百九十九
図書館の外は黒い雨が降っていた。実際は空が黒いせいでそう見えただけなのかもしれないけど。雨音が響いてこないのは、これが全て雨ではなく一粒一粒が魔力の塊だからなのだと、しばらく空を見上げてようやく気付く。
差し出した手の甲に触れたその粒はスゥと流れて音も跡形も無く消えてしまった。残ったのはヒリヒリとした痛みだけ。どうやらこの雨は微かではあるが酸のような性質を持っているらしい。なるほど、広い範囲で建物の護りが必要な理由はこれか。
「体の方は大丈夫そう?」
「うん。術式も問題なく機能しているよ」
「それならよかった」
ライブラとまた入れ替わりでやって来たルトに術式を改めて手の甲に描き直してもらったことで私はようやく自由に動けるようになった。今はなるべく肌を出さないようにローブのフードを目ぶかに被って図書館の扉の前でルトやネルイルと共に外の様子を窺っている。
ここにいると中にいた時よりも街の音が鮮明に聞こえてきて、少し離れた場所からは鈍い破壊音が絶えず響いているのがわかった。きっと勇者パーティを含めた冒険者たちが黒い鳥と戦っているんだ。この暗闇の中で黒い相手といったいどうやって……という私の疑問は、次の瞬間に街の空に打ち上がった魔術の明かりで解消された。
「街に散らばった魔術師たちが定期的に魔術で空を照らすようにしているのよ。この闇の中じゃまともに移動もできないし、相手の姿も見えないもの」
「これもダフディラートの考えか?」
「ええ。騒動が起きてからすぐに殿下の肉声が街中に響き渡ったの。あれ程の魔術はそう何度も使えるものじゃないでしょうから今のところ最初の一度きりだけど。そこで幾つか指示が出されたのよ」
「魔術師たちはその声を信じて従っているのか、凄いな……」
いくら魔術があるとはいえ、あまり顔も知られていない王子がたった一度でそんなに人の信頼を得られるものなのか。正直信じがたいのだけど。
私がそんなことを考えている間にも、先程打ち上がった光はある一定の高さまで上がると徐々に薄れていきながらゆっくりと落ち始める。ひとつではなく二つ目、三つ目と別の場所から立て続けに上がった明かりで街は一時的だがかなり明るくなっていた。
「そうは言っても細かい連携にはやっぱり人が動かないといけないから、施設や組織ごとに伝令役を走らせているけど――ほら、来たわ」
そのネルイルの言葉と同時に開きっぱなしの門から馬に乗った何者かが図書館の敷地内に飛び込んできた。
ローブを身に纏ったその人物は、素早く屋根のある場所に滑り込むと慣れたように馬から飛び降りる。手綱を適当な場所に結び、図書館に入るのかと思ってなんとなく目で追っていると、そいつは何故か歩いて来て私の前に立ったのである。
「まさか……こんなところにいるなんて……」
「ん?その声は……」
被ったフードでわかりづらいが、よく見ればそいつは街の南の学舎で教師をしていた爺さんの息子のマゼインだった。彼は魔力も無く魔術も使えない平民だったはずで、この酸性雨の中では身を守る術を持っていないと思うのだけど。そんな奴が伝令役なんて大丈夫なのだろうか、と静かに驚く私にマゼインは一度口を引き結んでから被っていたフードを下ろした。現れたのは頭から流れる血に濡れた傷だらけの顔。こちらが何があったかを問う前に彼は自ら話し出した。
「魔物が南に。教会の魔術師様方が勇者と共に応戦してくれています。その、他に動ける者がいなかったので、私が……」
体の横で握られた拳が震えているのが見えた。彼の姿とこの様子を見れば戦況は良くないことは嫌でもわかる。応援を要請しに来たのだろうに、私を見て言葉を詰まらせるマゼインの目からはどこか迷いが感じられた。
「ごめんなさい。あたしたちはこれから王城に向かわなければならないの。だから応援は他の人たちに――」
「これは、キミの仕業なのか……?」
この時のマゼインはネルイルの言葉も耳に入っていないようだった。ただじっと私を見下ろしていて、目が合うとまた口を引き結ぶ。
彼の言うこれとはやはり今の状況のことなのだろう。つまりマゼインは街に黒い鳥の魔物を招いたのはお前なのかと問うているのである。
肯定するのは簡単だけど、私はそうはしなかった。
「どうしてそう思うんだ?」
「……ここに来る前に通った門で騎士団の方がキミを探していました。首謀者だと」
「へぇ」
平民の多い南が危険に晒されているこの状況で犯人探しか。騎士団はよっぽど暇らしい。奴らは第二王子であるペールバルクの指示で聖樹の根元に集まっていたはずで、もしかしたら今もその延長線上で動いているのかもしれない。
しかし、だとするとダフディラートと騎士団は別に考えるべきなのか。
そもそも首謀者と名指しで私を探しているということは、私が生きていることを知っている奴が騎士団を動かしているのはずだ。そんなのどう考えてもあの女しかいないだろう。
考え込む私を心配そうに見ていたルトとネルイルには「大丈夫だ」と返してから私は再度マゼインを見上げた。この男は私と最後に会った時のことを覚えているだろうか。そんなことを頭の片隅で思う。
「肯定したらお前は私を騎士団に突き出すのか?」
「それは……」
言葉を切って、少し考える様子を見せ、そして首を横に振る。数日前までのマゼインならば考えるまでも無く頷いていたはずなのに。何がこの男を変えたのだろう。
「…………アポリアが、」
それは彼と共に学舎で教師をしていた女の名だ。確か幼馴染だと言っていた。黄土色の目と髪を持つ気の強そうな女だった。微かに震えた声から彼女に何かがあったことは窺えるが……まさか。
「いえ、その、息はあります。でも、目を覚まさなくて」
と、マゼインは掻い摘んでこれまでの出来事を話してくれた。
自分たちの街が壊されていく。犠牲者もたくさん出ている。その状況下で平民たちが真っ先に頼ったのは魔術だった。そして魔術師だった。
元々魔術師である爺さんや駆けつけた教会の魔術師に縋り付く者がいて、誰もが魔術を使えるようになると謳っていたトロップを探し始める者もいた。かくいうマゼインもその中に混ざっていたそうだ。それが当然と思い込んで。
アポリアはそんな彼を遠慮なく一発ぶん殴って言ったそうだ。貴方は何もしないのかと。目の前に怪我人がいて、助けを求めている人がいて、動けるはずの貴方まで助けを求めてどうするのだと。
しかしそのすぐ後に彼女も魔物との戦いに巻き込まれて重傷を負ってしまった。しかもそのまま意識が戻らない。
「ぐったりと動かない彼女を見て……私は、真っ先にトロップ様を探してしまったのです。すぐにそんな自分が恐ろしくなった。あの時一番近くにいたのは私だったのに、血に塗れた彼女に手を伸ばすよりも先に……私は……」
そうしてマゼインの中に残ったのは後悔と、罪悪感と、それから自分に対する疑念だったのだ。
「私は、私の、大切な人の護り方すら、知らなかった……もう、あんな惨めな思いは、嫌だ……っ」
片手で目元を覆うマゼインの悲痛な声が溢れてくる。重傷を負った幼馴染を見てこの男が何を思ったのかは私にはわからない。けれど、アポリアの言葉が彼の考えを少なからず変えたことだけは伝わってきた。
大切なものは失って初めて気付くとはよく言ったものである。今は本当に失わないように、さっさと騒動を収めなければな。
「戦えそうな奴がいたら南に向かってもらえるように私も頼んでみるよ。今はそんなことしかできなくて悪い」
「あ、ありがとう。えっと、キミたちは王城へ向かうのでしたね」
「うん。この騒動にけりを付けてくるから」
「――っはい、はい……!どうか、気をつけて……!」
そうして私たちは、ライブラにも話がしたいというマゼインに見送られる形ですぐさま雨の中に飛び出した。魔物が南にいるという情報が入ったおかげで鉢合わせずに動けることがわかったからだ。
それに、図書館から貴族街へ入る門はすぐ近く。マゼインの話が本当ならば、ここから先に立ちはだかってくるのは騎士団連中に違いない。私の居場所が奴らに気付かれる前にこちらから奇襲を仕掛けた方が進みやすいというものだ。
その後、見えた門の両脇で佇む二人の騎士団員を私とネルイルで一人ずつ、意識を刈り取るのに要した時間はほんの僅かなものだった。




