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放浪のエル  作者: ゆう梨
第五章
198/212

百九十六



 痛い。熱い。痛い。苦しい。痛い。気持ち悪い。痛い。



 胸の奥から泥でも溢れてきているのかと思うくらい、重く気持ちの悪いドロドロとした嫌な感覚があった。そのせいで呼吸もままならず、まるで沼の底に沈められているかのよう。込み上げてきた吐き気に堪らずえずくとその衝撃で全身に激痛が走った。


 

 痛い、痛い、痛い、熱い、寒い、息が、できない――



 しろ、と思わず助けを求めた光は、もう、どこにも感じられない。









 





 



「――エルッ!!」


「っう、ぐ……」



 脳を直接殴られたような大声に私の意識は否応無く浮上させられた。どこかで聞いたことのある声だ。いったい誰だろうかと重たい目蓋を上げようとして、また体に走った激痛に思わず自分の体に腕を回して小さく蹲ってしまう。


 横たわっているのか触れる地面が酷く冷たく感じられた。薄らと開けた視界に映ったのは青白い術式の光。ルトのペンで描かれたものだとは思うが、何度も何度も側で私の名を呼ぶのはまだ幼さの残る女の声だ。なんとか目だけを動かして声のする方を見ると、汗で肌に張り付いた髪の間から赤髪の少女が私を見下ろしているのがわかった。



「エル!意識が戻ったのね!」


「ぐ、っ、」


「ああっ、ダメよ!動かないで!」



 地面の術式とは別に向けられている手の平に見える水色の光。これは魔術師の中でも使える者の少ないという回復魔術だ。この魔術が使える人間を私は今のところ一人しか知らないわけで、どうやら私は彼女の治療を受けているらしいと理解する。



 いったい何があったんだっけ。どうして私は意識を失っていたんだっけ。この体の痛みは。この気持ち悪さは。そもそも私は何をして――



「…………あ、れ……?」



 あるはずのものが無い。

 私の内にあるはずの、シロとの契約の魔法陣。


 シロが消えても残り続けていたはずなのに。だからこそ私は不安もなくここまで来れていたというのに。恐る恐る胸に当てた手のその先に優しい光を放つ魔法陣の感覚が綺麗さっぱり消えていて、理解した途端に世界の音がプツリと消えて無くなった気がした。


 

 無理矢理起きあがろうとして地面に着いた手は血で赤く染まっていた。力が入らなくてすぐに倒れ込んだ地面にも。咳き込めば口からも流れてくる。そういえば胸を何かに貫かれたんだった。けれど、触ってみても傷はない。


 

 ――なに、が、おきて、る、の、?



 何もわからない。何も聞こえない。側にいるはずの彼女が横から肩を掴んで何かを叫びながら私を揺すっているようだけど、それすらも頭に入ってこない。まるで頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられているかのようで思考が全く定まらない。考えなければいけないことはたくさんあるはずなのに。この時の私はただただ呆然とその場に座り込むことしかできなかった。


 そうしている内に焦燥感だけが胸の奥から湧き上がってきて、次第に呼吸が荒く早くなる。何も聞こえないくせに頭の中で鐘の音が激しく鳴り響いている気さえする。


 

 うるさい、わからない、どうしよう、どうすれば。



 焦りはあるのに考えることができなくて、呼吸が上手くできなくなってきて、苦しさのあまり前屈みになっ私は加減も分からず喉元を抑える。苦しい、苦しい、くるしい、くるしい……


 

 やがて霞み始めた視界の中に、ふと映り込んだ光があった。



 手の平に乗るくらいの小さな光だ。背には二つの翼があって、尻尾もあって、長い首の先には小さいながらに厳つい頭がついている。それが視界に入った途端頭に浮かんだのはちまっとした小さな時のシロだけど、よく見ればそいつは青白いドラゴンだ。



「エル、一旦落ち着こう。大丈夫だから」



 気付けば耳が音を拾うようになっていた。すぐ近くから聞こえたのがルトの声だということも理解できた。背中を摩ってくれる手の感触もある。



「ゆっくり息を吐いてみて」



 言われた通りに息を吐いた。時間をかけてゆっくりと。吐ききってから息を吸って、また同じように吐いていく。


 それを何度か繰り返している内に呼吸は徐々に落ち着いてきた。ぐちゃぐちゃになっていた頭の中も少しすっきりしたように感じられる。強張っていた体の力も抜け、まだ痛みはあるけれど、もう大丈夫だ、と自分でも判断することができた。



「……ありがとう、助かった」



 思った以上に掠れた声が出た。それでも顔を上げた先にいたルトは「よかった」と言っていつも通りに笑うから、不格好でもそれに笑い返すくらいの余裕も少しずつだが戻ってきたようだ。



「とにかく今は絶対安静。だから、そのまま聞いて」



 私の横に座り直したルトは、僕たちのことは一先ず置いておいて、と前置きをしてから話し出した。




 

 それは、夜明けと共に始まったのだという。


 空を覆っていた分厚い雲が一瞬にして晴れたかと思えば、太陽が昇る直前の明るみ始めていた夜空が突然黒一色に塗りつぶされてしまったのだ。王都の道に設置されている街頭は軒並み壊れて使い物にならなくなったせいで一度街は闇に沈んだ、と。


 当然多くの民は眠りについている時間帯だ。すぐに異変に気が付いた者たちは少なかったというが、その状況は一瞬で変わる。



「巨大な黒い炎の鳥が、現れたんだ」



 息を飲む。


 意識を失う直前に見たシロの火が黒く変わる瞬間を思い出した。



「昔は鳥の鳴き声を朝の目覚ましに利用していたって聞いたことはあるけど……今回のあれは少しやり過ぎだよね」


「こんな時に冗談を言っている場合じゃないでしょう……」



 ルトの言葉を冷静に指摘しながら私の目の前に座った赤髪の少女は、少し前に共に旅をした教会の魔術師兄妹の妹の方、ネルイルだった。彼女は側に転がっていた杖を近くに引き寄せると、また私に手の平を向けて回復魔術をかけ始めてくれる。おかげで少し体の痛みも引いて、私は思わずほうっとため息をついた。



「ネルイルも、ありがとう」



 おかげで意識が戻った。ここは王都だから居ることはわかっていたけれど、まさかこんな形で再会することになろうとは。意識を失っている間ずっと声をかけ続けてくれていたのもネルイルだということはわかっている。だからと素直に礼を告げれば、彼女はムッと口を曲げてジトッとした目で私を見た。

 


「貴女、あたしの声は聞こえないのに、ルトの声は聞こえるのね。一緒にいる時間が違うから仕方がないのはわかるけど、ちょっと傷付いたわ」


「えっ……なんか、ごめん」


「……いいえ、ごめんなさい。今のは無し。ただ、凄く心配したことだけは知っておいて。意識は無いし、血塗れだし、胸に穴が開いていたし。こんな再会望んでないわよ、もう」



 そう言って目を逸らした彼女の手は微かに震えていて、どれだけ心配をかけさせたのかが伝わってくる。

 

 せめて王都に着いてからすぐに教会に顔を出していれば。ネルイルたちにシロのことを相談できていたら。こんな再会にはならなかったかもしれない。今更こんなことを言っても仕方がないのはわかっていても真っ先に彼女たちを頼らなかったのは私だ。人を頼ることを選択肢から除外してしまうのは私の悪い癖だと教えてくれたのは彼女たちなのに。私はまだまだ未熟な子供だと改めて思う。


 そうして重い空気になりかけたところに「話を戻すよ」とルトが入ってきて私はそちらに視線を戻した。



「現れた黒い鳥が暴れ出したんだ。その結果、半日もしない内に街は滅茶苦茶だよ。幸い王都には大きな組織と建物が幾つもあるから今はそこを避難所として使っているんだ。魔術師は総出で各施設の護りに回っている」


「王都を護っていた結界が消えたの。それだけならまだやりようはあったかもしれないのに、そこに手の付けられない巨大な魔物が現れて街中が混乱状態に陥った。……犠牲者もたくさん出してしまったわ」



 王都は教会のお膝元と言ってもいい。ネルイルの他にも優秀な魔術師が多く所属しているはずで、その本部があるこの王都で大勢の犠牲者が出たのはそれだけ相手が強大だったということなのだと思う。


 そういえばと辺りを見渡せば、今私たちがいる場所には見覚えがあった。図書館のエントランスホールである。どうやらこの図書館も避難所になっているらしい。聖樹の頂上にいたはずの私がここへ辿り着いた経緯も気になるが……と姿の見えない精霊たちを探してなんとなく視線を彷徨わせていたところで、少し震えたネルイルの声に名を呼ばれて彼女を見た。



「……あれは、何?」



 ネルイルの言いたいことはわかる。


 黒い炎の鳥。色は違えどそれを私と結びつけてしまえるだけの情報が彼女にはあって、だからこそ私を疑わざるを得ないのだろう。私はまだこの目で直接その鳥を見たわけではないから確かなことはわからないのだけど、でも、ひとつだけ言えることはある。



「幻獣が転生したんだ。あの女の悪意の介入を受けて」



 ――トロップ・ラトリッチ公爵令嬢。


 

 ああ、本当に、見事にしてやられたよ。あの女は私の嫌がることが正確にわかっている。ここまで来ると怒る気さえ湧かないくらいの完敗だな。と、乾いた笑みを浮かべる私に二人が息を飲むのがわかった。



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