び上がった植物に絡め取られて身動きができず踠く黒いそいつを唖然と見上げていた男は、ネルイルが投げかけた声でようやく私たちの存在に気が付いたらしい。顔を歪めながらも起き上がってこちらへ駆けてくる男に私は見覚えがあった。
「誰かと思えば兄の方じゃないか」
「兄の方ってなんだ!間違っちゃあいねぇけど!俺にはアレングって名前があるわ!」
「殺されかけていたわりには結構元気だな」
「って、お前は……!」
グアァアア!!
兄の方――アレングが私たちの元へ辿り着いてすぐに辺りには獣の叫びにも似た声が響き渡った。視線を戻せば黒いそいつは体に巻き付いた植物を手で引き千切り始めている。ネルイルは魔術を緩めてはいないのに、このままではいつ破られてもおかしくはない。
こいつが何かは知らないが襲ってくるならここで倒してしまった方がいいだろう。そう思って剣を抜けば、横から伸びてきた手が私の腕を掴んで止めた。
「待ってくれ!」
何のつもりだと思わず男を睨みつけると、ギリと歯を噛み締めたアレングが絞り出すように話し出す。あの黒い何かは自分の弟なのだ、と。
「あれが……弟の方?」
「フラングだっ!」
どうやらこの双子の兄弟は兄をアレング、弟をフラングと言うらしい。顔を合わせるのはこれで三度目だがやっと名前を聞くことができたな。と、それはまぁいいとして、いったいどういうことだろう。明らかに人ではな動きをしている黒い何かがあの女好きな弟だと?
「お前も知っているだろ!あの変な道具!あれが割れて何かが出てきたと思ったら突然フラングがああなっちまったんだよ!」
「道具……ああ、なるほど、そういうことか」
思い返せば交信用の結晶体は私だけに渡されたものではなかったはずだ。私が最初に目にしたのも弟の方――フラングが使用していた時で、あいつは深く考えずに面白いと言って利用していたのを覚えている。アレングが心配していたような爆発はしなかったが、それ以上に危険なものだなんてあの時はまだ知らなかった。
「騎士団のみんなといたらただ殺されるだけだ!けど、まだわかんねぇだろ!元に戻す方法があるかもしれねぇ!」
「だからあれを引き連れてお前は一人でこんな所まで出てきたのか」
騎士団連中はまだ聖樹の根本付近にいるらしい。そこに留まっていれば弟は殺されてしまう。そんな理由で一人抜け出してきたアレングに思うところあるけれど、こいつの判断は結果的に希望を繋ぐものだと私は知っている。
ネルイルの魔術はもう限界だ。引き千切った植物を掻き分けて黒いフラングは今にも魔術を破って出てきてしまいそうな状況である。それを見て私は妙に静かに佇んでいるルトに目を向けた。名前を呼べば一瞬ビクリと肩を震わせた彼は、それでもすぐに私の意図を汲んでペンを取り出し宙に術式を描き始める。
「戻す方法は多分、ある」
「本当かっ!」
「それまで捕まえておくけどいいな?」
「っああ、頼む!」
その言葉と同時に素早く描かれた青白い術式のドラゴンが二体、ルトの元から飛び立った。二体とも人間の子供くらいの大きさだが黒いフラング一人を押さえておくのには十分だとルトも判断したのだろう。掻き分けた植物の中から飛び出したそいつがボトリと一度地面に落ちた瞬間、ドラゴンたちが上からのしかかれば、またもや身動きが封じられて今度は苦しげな叫び声を上げていた。
「少し手荒だけど、ごめんね……!」
「お、おい、殺すなよ!?」
手足や頭、胴体と押さえつけられた黒いフラングを見て心配そうに情け無い声を出すアレングは一旦放っておいて、私は座り込んでいたネルイルに手を差し出した。万全では無い今の私は、必要な時まで極力前に出るなと二人に言われてここにいる。だからこうして頼ることになってしまったけれど、手を取って立ち上がった彼女は深呼吸をしてから得意気に笑うのだ。
「見たことない敵だったからちょっとびっくりしちゃったけど、あたしだって少しはやれるんだから。でも結局破られたのはダメね。改善しないと……!」
意気込んで両手をグッと握りしめた様子は頼もしい限りである。次はもっと上手くやるからとやる気満々なネルイルには少し笑って、さて、と私たちはアレングに向き直った。
「あれがお前の弟だと言うのなら、黒い魔力の持ち主を消せば元に戻る……かもしれない」
「それって……」
皆まで言わずとも私が何を言いたいのかをアレングは察したようだった。一瞬向けられた鋭い視線は敵を見るそれだけれど、すぐさま頭を横に振った彼はそのまま地面に目を落とす。
「……悪い。助けてもらったのは俺の方だ。今更俺にお前たちを捕える権利は無いな」
騎士団の仕事よりも弟の無事を願うか。この男も見た目通りまだまだ若いなと思いつつも、私はその言葉を割と好意的に受け取っていた。ならばと幾つか質問を投げかければアレングは素直に口を開く。
これは聖樹の結界が消えた時のこと。第二王子ペールバルクの計画で新たな結界を生成することになっていた騎士団は、その瞬間予定通り事を終えたはずだった。しかし一度は王都を覆った新たな結界は聖樹の上から降りてきた黒い鳥の魔物に容易く破壊されてしまう。
それから事態は悪化の一途を辿った。
黒い鳥は街に解き放たれ、それとは別に大量に現れた黒い人型の何かに騎士団を始めとした貴族たちが襲われ始めたのだ。いったいどこから湧いてきたのか誰も何もわからず戦っていた最中、アレングは弟が苦しみ出す様子を目撃してしまったらしい。足元に落ちて割れていた結晶体から溢れ出した煙のようなものに覆われ、フラングは黒く染まったのだと。
「何なんだよあれ!フラングが変わっちまったってことは、現れた他の黒いのも全部元は人間なのか!?あんな大量に!?そんなのいったいどこから湧いてきたってんだよ!!」
取り乱すアレングの背をネルイルが摩る。その顔は何かを考えているようで、先程から様子のおかしいルトも同じく難しい顔をしていた。もしかしたら二人には心当たりがあるのかもしれない。そう思って交互に見ていると、気が付いたルトが恐る恐るといった様子でとある場所のことを語ってくれた。
大量の培養器に入れられていた人だったものを見た。そしてこれはそれを聞いたアスハイルが立てた仮説だというが――私たちも何度か襲われたミカエルの矢を名乗る犯罪集団が少し前からパタリと姿を消していたのだという。もしかしたら使われたのはそいつらなのではないか、と。
「あの別荘の地下に、そんな、場所が……?」
話を聞いて思わずゾッとしてしまう。私も一度は訪れた場所だ。あの女は何食わぬ顔でいつも通り美しく笑っていた。
「そんなの、可笑しいだろ……人の命を何だと……じゃあ、フラングもあいつの研究に上手く使われたってのか!?――なぁ!本当に元に戻るんだよな!?生きて戻ってくるんだよな!?」
「ちょ、貴方、落ち着いて……」
「これが落ち着いていられるかッ!!」
私のローブを雑に掴んで震えながら叫ぶアレングにかけてやれる言葉がない。
生きて戻ってくるのか、なんて。私だって知りたいよ。エラは助けられると言ったけれど不安が無いわけじゃない。
でも、だからこそ、やれることをやるしかないと思うのだ。不安だからこそ進むのだ。ガシリと男の腕を掴み返すと、相手が一瞬息を飲んだのがわかった。
「ここで狼狽えていたって何も解決しない。アレング。お前にも手伝ってほしいことがある。――まだ、動けるか」
ジッと見つめた先でその男は震える口を引き結んで、そうして小さく頷いた。




